6章(4)再会したワンコ、まさかの拒絶

(そんなことはないと思いたい……)

 祈るような気持ちでうつむいたとき、ふうっと軽くつむじを吹かれて、彼女はびくっとした。


「何をぼんやりしている」

 当人には何でもない程度のものだったのだろう。けれどもそれは結構な風になって近くを歩いていた者のスカーフまでがそよいだ。

 なに? と通行人たちが不審がっている。いきなり風が起きたようにしか感じられないのだ。


「ワイス!」

 彼女の脇には、いつのまにか白く大きな狼が寄り添っていた。大きな声で名を呼んでから、周囲に変に思われると慌てて、ごほごほと咳き込んだふりをした。風のおかげで不自然ではない。


 何をしている? とワイスは首を傾げてから、ふんと大きな鼻息をした。

「おい。約束は朝じゃなかったのか。もうそろそろ昼になるぞ」

 イヌ科の時間感覚は正確だ。案の定、不機嫌になっている。

 かなり待たせたのは間違いない。狼の頭に街路樹の葉と花びらが積もっている。


 この積もった枯れ葉は周囲の人にどう見えているのだろうか、と思いつつも、とても突っ込めない。

「ごめんなさい。伯父様に掴まってしまって。なんとか抜け出してきたのよ、これでも」

 小声で言い訳する。


「はっきり喋れ。何を小娘のような」

(小娘ですが……)

 どうでもいい文句をつけてから、ああ、そういえばお前がやってきたとき、多少血なまぐさかったな、とわかったようなことを言うので、ベルナデットは笑みをこぼした。


「いやね。そんなわけないでしょう。騎士だからって、いつも誰かと戦っているものではないのよ」

 そうか? とワイスは欠伸をする。待つ間、うたた寝でもしていたのだろう。


「さあ、早く戻りましょ? ノレイアに到着するのが遅くなってしまうわ」

「それなのだがな」

 ワイスは、こっちだ、と街中に設けられた湧泉の設えへとベルナデットを導いていき、そこでごくごくと水を飲んだ後で、どかりと腰を下ろした。


 のんびりとした様子に、自分勝手だと自覚しつつもベルナデットは苛ついた。

「遅れてきて言うのも何だけれど、私、あまり時間の余裕がないのよ」

 背後を確認する。まだ、彼女の不在は気づかれていない。

「ふーむ、それだ。まずはこれを見ろ」

 ワイスは顎を上げた。彼用の首輪などあるはずもないが、あるならそれを付ける場所に太めの紐がかかっている。


「何? 誰かに掴まったの?」

「そんな間抜けに見えるのか?」

 見えるけど……、とは言えない。


「じゃあ、何?」

「主から預かったのだ」

 ふさふさの毛皮に隠れてはいるが、書簡が括りつけてあった。


「ほら。見ればわかるだろう。手紙だ」

「それはわかるわよ! 最初からそう言いなさいよ。変な出し惜しみして……」

 手に取って開こうすると、「わざわざ読むまでもないぞ。儂は主らの話を聞いていたからな。説明する方が早い」などと嘯く。


 無駄にもったいつける癖のある犬である。ベルナデットは、封筒でぺしりとワイスをはたいた。

「意地悪ね。何なのよ、最初からそう言えばいいじゃない」

「儂が待った時間に比べれば、わずかのことだろう」


(一矢報いないと気が済まないのね……)

 人間の姿になったときのように、やはり口調とは違ってワイスはまだまだ子どもなのではないだろうか? とベルナデットは考える。

 やることがコドモだ。しようのない……、とベルナデットは肩を竦めた。


「持って回った言い方は不得意なので、要点を伝えるが」

「はいはい」

 さっさとお願いしたいわ、とベルナデットは腕を組んだ。


「帰れない」

「は?」


(誰が? どこに?)

 彼女はぐっと彼を見返した。


「どういうこと? 要約にもほどがあるのではなくて?」

 説明不足すぎるんですけど? と、彼女はワイスに詰め寄った。面倒臭そうに彼は顔を背ける。


「つまり、お前はノレイアには行けないということだ」

「は?!」

 うんうん、驚いたか、とワイスは頷く。


「何、心配するな。永遠にという話などではないからな。主がいうには、もう半月ほど首都にいて欲しい、とのことだ」

「ど、どうして!」


(こっちはそういうわけにはいかないんですけど! 屋敷の者たちに気づかれたら、すぐに掴まってしまうわ……。伯父様のことだもの、下手したら連れ戻されて外出禁止のまま、どこぞの誰かと見合いもなしに挙式だわ!)

