5章(3)メンクイは血筋ですから
いつそんな時間があったものか。どこかで王子はエラを見初めた。結婚するなら彼女がいい、と思い詰めたのだろう。
(強引なやり方だし、そこまでの効果があるとは思われないけれども、あの時点ではそのくらいしかできなかったでしょうね)
男爵周辺はお膳立てをしておく。まずは小さな集まりでデビューさせて、そこで出会った風を装う……。
その後をどうするつもりだったのか、もはやベルナデットには知りようもないが、それほど成功率は高くなさそうだ。
(そこで都合よくあんな噂が立ったものだから、世間の風評を利用しようと考えたのでしょうけれども)
にしても巻き込まれたベルナデットにはいい迷惑である。
(自分の恋路に他人を利用しようなどと、まったく。ひどい手前勝手だわ)
エラが知ったらショックを受けるかもしれない、とベルナデットははっきりとした言葉にはせずに少し顎を上げた。
「さあ、どうかな」
素知らぬ風で彼は答える。
そういう面の皮の厚さは宮廷政治に向いているともいえる。腕力としては剛の者とはいえないけれど、策謀家としての一面は軟弱ではないだろう。
彼女も、そういう従兄弟は嫌いではないけれども……。
王権を強固にするための婚姻を拒否した彼のこの先に、どういう展望を持っているのか、大公らからどう扱われるのか、彼女にもわからない。思いもかけぬ幸運を掴んだ男爵家も、ただ娘を差し出して満足する、といったこともないだろう。
(野心の欠片もなかった凡庸な人物でも、豹変してしまうことはある)
人と人が繋がれば、関係は必ず生まれて、這うように枝を伸ばして行く。決して順風満帆な先行きとは言えないだろう。
(でも、それはセヴラン様が心配することだわ)
それに、恋に目の眩んでいるふたりは、どんな問題も克服できると信じているだろう。彼らの困難は、彼らのものだ。
「正直に申し上げますと、私にとってもちょうどよかったのですわ。だって、セヴラン様と結婚だなんて悪い冗談ですもの」
つんと、済ましてベルナデットは言い切った。
「おい、失礼だろう?」
セヴランは鼻白む。もちろん本気ではない。
「ベルは、すぐに私が王子だと忘れてくれるよな」
「まあ、失礼とおっしゃるなら」
幼なじみの少女に戻って、彼女は大人しい従兄弟に指摘する。
「お茶会では、本気で慌てていらっしゃったわね? あれは演技ではないのでしょう? 私が本当にエラ様へ何かするとでも思っていらっしゃったみたい!」
嫌なところを突かれた王子は、肩を竦める。
「だって、君は、ほら。毛虫をわしづかみにするような人だからさ」
「まあ……! まあ!」
ベルナデットは少し大げさに憤慨して見せる。エラの前で変なことを言って欲しくない。
「それはごく幼い頃の話ではございませんか。それに、あのときは、セヴラン様が怖がるから取り除いて差し上げたのではなくて?」
そうだけどさあ、とセヴランも切れは悪い。
(もしかして、その頃の情けない姿を私が話すとでも思った?)
