第2章 Lower one's eyes
第1話 路地裏に聖女――1
「お願いします。僕の妹を助けてください」
青年が、白いベールを被ったカウンセラーを前に指を組んで頭を垂れた。
「僕の妹は、もう歩くことも喋ることもできないんです」
ベールのカウンセラーは、笑みを口元に浮かべたまま青年の言葉に耳を傾ける。
「妹がまた、幸せに暮らせるなら僕のはそれでいい。ですから、妹を助けてください。差し出せるものは何だって差し出します。お金でも、僕の命でも――――」
青年が涙ながらに訴える。
何としても妹だけは助ける、という意思を強く持った声。
「それがあなたの望みですか?」
カウンセラーの柔らかな声に、青年は力強く「はい」と答えた。
「かしこまりました。『
◆
五月十二日。
今日は日曜日。天気は雨だ。
夕方六時、分厚い雨雲が空を覆う淀代は、日没前だというのに不気味なほどに薄暗い。
『宰都特殊警備』の事務所で、箱崎翼は頬杖を突いて窓を打つ雨粒を眺めていた。
「そうだレインさん、暇つぶしに並行思考ゲームしません?」
「へいこう……何ですか?」
事務所内でお茶を飲んでいた張・レインが翼の言葉に顔を上げた。
「まぁまぁ、説明するより前にとりあえずやってみましょうか。私が問題を出しますので、それに答えてください。わからないときは『イエス』か『ノー』で答えられる質問をしてくださいね」
並行思考ゲームが何なのかよくわかっていないレインをよそに、翼は問題を出題した。
「問題! とある5人家族がいました。朝、学校に通う子供たちは全員学校へ行き、共働きの両親も職場へ行きました。しかし家には一人います。なぜでしょう?」
「……えっと、今のが問題ですか?」
「はい、そうですよ」
「んっと……五人家族で、お子さんが学校に行って、それで親御さんもお仕事に向かったんですよね? それで誰もいないはずの家に一人……空き巣に入られた、ですか?」
「違いますね」
「空き巣じゃない……ですか。うーん、家族に認識されていない一人がいる、とかですか?」
「そういうわけでもないですね」
「えっと……わからないです」
「じゃ、何か質問してみてください。気になったこととか、まぁ適当に思いついたことでいいんで」
「うーん、じゃあ、家にいる一人は人間の方ですか?」
「はい、そうです」
「人間、ですか……じゃあ鬼人種じゃないんですね」
「んっ!? い、いいえ、まぁこれは別に鬼人種一家でも話は成り立ちますかね……」
何ともややこしい状態になってしまった。ネットで見かける並行思考ゲームの出題者と回答者は、「鬼人種という存在はいない」という前提を当たり前としているから、全く違う前提を持った者でやるとちょっと変な齟齬が生まれてしまう。完全に盲点だった。
「わかりました! 家にいるのは鬼人種一家が飼っている家畜の人間ですね!? 昔よその国でそういう事件があったんですよ」
「違う! 違います! そんな物騒な話じゃないです!!」
やっぱ前提が違うと問題に支障が出てしまうのだった。
「あーじゃあ前提を変えますね。この問題の世界には鬼人種は存在していません」
「私たち『情統局』が求める世界ですね」
「し、思想……!!」
あれ? おかしいな、と翼は苦笑いする。
いつもなら翼が暴走してレインがそれを止める役回りなのだが、今日に限っては逆転している。これがレインのいつもの気持ちか。
「と……とにかく、です。普通の人間しかこの世界にはいません。その前提で答えてください」
「普通の……普通の人間……普通の社会……普通の世界……」
「あの、そこまで気を張らないでくださいね? これただの並行思考ゲームですからね?」
思いつめたような顔をするレインを宥める翼だった。
「そうですね……家の中にいる一人は、きっと学校に行きたくても行けなかったんだと思います。学校に問題があったのか、はたまた両親がそれを許さなかったのか。いや、経済的な理由かもしれない。わかりましたよ翼さん、家にいる一人は不登校の子供なんです。それは普通の事じゃないかもしれませんが、事情があって学校に行けない子どもたちはたくさんいるのが現状です。それはつまり――『普通』のことなんです。そうですよね? 翼さん」
「誰か助けて!!!!!!」
――違う……! 違う……! こういうことがしたかったんじゃない……!!!
「なんでただの並行思考ゲームが社会問題に発展してるんですか!! もっと穏やかな話です!!」
「あっ、……すみません、その、私、普通の暮らしっていうのがよくわからなくて……」
「なんかごめんなさい!!!」
そう言えば、翼は彼女が淀代に来る前、どんなことをしていたのかを知らない。『情統局』に入るには鬼人種としての百年の生存が必要らしい。新米監視官のレインは、百年少し生きていることだろうが、それまでの百年間は一体どこで何をしていたんだろう。不意に、そんな疑問が湧いた。
「もう答え言ってもいいですか?」
「はい、すみません。私にはわかりませんでした」
「答えは残った一人が定年退職した祖父だから、です。まぁ祖母でもいいんですけど」
「あー、なるほど」
と、随分あっさりした返事を返した。
「……なんか、あんまり面白くなかったですかね」
「え、いいえ。久々に頭を使ったので、良い機会でしたよ」
満面の笑みを浮かべて、レインがそう言った。その笑みに嘘はない。満足していただけたようだ。
「そうですかぁ。他にもネットとか探せば問題たくさんありますし、暇なときにでもオススメですよ」
並行思考ゲーム――別名「ウミガメのスープ」を楽しんでいるうちに、時刻は十九時になろうとしていた。そろそろ仕事の時間だ。
雨が止む気配はない。
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