6章(3)今さら縁談は破棄です、とか!!
「よし、と」
グエノール邸で与えられた部屋でひとり、ベルナデットは出かける支度を手早く済ませた。この辺はもはやお手の物だ。
(そうそう。忘れないようにしないと)
イアンから渡されたイヤリングは片方だけ。
なので、飾り部分を外してネックレスにした。それを首にかけて、そっと服の内側に落とし込む。
「ねむ……」
叱られるような大あくびをしてしまい慌てて口を閉じるけれど、今はそれを咎める目もない。気楽だけど、それがルシールの不在と思えば寂しさが勝る。
昨夜は遅くまで忘れないうちに図書館で知ったことを書き留めていた。天劫災害のことは他言も書き残しもしないよう、帰り際重々サクヤに注意されていたのでベルナデットの脳内に存在するのみだが、農法書についてはひたすらに記述しまくった。
何しろ絶対に忘れる自信がある。
初めての知識だ。これまでことさら興味があった分野でもない。となれば忘れる。間違いない。
それでも二日間かけて調べた、すべては手持ちの小さな鞄にしまってある。
それに加えてアデルが気に入っていたものと自分の好きなもの、幾つかの菓子が加わる。前日のうちにしっかり手に入れておいた。
(迎えの約束は午前だけど……)
手際よく準備はできていても、図書室から戻ってここに至るまではそこそこの面倒ごとを経ている。
ノレイア王国に戻るという姪に、伯父のディアムはいい顔をしなかったのである。
それどころか、縁談そのものに大反対。
これはベルナデットにとって予想外だった。
縁談の決定権は、通常両親にある。ベルフォールでは本人の意志を最優先してくれるが、原則はそうだ。
親族の反対は絶対的な否定要因とまではいかないものの、あまりよい傾向ではない。しかし、そうはいっても相手にそこまで不服があるのなら、それ以前に今回ほどに話が進むことはないともいえる。
打診の段階で、「いや~ちょっと」という空気、あるいははっきりとした物言いが伝えられるからだ。
つまり、もともと、ディアムに反対の意図はなかったはずなのだ。
(伯父様は、うちの一族では抜き出て頑固な方ですものね。最初からダメ、ならもっと前から揉めているでしょうし)
ユアン、ケリアンと継承された爵位は、やがて、ケリアンの長男で、現在は近衛の騎士長であるディアムのものになる予定だ。
先日より王命により地方に出ていた彼は昨日の夜半に戻り、預かっている姪が婚約者候補の国から帰宅していたことを知った。
もちろん、おおよその経緯は連絡されて以前より把握している。
それが、戻ったとたんの手のひら返し。
(そんなことって、ある?)
ディアムの命を受けた侍女は、寝不足のベルナデットを朝早くに起こした。状況的に、イヤな予感しかしなかった。幼い頃からディアムの呼び出しといえば、小言しかない。
案の定、朝一で姪を呼びつけたディアムは「もう少しゆっくりしていきなさい」と命令じみた口調で言った。
(うーん。夜のうちにお母様に急報を打っておいていらっしゃるわね、これは……)
親権者を呼び出すくらい手を回していそうな雰囲気。いや、彼女は確信した。
問題児であるベルナデットがノレイアの王子から熱烈な求婚を受けたときには、グエノールの人たちはみながみな喜んだし、正直ほっとした風でもあった。後者の割合が多かったかもしれない。
けれども、どういうわけか、今は空気が変わってしまったようだ。
「母親をあまり心配させるものではないぞ」
ええー。そんな殊勝な人だろうか、と言い返したいのをぐっと抑える。
(そうおっしゃられても、あの人が私を体よく放り出したようなものでは……)
「どういうことでございましょう……。心外なことですわ、伯父様。縁談を一番喜んでくださったのはお母様なのに」
それは、まあ、と伯父は苦々しい顔をする。
「だが、どうかな。婚前に少人数で出向くのも感心しないのに、馬車どころか徒歩で帰宅とは。しかも辺境伯令嬢ともあろう者が市井の民衆と変わらぬ姿で戻ったと知れば、あいつも意見も変えるだろう」
呆れた顔で伯父は淡々と指摘する。まずい、これは家司からすべて聞いている。彼女は悟った。
「大体、持参した衣装はどうしたのだ。それらはどこへやった!」
(あ。お気づきになられてましたか)
確かにねー、うんうん、とベルナデットも頷く。簡素ではあるけれど、上物の服ばかりだった。人によっては一財産だろう。
言い分が響かない様子の姪にいらいらしながら、彼は畳みかけた。
「しかも、あの魔力使いに会いに行ったそうだな! あんないかがわしいやつに」
(あっ、それもバレてる!)
ユアンと違い、ディアムは図書室の存在に好意的ではない。正確には魔力使いに含むところがあるようで、若い時分になに酷い目にあったらしいことはベルナデットも察している。
「ちょっとした調べ物があっただけですの、伯父様」
「それがどうか、というのだ。まったく父上もお前たちには甘くて困る」
(うーん、これは?)