ありそうな線ではある。子ども時代の余計な話は、確かにたくさんある。
「ご記憶にないなら披露してさしあげましょうか? 私、記憶力には自信ありますのよ」
そう聞いてセヴランは少し顔色を変えた。
「ぷっ」
堪えきれず、エラが吹き出す。
「ごめんなさい。こんな笑い方、はしたないですわね」
「どういたしまして。令嬢らしくないことでは、私、定評がありますの」
それはそうだ、と請け合って、セヴランはふと思い出したように
「で、ベルは何の用で」
と訊ね、「私はエラが王室付きの書庫を見学したいというので来たのだが」と付け加えた。そう口にしながら、セヴランは久し振りに警戒せずに笑ったな、と内心考えた。
ベルナデットといると、肩に張り詰めた力や悩みすぎて縺れた思考が解けていくように感じる。
皇太子である第一王子と違って、従姉妹と親しむ時間が長かったセヴランはその理由を知っている。
あの目だ。
曾祖父のユアンがいつか言っていた。
あの娘の瞳には不思議な力があるんだよ、と。
それは、絡まった糸玉をほどいたり、溶けない氷を水に戻したりするような、あるものをあるままにするといった、ちょっとした力なんだけれどね、とも言っていた。
何事にも裏を推測しすぎるセヴランにとって、そういう性質を持った彼女は決して嫌いな人間ではない。
それでも、妻にしたいとはまったくもって思いもしないけどね、とも思うけれど。
「私が求婚されていること、ご存じですわね」
「ん? うん?」
内心、物好きなことにね、と付け加える。しかし、セヴランは違和感も覚えた。
あれ? もう婚約したんじゃなかったのか? そう聞いたよううな、と疑問に感じつつも彼は頷く。
「お相手のお家のことを、もっと知りたくなりましたの……。血筋も、土地も、歴史も、すべて」
「へえ。それは殊勝な……」
王子は眉を寄せた。
「君、ベルナデット。少し変わった?」
「何がです?」
勘違いかな、とセヴランは手を振って、いや、いい、と撤回した。
「ノレイアも古い国だからね」
じゃあ、入ろうか、と彼はぐいと扉を押す。男らしいけれど、きれいな手だ。働いてはいない手。
(あの人とは違う)
扉は、抵抗もなく軽々と開いた。
「きっと役に立つ書物があるだろう」
紳士らしく、彼は二人を招き入れる。
高い天井と中二階、中央のホールを囲うようにして壁に沿って屹立する書棚の数々……。格調ある調度を見るのは久し振りだ。
「さあ、我が国の誇る叡智の集積庫だ。存分に楽しみたまえ」
高い天井と、そこへ向かってそびえ立つような書架が一階、そして中二階を挟んで規則正しく屹立している。メインの階段は螺旋のようにカーブして中二階へ繋がり、ほかにも各所に梯子がかけられていた。
幼い頃来たときのままだ、とベルナデットは懐かしい。
天井の天窓のほか、高い位置に明かり取りの窓が幾つかあり、そこから遠く青空が見えていた。そこへ昇る手がかりは何もない。
触れることのできない窓をどうやって開けるのだろう? 壊れてしまって直すときはどうするのだろう?
そう疑問を口にしたベルナデットに曾祖父は「不可思議なことが起きる、それがこの図書室なんだよ」と方法を教えてはくれなかった。
それ以外にも奇妙な作りや装置が幾つもある。なかにはどう使うのかわからないものも多く、そのひとつである大きめの水栓ハンドルも以前と変わらずに設置されているのを彼女は見てとった。
栓ハンドル、と呼んではいたけれど、水道管にも通気管にも繋がってはいない。形が似ているので、子どもたちがそう命名した。
(磨かれた大きな樹木と古い本の匂いがする……)
彼女にとって、首都で文句なしに大好きといえる場所のひとつだ。
「と、おっしゃいますけれども、セヴラン様が入室許可を出してくださるのではありませんわよね」
はあ、とセヴランは溜息をついた。
「突っ込まずにはいられないのか、君は」
彼は、王室のものなのだからいいだろう、それくらい、とぼやいた。
くす、と忍び笑いが聞こえる。図書館に仕える司書のひとりがいつのまにか立っていた。音は聞こえなかった。
では、いつからいたの? 最初から立っていた? と彼女は驚いた。
(気配がなかった)
司書としての資格を考えればそれも当然かもしれなかったが、ベルナデットは何故か緊張を覚えた。もちろん彼女は武芸者ではあるまいし、気配を悟る訓練をしたことはない。
それでも彼女は育ちのせいもあって人や動物の気配には敏感な方だ。
「いえ、失礼いたしました」
背の高い司書は両手を組んで,頭を下げる。もっとも、長い袖に隠れて組んでいるのか合わせているのかもわからない。それが異国情緒を高めた。
