第3話 路地裏に聖女――3
「っ、翼さんストップ!!!」
「ぉわあっ」
後ろから肩をぐいっと引かれ、翼の足が止まる。
「勝手に飛び出さないでください……! 彼女がどんな術を繰り出すかわからないのに……!」
「いやー術使われる前に仕留めちゃえば問題ないかなーって思いまして」
「簡単に言わないでください! って言うか、それがどれだけ難しいことか一番わかってるの翼さんですよね!?」
斬って殺せば討伐できるのが鬼人種だが、それがいかに困難であるか。退魔士ならば誰だって知っている事実だ。
「あの」
と、修道女の少女が申し訳なさそうな、だが同時に少しの怒気を孕んだ声を上げた。
「私たち、今から食事の時間なのです。少々の間、静かにしていただけませんか?」
「いいえ、それは無理です」
次に前に飛び出したのはレインの方だった。
「その方々は死亡しているようですが……ここであなたの蛮行を見逃すわけにはいきません」
「それは私も同意ですねぇ。目の前で鬼人種が悪逆非道を働くのを見てると、どーも嘔吐感に苛まれると言いますか」
二人が宣戦布告ともとれる言葉を発すると――路地裏の空気が張り詰める。
まるで全身に針を突きつけられたかのような殺意が、目の前の少女から発せられる。
「そうですか……」
ゆらりと、少女が祈りの指を解く。
「食事は心地よく行うべきものです。それを邪魔する不届き物は、排除してしまいましょうか、兄さん」
風もないのに、少女のスカートが揺れた。
刹那――――翼の視界が横転する。その直前にレインが何かを叫んだような気がしたが、聞こえなかった。
視界がぐらぐらと揺れる。鼻の奥がつんと鈍く痛む。頭を強く打ったんだ、と直後に理解する。
目の前に、何かが接近する。肌で命の危機を感じ取り、ほとんど勘だけでアスファルトを転がった。その勢いをつけて起き上がると――同時に二つの衝撃の光景を目の当たりにした。
一つ――少女の纏うスカートの裾から、およそこの世のモノとは思えないモノが伸びていた。
タコの足のような何かが何本もスカートの裾から顔を出していた。タコのソレと違うところと言えば、吸盤に該当するものがなく、太さはそばに立っている電柱より太い。
さらに言うと――その表面は、人間の皮膚と血と内臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような色をしており、太い血管のようなものが脈打っていた。
触手。そうとしか言えない。
とある神に仕える者が纏う服と、
認識阻害系の術を使っている、とレインは語った。
――それはきっと、
こんなものを目の当たりにして、正気で居られる人間なんて限られている。数々の鬼人種と対峙してその多くを葬って来た翼でさえ今すぐここから逃げ出したくてたまらないのだから、不運にもこれを見てしまった人間がどうなるかなど、想像に難くない。
それから――もう一つ。
「レインさんっ……!?」
アスファルトに、大きな血だまりを作って横たわっているのはレインだった。
レンズの割れた眼鏡がそばに転がっている。レインは、真っ赤に染まった脇腹を押さえながら苦悶の表情で浅い呼吸を繰り返していた。
――どうしたら。
恐らく、あの触手にやられたのだろう。
――どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい? どうしたらいい?
