5章(2)美人の涙は誰でも弱い
「私……、私……」
落ち着いた様子だったのは挨拶を終えるまでで、エラは両の手を組むと震えながら振り絞るように続けた。
「ベルナデット様にお詫びしたくて……」
言いながらぽろぽろと大粒の涙をこぼす。ベルナデットはぎょっとして周囲を見渡した。
(ちょっと…… 一体何? なにごと!)
幸い衛兵役の見張りが図書室の前にふたりいる程度だった。しかし、これではまるで彼女を泣かせたようにしか見えない。
(やめて欲しい……)
とはいえ、下手に彼女に言葉をかけたら詰問に見えてしまう構図。
そんなエラをうっとりと優しい瞳で見つめつつ、セヴランは「涙を拭いて」とハンカチを差し出したので、ベルナデットはさらにイラっとした。
(えー……。これ私、ここにいる必要あるの? もう行っていいんじゃないのかしら?)
二人の世界モードが始まり、居心地は悪くて仕方ない。
すぐにエラはベルナデットを置き去りにしていることに気づいて涙をきゅっと拭いた。その健気な様もいちいち可愛らしい。
引き締めた表情の裏にある、自分がしっかりしなければ、との心の思いは完全に周囲にだだ漏れている。まるでそう仕向けたかのように。
(そういう人っているわよねえ……)
「申し訳ありません。直接お会いしてお詫び申し上げたかったのですが、なかなか私のお願いを叶えていただくことができなくて……。今日お会いできたのは、きっと私の祈りを聞いてくださった神のお導きですわ」
「あ、はい」
(ソレハソウデスヨネー)
王子の婚約者ともなれば、そうそう勝手はできない。何かしたいなんて、ほとんど受け入れてもらえないだろう。
(でも、聞きようによっては……。ううん……)
曲がりなりにも、ベルナデットは王子の婚約者の座を奪い合った、と世間が思っている相手である。本人にはそんなつもりはなかったし、今後もないとはいえ。それなのに「ワタシ、コンヤクノジュンビデイソガシイノ」などという呪文を唱えてしまうとは。
(しかも涙からの会話スタート)
きつい。しんどい。
涙もろいというレベルの話ではない。
こういう態度をしたら、周りがどう受け取るかまで気持ちがいかないのだろうと理解はできる。だからといって、被弾せずに済むということではない。
悪気はないのでしょうね、とはベルナデットも思う。
いる。そういう人。確かにいる。
(善人ではあるのよね……。悪意がない、という定義では)
ただ、気づかない、気が回らないのだ。
だって多分。
ベルナデットは、エラから自分に近しいものを受け取っていた。
すなわち、それは。
(貴女、田舎者……。ですよね?)
見た目はそうは思えない。けれども、おそらくはそうなのだろう。
(ペトワーズ男爵が若い頃に田舎娘と関係を持って生まれてしまった庶子、ってところなのでしょう……)
わざわざ勘ぐらなくても、その手の噂は四六時中飛び交っている界隈だ。ペトワーズ男爵に限らず、そんなような、それに近いような話はたまに流れてきて、ベルナデットの耳にもそれとなく届いたこともある。
雑な性格のベルナデットでも感じるほどだから、もっと繊細な生まれも育ちも都会のご令嬢方にとっては、エラの評価はすこぶるよろしくない。
出自のあやふやさ、さくっと第二王子の心を射止めた事実を差し引いても女性に嫌われるタイプである。
つまり、あざとい女。
あまりにわかりやすいので、当初は計算か? とベルナデットも引いて見ていたのだが、どうも違うらしい。いつ見かけてもテンパって、いっぱいいっぱいなのだ。
(ああ、森の小動物に似ているわ……。口より大きなナッツを入れようとする類いの……)
言葉に迷っているようだったので、ベルナデットは早く切り上げるためにも助け船を出した。
「あの……、謝罪をいただくような記憶はないんですけれども、それにその、申し上げにくいんですけど、あなたのような美少女に泣いて謝ると言われてしまうと、私の立場というものがありませんので……」
彼女ははっとして姿勢を正した。そして、またしゅん、と肩を落とす。
「ごめんなさい……! ばあやにも、子どもじみた振る舞いはおやめなさいと注意されているのですけれども……」
犬耳がついていたら、絶対両方とも垂れてるわ、とベルナデットはワイスを思い出した。
「いや、ベルは口が悪いから気にする必要はないよ。エラはとりわけ繊細に作られているんだからね、しようのないことさ」
脇からいらない合いの手が入る。
(うるさいお方ね。フォローになってないじゃない)
ベルナデットはぎりりと王子を睨み付けた。
「ほら、また」
(あら、声に出ていたかしら)
面倒になったベルナデットは彼に取り繕うのはやめ、「女同士の会話ですから。王子はご遠慮してくださる?」と釘を刺した。
「それで、お詫び、とは?」
エラは頷く。
「春先のお茶会で、私を庇ってくださったのに、皆様方に正反対の誤解をされてしまって……」
ああ、とベルナデットは思い出した。