 そうだ、と我に返って出てきた屋敷の方を振り返ってみれば、ベルナデットの不在を知ったらしく、侍女と衛士が数人してわらわらと通りに出てくるのが見えた。


 まずい。

 これはまずい。


 一応の変装はしているが、どういう人間が出て行ったのか、それを覚えていないほど門番は無能ではない。彼女の特徴は伝えられているだろうから、見つかるのも時間の問題だろう。


(できるだけ遠くに離れるか……。それとも)

 はた、と彼女は気づく。


「ねえ、あなたの毛皮に埋もれたら、きっと私も見えなくなるわよね?」

「は? 知らぬ」

 知らないことだらけである。


 そもそも、儂は始終人間を乗せたりせんのだぞ、と気まずそうに大きな狼は付け加える。

「でしょうね。でも、そのくらいの不思議な力は普通にあるのよね?」

 即効で彼女はワイスの自尊心をくすぐる。


「まあ、そうだろうがな。その程度はな。この前もそうだったしな。知らんが」

「よし!」

 最後まで返事を聞くことなく、ベルナデットはワイスの脇腹に潜り込んだ。


「おい……! 何をする!」

 腹の辺りをもぞもぞされてワイスは微妙な顔をしたけれど、構っている暇はない。三日ぶりなのに、ワイスの匂いはもう懐かしい。

「ちょっとの間我慢して!」

 毛先がくすぐったい。


 しかし、どうしてこんなややこしい目に遭わなければならないのだろうか。ただ、求婚されて相手の国を調べようと思っただけなのに……。そのうえ、しばらく首都にいろ、などと……。そんな気楽に、簡単に。

 考えていると、いろいろな感情が沸き起こる。


(ああ、だめ。今そんなことに気を取られている場合じゃ……)

 ワイスの毛皮に包まれながら、ベルナデットは混乱する心を鎮めようとした。


(というか、勝手すぎない?!)

 やはり、いら立ちは抑えきれない。


 その通りだからだ。

 次第にむかむかしてきた。


 大体、求婚したのはあちらである。ベルナデットが是非にと言ったわけではない。しかもいろいろ伏せていた情報があって……。とんでもない不良債権だった。

 なのに、彼女は誠意をもってちゃんと自分で情報を集めようとしているのだ。


(そうだわ。自分の国に来いって言ったり、待てと言ったり……。どれだけ苦労して伯父様の目をごまかしたと思ってるのかしら!)

 とはいえ、その事情は彼女しかわからないことではあるが。


(伯父様たちもそうよ! 嫁に行けと言ったり、やめろと言ったり! 結婚相手を探してと私が頼んだことなんかないのよ! そもそも婚活したいとも言ってない!)

 どう差し引いても理不尽だ。


 どちらも結婚前のうら若き女性を何だと思っているのだろうか? おいほい気軽に出かけたり、結婚話をストップしたりできる存在じゃないのだ。その分、ありがたみが減って市場価値は下がってしまう。


 確かにベルナデット自身はそういうことを気にする人間ではないが、だからといって都合よく扱われると腹も立つ。


(いいわ、絶対ノレイアには行くし、伯父様の言うことも聞かない!)

 さて、どうしてくれよう、とベルナデットが腹を括っていると、ワイスは、すんと鼻から空気を吸って、何かしらの匂いを嗅ぎとった。


「なんだ。お前、親族から逃げているのか」

「あら、わかるの?」

 彼女が小さく返事をすると、何故囁くのだ、声も他には漏れぬぞ、とケチをつけつつ、「お前と同じ匂いをさせた者が通りの向こうで慌てていたからな」とワイスは当然のことのように答えた。


(さすがイヌ科)

 そういうところは獣である。

 ふうんと、ワイスは遠くを見やる。そこにディアムの姿はなかったが、彼はすっと目を細めた。


「だが、いいのか? あれはお前の群れの、いわばかしらのような存在だろう。お前はまだこちらの、主の群れに加わったとはいえんからな。所属する群れの意志は尊重した方がいいのではないか」


(うーん。やはりイヌ科ねえ)

 その基準も獣ルールなのね、と溜息をついて「って、あなたはどちらの味方なのよ!」と彼女は毛皮を引っ張った。


「そう毛を引くな。それなりに痛いのだぞ」

 頭をふって彼女を振りほどく。

「文句を言われても困る。儂は使者というだけだしな。だが、しかし、意見を求められるのであれば、儂もノレイアには行かぬ方がよいと思うぞ」

 声が重い。真剣味を帯びた言いようである。


「……。何があったのよ」

 手紙を読んだ方がいいだろうか。詳しく書いてあるのかも、と気になる。何にせよ、あちらにはルシールが臥せっている。彼女からすれば、はい、そうですね、で行くのを止めることはできない。ルシールの存在だけでも戻る必要性がある。


「待って。じゃあ、やっぱり手紙を……」

 いや、それは無意味だ、とワイスは否定する。

「おそらく、お前に要らぬ心配をかけぬよう、重要な部分は伏せているだろう。主はそういうお方だ」

 そう言い切って、うんうん、と頷く。ワイスにとって、アデルは相当完璧な人物らしい。


 ベルナデットはため息をついた。

「そういう気遣いは、逆に困るのだけれど」

 隠し事は、もう十分だ。

 まあ、その言い分もわからないではない、と主に忠実な彼も一応の理解を見せる。


「ふうむ。実はな、お前を乗せて儂があの地を立ってすぐに、館が炎竜に襲われたのだ」

「え……」

 顔色か声色かを感じ取って、いや大過ない、と狼は付け加えた。


「主たちも、お前の手下の女も無事だ。館は何室か使用できぬようになったが」

 ベルナデットはほっと胸をなで下ろした。

(でも、それならどうして?)