ディアムの反感は随分強い。何か、特別な事情があるのだろうか? とベルナデットは疑いを持った。
頭の固い人物ではあるけれども、面子とか建前だけで感情的になって姪の縁談に細々口を挟む人間ではなかったはずだ。
(お母様を呼びつけたこともある……。到着までの間、私の足止めでもするおつもりかしら?)
これは正面から抗議しても無駄だ。ベルナデットはしおらしく「そうですわね……」とうなだれた。
「書物にも、ノレイアがかなりの古びた国であるとありましたし、実際にその通りでしたわ。確かに私には窮屈そうではあります」
そうだ、わかっているじゃないかとディアムは顎を撫でて賛同した。ディアムはまだ家督を継いでいないけれど、それも遠い先の話ではない。逆らっていい相手ではない。
「両親のご意見を確認した方がよいかもしれません……」
その通りだ、とディアムは油断なく疑いの光を消さないまま頷いた。この姪には散々手を焼かされている。
(それにしてもディアム伯父様はあまりお母様たちと似てらっしゃらないのよね)
表情を読まれぬよう、無関係なことを考える。
「わかってくれてよかった……。私は、立場上お前たちの知らぬ事情にも通じている。その私がここまで言うのだからな。何にせよ、可愛い姪を悪いようにはしないぞ」
「はい。伯父様のご厚意にはかねてより感謝しております」
(亡くなられたお祖母さまも肖像画では可憐な方だったし、そちらのお血筋に熊系の御仁がおられたのかしら……?)
イネスたち姉妹とは真逆で、ディアムは筋骨隆々として男らしい、ありていに言えばむさくるしいタイプに分類される。
「元を正せば、イネスがお前をここにやったのも幸福な結婚を願ってのことだ。その辺の理由はわかっているだろうね?」
(いえ、あの人たちは口の立つ長女を追い出して、いちゃつきたかっただけでは)
と思うが黙っている。
(というか、事情って?)
幼い頃に一方的に決められてやってきただけで、何かを説明されたことなどない。
「あの、将来の縁組を見据えて行儀見習いに出されたのだと、そうとばかり思っていたのですが、ほかに?」
ディアムは大きく溜息をつく。まったく、前回夫婦してやって来た際に話していると思ったのに、あいつは何をしている……、とベルナデットに言うでもなく呟いた。
「両親でもない私から伝えるわけにはゆかぬ。ただ、事情があり、お前をベルフォール近隣に置いておくことは叶わなかったのだ。まあ、辺境伯はああいう方だからな、念のため……、ではあったのだが……」
ふっとディアムは姪の顔をじっと見つめた。
「お前、瞳が強くなったな……」
「? 色、ですか?」
ディアムは頷き、そうだ、普通は幼い頃から薄くなることはあっても濃くなるのは稀だ、と付け加えた。
なんだろう、とベルナデットは不審を覚える。
(イアンじいさまも、サクヤも、伯父様もやけに引っかかる物言いを)
珍しい瞳の色を褒められたことはあっても、怪訝な様子で指摘されたことはない。
「まったく、占いだの、予言だの、予兆だのの類いは大抵あやふやでいい加減で困る……」
伯父はぼやくと、気づいたように訊ねる。
「そういえばお付きの侍女はどうした。いつもなら影のようにべったりお前に張り付いているだろう」
(言い方!)
ディアムはルシールのことを、あまりよく思っていない。血筋もあるだろうが、ベルフォールの風習に抵抗感があるらしいと、彼女は気づいている。
急な病を得て伏せっているが、そろそろ治る頃だとベルナデットはざっくり説明した。大体のところは間違いではない。
すると、何を踏み抜いたのか伯父の機嫌はみるみる悪化していく。
「余計悪い! なんのためにあの小娘をお前につけていると思っているのか……! やはり、これはきっぱりとお断りするほかないな」
「えっ?」
うっかり、素で答えてしまたけれども、いらいらとしつつも何事か思案している伯父は気づかなかった。
「きちんと縁を断っておこう。いいか、ノレイアとの縁談はないと思いなさい。イネスの到着を待って、正式にそう手続きする」
「それは……」
そこまで深刻だと思わなかったベルナデットは、驚愕をさっと取り繕った。首都に来てから受けた躾を総動員して従順そうに目を伏せ、はい、伯父様、と頷いた。
(動機はともかく、ここまで言い切る伯父様に未婚の姪が反論するなんてできない。抜け目ない方だもの、私が余計なことをしないように即、手を打ってしまうだろう)
だが、ベルナデットはといえば、自分のことを頭越しに決められてしまうなんてまっぴらだった。縁談が気に入らなければ自分が決めて、直接断る。親にも、伯父にも口を出させる気はなかった。
(それがベルフォールのやり方よ)
どれだけ着飾ろうとも、あの父の娘である。その矜持を忘れたことはない。
と、こんな態度だったので、これまでさっぱり縁組が成立しなかったのではあったが。
そうですわね、ただ、とベルナデットは思案するような仕草をしてみせる。