「まあ、それは……。エラ様の所為というよりも、そこにいる、色にお惚けになった王子がやらかした所為というのが正しいとは思いますけれども」
セヴランは苦々しい顔をした。自分の過ちであるという自覚はあるようだ、とベルナデットは、ふん、と彼を見やった。
「それは、だから、悪かったと思ってるさ……。君には謝罪の書簡を送ったじゃないか」
個人的に送った紙っぺら一枚で彼女についた悪評が消えるわけではない。
それに、手紙はあくまで一対一のやりとりであって密室のようなもの。公式に何かしたわけでないのだから、噂する人たちに届くものではない。
好き好んで婚活をしているわけではないけれど、彼女にだって家の名を背負っている自覚と責任感くらいはある。だから、それについては少し怒っていた。
「それもお考えのうちでしょう、どうせ。いやなお方ですこと」
まあ、それはね、そう、と肯定にしては薄い反応をして、従兄弟の王子はにっと笑った。
「ええと、どういう……? セヴラン様が何か……?」
置いてけぼりのエラは首を傾げた。
やはり気づいていない。
「つまり、こういうことなのですわ」
決まった相手のいない若い貴族子女たちは、季節ごと、さまざまな催し物に招かれる。それほど重要ではなく、表面上の親交を深める程度の社交界のイベントだ。
そのひとつとして、今年の初春に小さなお茶会があった。
貴族子女たちへ招待状が到着する時期、病弱でずっと静養していたペトワーズ男爵令嬢エラが初めて参加するという噂も同時に届いた。そんな女性、いたかしら、とベルナデットも首を傾げたものの、元来、その手の情報には疎いので、背景はなんとなく察しても、ふーん、で流していた。
思えば、それは時期を合わせて意図的に流した噂だったのだろう。今まで、聞いたこともない令嬢のお披露目のためにと。
確かにエラ・ペトワーズは現れた……。聞いている以上に美しく目を引いたけれども、それは美貌のせいばかりではなかった。
(ドレスが……)
夏仕様だった。
色合いや仕立ての差もあったけれど、明らかに薄い生地でできたドレスを身に纏ったエラの素肌は温かい室内においても、まだ鳥肌のままだった。
たまたま同時刻にやってきたベルナデットは、一目見て「あら、やられたわね」と気づいた。
男爵の娘とはいえ、人間関係のできあがっている首都の社交界に新顔が招かれるには誰かしらの口利きが必要になる。一応は、「素晴らしいお嬢さんをご紹介したい」という建前が必要だし、身元の確かさを二重に保証する意味もある。
そんな事情で大抵は紹介者と一緒にやってくる。
しかし、その日、彼女はひとりだったし、見てわかる通り服装ははっきりと場違いだった。
今年の流行の色ではない、年齢に合わないデザインだとか、そういう次元の意地悪ではない。確実に恥をかかせて、とんぼ返りさせ、二度と出入りしたくないと思わせたいくらいの悪意だ。
(誰が仕組んだのか知らないけど、彼女を認めたくない人間が身近にいたのでしょうね。いやな話だわ)
何にしても、背景は推して知るべしである。
放っておいてもよかったのだが……。
(気に入らない)
着替えているときも、馬車に乗るときも、彼女の傍らには侍女や家令がいたはずである。彼らは当然わかっていただろう。なのに黙っていた。
召使いたちをそうさせるような立場の人物が、手を回している。
(本当に根性がひん曲がっておられること……)
むかむかしてくる心の乱れを散らそうと、ベルナデットは扇子を開いたり閉じたりして少し考え、最後は強くぱちんと閉じる。
と、ふわり裾を揺らしてエラに近づいていった。
場慣れしていないとはいっても、さすがにエラも間違いを犯したことくらいは周囲の視線から察し始めている。どうしようと困って、おどおどとまごついており、でも帰ることもできないのだろう、誰かしらの救いを求めていた。
悪意に慣れていない人だ、とベルナデットは感じた。
初めまして、私はベルナデット・ベルフォール……、と自己紹介をし始めた矢先、それは起きた。
思い出すと忌々しくて、ベルナデットの口からつい溜息が出てしまう。
「先のお茶会の際、エラ様が困っていらしたようだったから、代わりのドレスを手配するようお教えしようとしたら、セヴラン様ったらひどい思い違いをされて。エラ様のところへとお急ぎになって無遠慮に私たちに近づくものだから……」
などと控えめに表現したが、実際は完全に猪突猛進のそれだった。
彼は、エラにベルナデットが歩み寄るやいなや、駆け出す勢いで二人に接近したのだ。
気まずそうにセヴランは鼻を鳴らす。
「ちょうど通りがかった給仕にぶつかられて、おかげでエラ様に給仕の持っていた飲み物がかかってしまわれて」
単なる水差しだったので、汚れや怪我には至らなかったものの、量はあったので、エラはびしょ濡れになってしまった。
さらにぶつかったのは自分のくせに、セヴランはベルナデットに責任があるかのように「ベルナデット、何を!」と大声を上げた。