司書の衣装は独特だ。
貴族のものとも平民のものとも違う。ベルフォールよりも南東にある、もっと暑い地域で着られている
もっともらしい理由としては、中と外との人間を見た目で明確に区別するためだとか言われているが……。
(きっと、そうじゃない)
そのような心配がないことは、ベルナデットは曾祖父から教えられてよく知っている。外見で区別しなくてもいいのだ。
さきほども図書室の入口左右に護衛はいたけれど、それは侵入を阻むためではない。あくまで外で起きる問題に対処する目的で置かれている。
なぜなら、侵入者は、決して扉から先に進めない。
「セヴラン王子と男爵令嬢エラ様は、どうぞこちらでお過ごしください。ご自由になさっていただいて結構です。お出になるときも、お心のままに……。司書にお声掛けいただく必要もございません」
わかっている、と王子は片手を上げて応じた。何度も訪れているけれど、司書は手を抜かず毎度同じ口上を述べる。
いつもと異なるのはそこからだ。
「辺境伯令嬢ベルナデット様は、こちらへ……。室長がお話をお聞かせいただきたいと」
え? とセヴランは首を傾げた。
本好きの王子は、幼いころから、それこそベルナデットたちとも幾度も図書室にやってきているけれども、室長とやらを一度も見かけたことはない。室長の存在を意識したのは、用事があるといって、曾祖父が室長室に入っていくところを見たときくらい……。
当然、読書のために訪問するのだから、室長と会わなくても支障はない。それにしても、ちゃんとここにいたんだな、と王子は今さらながらに思った。
(あ、やっぱりそうなのね)
一方、ベルナデットはといえば少しは予想をしていた。何でも簡単に見せてくれるようなら、閲覧制限など設けるはずもない。当然責任者のチェックは入るのだろう、と。
(調べたいことがあると伝えてもらったけれども、許可をするかどうかはこっちの言い分を聞いてから、ということ)
何にしても初めての手続きだ、と少し姿勢を正す。
「ベル、君は、一体何をしようとしているんだ?」
さきほど質問したばかりなのに、セヴランはもう一度訊ねた。
表情が違う。からかう様子は一切なく、彼が彼女を案じているのがわかる。室長に会うまで、となると,何事かが起きたのだと。
(うーん、それがわからないのよね……)
何に巻き込まれ、何をすべきなのか……。今、彼女は自分がどこの地面に立っているのかもわからない。第一、話して彼にわかるものだろうか?
セヴランは王族だ。天劫災害の呪いにも耐性があるかもしれない、とふとベルナデットは考えた。ベルナデットにも何かの効果があるように……。
(話してみてもいいかもしれない)
でも、耐性がなかったら? ちゃんと伝わらなかったとき、あるいは部分的に伝わってしまったら、余計に面倒な羽目に陥るようにも感じた。
(そうだ。私たちは血縁だけれど、一枚板ではない……)
母のイネスには、大公妃になった姉・マルグリットがいる。よく似たふたりの姉妹は瞳の色に合わせて、姉は昼の薔薇、妹は夕暮れの薔薇と呼ばれた。とても仲がよく、今でも手紙のやりとりは欠かさない。
それでも、イネスはマルグリットから贈られたチョコレートを手にとって、「どれだけ濃い血だろうと、一枚板ではないのよ」とベルナデットにわざわざ割って見せていた。
「こうして、割れてしまうものなの」
贈り物で作ってもらったホットチョコレートは甘かったけれど、母の少し寂しそうな薄紫の瞳を見ていると、苦すぎるようにも感じられたものだ。
(仲睦まじく育った姉妹ですら……)
いとこでは、なおのこと。
「私にも、まだなんとも説明ができないのだけれど……。そうね、セヴラン様になら、こう申し上げればおわかりになるでしょうか……」
ベルナデットは単語を選んだ。呪いに触れぬように、でも、彼女の動機の強さ、それから正体の見えない何か、が伝わるように。
「私の、子どもの頃からの夢が、憧れが、もしかしたら叶うかもしれない、と」
「まさか!」
セヴランは驚愕を隠さなかった。
本格的な淑女教育が始まる前、いや、始まってからもベルナデットは将来の夢として一方的に彼に野望を語っていた。熱を帯びて紅潮する頬は今でも彼の記憶にある。
「そんなことが? だって、ベル、君の夢って……」
思い出してくれたようだ、とベルナデットはにこりと微笑んだ。
(頼りなさそうとはいっても、さすがは幼なじみで、王子ね)
「顔面のよい男子を揃えたハーレム国家の主になることじゃなかったか?!」
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