「正午過ぎには迎えの馬車が来ると思うのです。その使者にお別れと、侍女への言づてを依頼しても?」
「徒歩で戻ってきたのに、今度は迎えが?」
(あら、疑ってるぅ)
ディアムは堅物だが、さすがに頭の回転は速い。でも、お疲れのようだし、熟考する暇を与えなければいいだけのこと、とベルナデットは即答する。
「そう思われますわよね。先の帰りは急遽だったもので支度が間に合わなくて、一般の旅馬車を利用したのですわ」
「ふうむ……?」
ディアムの目は光った。衰えたとはいえ、ノレイアは王国である。自国の王子が婚約者を迎えるとなれば、きちんと馬車を仕立てるのが当然ではあるが……、とディアムは考えを巡らせた。
「手紙にしなさい。家司に渡すよう命じておく」
(本当に抜かりないなあ……)
「もちろんですわ! では、さっそくしたためて参ります」
ドレスをつまんで裾をあげて礼をすると、ベルナデットはさっさと退散することに決めた。
「ああ……。ベルナデット」
迷うような声でディアムは姪を呼び止めた。彼女はくるりと振り返って伯父を見上げる。
「何でしょうか」
じっと見つめるディアムの瞳は暗い夜の色だ。親子や祖父母孫で飛んで色が伝わることもあるので、特に疑問に思ったことはなかったのだが、母親たちと違う底のない深い色だなと、改めてベルナデットは感じた。
「いや……。お前の輿入れ先は、私がきちんとした相応しい相手を探す……。心配することはないぞ。お前の父親とも相談しておくからな」
「はい! 楽しみにしております」
とびきりのいい笑顔で返事をして、ベルナデットは伯父の書斎から退出した。
「さーて、急がなきゃ」
ぴったりと扉を閉じて、彼女は胸を押さえた。ひとまずはやり過ごした。ひとまずは。
問題は次だ。
馬車など来ないのだから。
(伯父様が気づく前にすべて終わらせなければ)
ワイスとは今日の午前と約束している。ディアムに捕まっていたせいで、時計の針は正午に近づきつつあった。数刻は稼いだが、わずかな時間だ。嘘がバレる前に、さっさと支度をして抜け出さなければならない。
自室に戻ると、手紙を書くから、と手伝いを追い出してやっと彼女は準備に入った。
ほとんど白紙の手紙に封をして部屋のテーブルに置く。家の者たちにそれとなく監視されているのだろうけれども、ベルナデットは室内で繋がっているルシールの小部屋に移動した。
旅装はルシールの衣装を多少借りることにした。目立つ髪の色も
その手の小道具は、かなり豊富にあるようで、彼女は侍女のコレクションを半ば呆れて見渡した。
(ときおり、変装して街に出ていることは知っていたけれど、ここまでしているのは知らなかったわ……)
まあ、そうかもしれない。
確かに、いかにも東方の顔立ちをしたルシールではそのままの姿はだいぶ目立つ。
そうだけれども。
ここまで徹底しているとは、いくらなんでもベルナデットも想定していなかった。
(それとも趣味かな……。助かったからいいんだけど)
侍女が出かけるときに身につける外套で衣装を隠し、彼女は一見、グエノール邸に勤める召使風に装った。誰かにお使いを命じられた体である。
ルシールは小部屋から出る扉のほかに、忍び出るときのために隠し通路を作っていた。これも話に聞いてはいたが、ベルナデットが使うのは初めてだ。
造作でも手掛けたのだろうか。とにかく隠された芸の多い侍女ではある。
衣装が並んだその奥をかき分け探ると、壁の一部が外せるようになっている。その隙間から、使っていない隣室へと進入できた。さらにそこから続きの間に移動する。その後は何食わぬ顔で扉を開けて廊下に出た。
知らぬ顔で裏口に向かうと、驚くほどすんなりと外まで出られた。大所帯の館だったことも幸いしているのだろう。
こんなので大丈夫なのかしら、とも思いはするが、入る方はともかく、出る方はそれほど神経質になるものではないのかもしれない。
(ふつうは来訪者や侵入者を警戒するものだものね)
そして一度入った者が出る分には、通行手形が発行されたも同然ということなのだろう。
彼女は足早に通りを渡った。
大路を見渡したけれど、ベルナデットはワイスを見つけることができない。
とはいっても、不自然に立ち止まってきょろきょろするわけにもいかず、彼女はゆっくりと人の少ない方へと歩き出す。
(待ちくたびれて帰ってしまった、とかではないわよね……)
動物だもの。気まぐれかも。
いや、それならまだましだ。
もっと違う心配もあった。
(まさか、一度ノレイアから出てしまったら、私でもワイスも見えなくなってしまう……、とか)
その可能性をベルナデットはずっと消しきれないでいた。
他の人々と同じように自分も……、と。
そんな基本的なことも確認せずに勢いで飛び出してきてしまった。伯父の屋敷に戻れないとはっきりしたとき、事実の意味がわかって、すっと体温が引いていくような気がした……。
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