ふだん退屈ばかりの貴族たちは面白いネタを常に探している。あのきつい性格の令嬢が、入り口の方で何かやったらしい、というので、それなりに遠巻きではあるが、あっという間に人だかりができた。
まずい、と悟ったセヴランは即座にエラを連れて場を離れてしまう。
あとにはひとり残されたベルナデットだけ。
あまりの早業にぽかんとしてしまった。
事情を聞きたくてうずうずしている野次馬の気配を悟ったことと、彼女のドレスも多少は濡れたこともあって、いろいろ面倒くさくなり、もういいや、とさっさと退散してしまった……。
これがよくなかった。
ちょっとした行き違いで済む話だったのが、その後、王子が男爵令嬢を見初めたなどという急展開があって、「いつそんなことに」「実は先日」と話が口伝えされるうちに、いつのまにかベルナデットが嫌がらせをして、それを諫めたセヴランがエラと恋に落ちた、というストーリーに成長してしまったのだ。
世間は面白いネタを提供してもらえて大喜びである。
ベルナデットはにっこり微笑んだ。
「だから、セヴラン様の責任」
「そんな……。でも、私も否定したのですけれども、どなたも私のお話など聞いてはくださらなくて」
彼女は控えめにベルナデットを見上げた。
「あのとき、私が困っていると、気づいてくださったのでしょう?」
結局、話しかけることはできなかったのだけれど、エラはベルナデットの意図を察していた。ベルナデットは肯定の微笑みを返す。
「けれど、それは仕方ないことなのよ。エラ様の所為ではないわ」
セヴランの行動は、ある程度計算尽くだったのだろう、と確信している。
え、とエラは怪訝な表情でベルナデットを見つめた。
(うん、可愛い)
美女も好きだけれど、可愛らしい少女もベルナデットは大好きである。
「おふたりは、あのときが初めてではありませんわね? 以前よりセヴラン様をご存じでしたでしょう?」
エラは大きな目をさらに見開き、それから頬を真っ赤に染めて、はい、と認めた。
(こんなに美しいのだから、セヴラン様などやめておけばいいのに。といっても、男爵の血を受け継いでいる以上、そういうわけにもいかないのでしょうけど)
ふっとベルナデットは同情の眼差しを彼女に落とす。
貴族のご落胤と知られなければまだしも、わかってしまえば、その娘として生きざるを得ない。それに、これほどの美貌が鄙びた地にあれば、どんな輩に目をつけられるか……。
それは、ベルナデットにとってもあまり他人ごとではない。
気を取り直して、彼女は腰に手を置いて胸を張った。
「もともとは、セヴラン様はエラ様にお心があることをあの場でお披露目して、徐々に婚約状態にしていきたかったのでございましょう?」
(だから私の悪評が広まっても積極的に訂正はしなかった)
セヴランも、もし直接事情を聞かれれば、誤解であるとの説明くらいはしただろう。なんと言っても従姉妹でもあるし、その程度の考えはあっただろう。けれど、わざわざそうまでして真実を知りたい者がいたとはベルナデットには思えなかった。
(だって悪い噂の方が面白いものですものね)
王子は「君のそういうところが苦手なんだよなあ」とぼやく。
「あら、そうですの。セヴラン様のお好みでなくて何よりですわ」
貴族の末席といってもエラは男爵の妾腹だろうし、本来は、第二とはいえ大公妃腹の王子との婚姻など望める身分ではない。むろん、ペトワーズ男爵にもそれを可能にするような、身分を越えるほどの影響力もない。
(まあ、同情できる面もなくはないわね。私ほどではないけれども、セヴラン様もそこそこメンクイでいらっしゃるし)
セヴランに持ち上がっていた婚約者候補たちの錚々たる顔ぶれを、彼女は脳裏に浮かべた。ご令嬢たちの後見人たる身内を並べたら、エラが割って入ることはほぼ不可能だと誰でもわかる。当人らの意志を無視して、ベルナデットが第二王子の結婚相手として最有力だったのも、そこに理由があった。
身分や領地の要素を除いたとしても、従姉妹という身内の令嬢がセヴランにとってもっともましなカードだったのだ。
ベルナデット以外の候補は、セヴランをして「ベルもイヤだけど、他はもっとイヤだ」と言わしめる逸材であった。王家は王家で、第二王子には特に軍事貴族との関係強化を望んだので、強者たちの顔ぶれはある程度仕方のないことではあった。
どの貴族にも家風はあるもので、トンビがタカを生んだりは、まずしない。ベルナデットが候補から外れたなら、次の有力候補として「魂は拳に宿る」が口癖の、通称鉄拳公爵のご令嬢があがったことだろう。
「まんまとセヴラン様のもくろみ通りに進んでしまわれたのでしょう?」
(多少の手違いはあったにせよ)
からかうような輝く瞳で、彼女は従兄弟の王子を見上げた。
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