頭は驚くほどに回らない。次の行動が何も浮かばない。
「ふふっ、ようやく静かになりましたね。そちらの鬼の方はもう動けないようですし、人間のあなた様は――何もしてこないようですね」
彼女の口元は、笑みで満ちていた。
「さて、兄さん。早く食べてしまいましょうか」
スカートの裾から伸びる触手が、店先に転がった二人の死体に伸びる。
触手の先が器用に死体の足に絡みつくと、少女のスカートの中に引きずり込まれた。
もぞもぞとスカートが動きながら、その奥から「ごりごり」「がりがり」「ぬちゃぬちゃ」と聞きたくない咀嚼音が耳に届く。
「ふふっ、お腹が空いていたのですか兄さん? そんなに急がなくてもお食事は逃げませんのに」
朗らかに、歌うように少女は笑った。
一滴の血も、一欠けらの骨も、一
「あら兄さん、まだ物足りないのですか?」
口元に手を当てて少女が笑う。
「それじゃあ、おかわりしましょうか?」
こつ、と靴音を立てて、少女がアスファルトに転がるレインに歩み寄った。
ゾッ、と背筋が凍る。
レインは虫の息だが、まだ生きている。生きたままあの触手に捕らえられ、生きたまま骨や肉を噛み砕かれる。
そんな残虐な未来が翼の脳裏に浮かんだ。
「っ、……にげ、て」
レインが、掠れた声を上げる。
「早く……逃げて、ください」
口の端から血を吐き流しながら、レインは翼に逃げるように促す。
「っ……」
その言葉に、その声に、記憶の底から
――血だまりの広がったリビングと逃げるよう叫ぶ母の声。
――翼と翼の母親を庇った父は死神によって殺された後だった。
――死神の刃に胸を貫かれた母親は、■きたまま■■を引きずり■されて■■■■。
後半はその記憶を脳内で再生することを翼の理性が拒んだ。
弾かれたように翼がアスファルトを蹴った。
素早く抜刀して、レインに伸びようとした触手を切り落とす。
「あ――……」
少女は、触手の一本の感覚がなくなったことに疑問を抱き――二秒の間ののちに昇って来た
「ああああああああああああああああああああああ!!!! 兄さん!!!! 兄さんがぁぁ!!!!!!!!」
「あっははぁ~兄さん兄さんって、居もしない御兄妹の幻覚でも見てんのかな~って思ったら、その気ッ色悪い触手のこと自分のお兄ちゃんだと思ってたんですねぇ~~~~!?」
「はァ……? 今、何と言いましたか?」
「でぇすぅかぁらぁ~そのどっからどう生えてんのかよくわからん触手ですよ、それそれそれ。そいつのことお兄ちゃんだと思ってるんですよね? ウケる、マジ」
嘲笑交じりの声で笑いながら指摘する翼に、少女は顔を真っ赤にし、言葉にならない叫びを上げながら触手を振り上げた。
「おっと~」
それを、刃で軽々斬り裂く。
刀一本の力で易々斬れる程度の硬度か、楽勝楽勝、と鼻で笑っていたが――触手はあろうことか断面からぐちゅぐちゅと不快な音を立てながら再生した。
「あ~やっぱそう来る感じですか~」
霊気がある限り再生可能。
で、あれば――
「
次々と迫り来る触手を斬って捨てる。その度に少女は苦悶の叫び声を上げた。
「
目の前の少女は、触手を振り回しながら後ずさりする。確実に相手は消耗している。もう少しで殺せる。
だが、唐突に少女が指を組む。祈りを捧げるかのように頭を垂れていた。
まるで、首を差し出したかのようにも見えるその姿に、翼は迷わず斬りこもうとして――――一歩進むことができなかった。
「ダメ……です、もう、……戦わないで、ください」
アスファルトにて倒れるレインが、翼の足を掴んで引き留めていた。
「へぇ?」
「逃げて……ください」
レインが翼の足から手を離す。――いや、力尽きて、レインの手が力なくアスファルトに落ちた。
「……――――」
頭が冷えていく。
足元にいるのは、翼も見慣れた途切れかけの命。その命が翼も良く知っている者のそれだという事実が、半狂乱から現実へと翼の意識を引きずり戻した。
それまで曇っていた頭と視界が開ける。久しぶりに焦点が合った気さえする両目が捉えたのは――眼前に迫る大きな触手だった。
それが翼の顔面に風穴を開ける未来が嫌でも見えてしまった。反射的に柄を握る手に力が籠る。迫り来る触手に翼が反応できたのは、それだけだった。
だが――翼のもとに触手が届くことはなかった。
「――――ッ!!!???」
真横から飛来した黒い槍が触手を貫き、電柱に縫い付けた。
少女は、渾身の霊気をその一本の触手に籠めたのだろう。もう、他の触手は動かない。
「
かつん、かつん、というヒールの音と、低い青年の声。
暗がりの中で翼がその方向に視線をやると――翼より頭一つ分以上高い長身が、白と黒の地雷服を着て歩み寄っていた。
無機質な街灯の白を反射する銀髪は、作り物っぽさを一切感じさせない。
「それと、そこでのびてるのはウチの監視官?」
こちらに寄こす視線は紅い。
顎にかけた黒マスクと流行りの化粧。そして、どう聞いても男の声。
「聞いてんだけど、そこの退魔士」
「えっ!? は、はい。多分、まだ生きてらっしゃるかと……」
返事をした直後、翼の視界がぐらりと揺れる。
――あぁ、そう言えば、頭打って、ヤバいモン見て……気がおかしくなって……
触手を引きちぎったのだろうか、修道女の少女はどこかへ逃げたらしい。
急激に、ついこの数分に起こった出来事が束になって翼へと襲い掛かって来た。
トランス状態になっていたせいで鈍くなった痛みが蘇り、記憶にこびりついた気色悪い触手の表面を思い出して、気分が悪くなって目が回る。
最後に見えたのは、視界いっぱいの星のない空だった。
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