「しかし、先日整備した畑の大半がやられてしまってな。ルブルたちにも死者が出て、その対処で余裕がないのだ」


「ちょっと! 大過あるじゃない!」

 おいおい。それほどの大声だとさすがに周囲に聞こえるかもしれんぞ、とワイスは冷静に指摘したが、今はそんなことはどうでもいいのよ、と彼女は切り捨てた。


「大変なことじゃないの、どうして……。今まではそこまでの被害はなかったのでしょう?」

 そんなことが頻繁にあったのなら、悠長に嫁探しなどする余裕はなかっただろう。一定の均衡を保っていたからこそ、アデルたちも将来を考えることができたのだ。


(ひどい……)

 ベルナデットの脳裏に嬉しそうにしていたルブルたちの顔が浮かぶ。毎日毎日、丁寧に畑をみて農作物の成長を楽しみにしていた。

 双葉から、どう伸びて、どんな花が咲くのか。どういう虫たちが花粉を運び、どんな実をつけるのか。採りたての野菜の香り、瑞々しさ、これからの収穫を彼女に説明してくれたのだった。

 幸い、首都に一時戻る前に作った水路が功を奏して、植物は順調に育っていた。


(まだ、自分たちにもやれることがあるんだってあんなに喜んでいたのに……)


「さてな。儂にもわからぬよ。主たちにもな。あれらの生物は気まぐれだ」

 ただ、徐々にではあるが炎竜の行動範囲は広がっているようだ、とワイスは悔しさを滲ませた。

「そう結論せざるを得ぬだろう、ここ数か月の変化を想えば。もはや人の住まうような地でない場所も多くなった。動植物からも見捨てられた地域も多くある。そこは焼けた大地と岩と石が転がっているだけだ」


「貴方、随分と国の端々を見て回っているのね?」

 何、大したことはない、ただの監視だ、と彼は言う。

「以前のように火の山になろうとしているのかもな……、大昔そうだったという死の山に。どうすることもできぬよ、まさしく災害というものだ」

 そんな……。ベルナデットは唇をかみしめた。


「どうして、こんななんだろう……」

(頑張っても、頑張っても、圧倒的な力に押し潰される……。それじゃ、問題が起きたら、ひたすらにそれを避けて、逃げて、遠ざかるしかないじゃない……。あるいは受け入れて……)

 その選択はもう為されたのだ、と彼女はわかっている。

 あの地に残る人たちは、故郷を選んだ。だから、今、がある。


(姿形を変えられてさえ、なお……。そして、アデルはそれに応えて王子であり続けている……)

「そういう国なんだ……」

 うん? とワイスはわからないままに相槌を打つ。大あくびをして、わかったならよい、と勘違いしていた。


(だけど、やれることは、まだ……、まだあるのよ)

 彼女はくいとこうべを上げ、春色の青空を見上げた。無邪気な薄い雲を渡る優しい風、彼女を何年も育んできた首都を覆う優しい天蓋……。

 それが、今、とても遠くに感じられた。


(ここに、私がいる意味がある)

 まさにこのときに自分が首都にいて、辺境伯の娘でありイアンじいさまの曾孫だからできることが、きっと私にはあるんだわ、とベルナデットは確信した。


(与えられて決められて生まれてきて、その後は強い力に圧倒される。そんなのはまっぴらだわ)

 漠然と感じていた何か、全身を包む胞衣えなのような薄いベール。

 それがふわりと剥がれて、はらはらと全身から落ちるような感覚を覚えた。


 ヒントは、もう持っている。

「ねえ、ワイス? あなた、この前にアデルが会いに来たという親族の所在、知っているわよね?」


「ええ?」

 ふいっとワイスは視線を逸らした。

「さあ。どうだったかな」

 ベルナデットはにっこり笑って遠慮ない力で彼の毛皮を引っ張った。痛っ! と、狼は顔を険しくする。


「何をする! おまえ、小娘にしては力が強すぎるぞ!」

「まあ、それは幸いだこと! ねえ、あなた、そんなに鼻が良いのですもの。例え会ったことはなくとも、顔を知らなくても、主の親族くらい見つけ出せるのではなくて? さっき私の親族を見つけたものね? ねえ、首都にいるんでしょ?」

「いや、それは……」

 肉食のくせに歯切れ悪くワイスは口ごもる。


「それとも嗅ぎ分けられるというのはでたらめ?」

「そんなことはない!」

 じゃあ、できるじゃない、と彼女は再び彼の毛皮を引っ張った。


「いるの? いないの! 嘘はやめてよね。もうたくさんだわ」

「いな……、いことはない。面識も、ある……。が、儂はあまり……」

 犬面がここまで嫌そうな表情をできるものだろうか、と感心するほど、ワイスは心の底から嫌で堪らない顔をして、小鳥のように小さく呟く。


「会いたく……、は……」

「なに? はっきり!」

 聞き取れず、ベルナデットは聞き返した。



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