4章(4)忘れられる呪い
馬車で五日、馬で三日。
この特殊な狼ならば、まず一日というところ。
(その分、乗り心地は覚悟しなきゃいけないけど)
揺れもさることながら、一日中狼の毛皮にしがみついているのって握力のチャレンジかつ相当暇ではないのかしら……、とも気になった。
が、その心配は無用だった。
乗ってすぐ、便利なことに、ワイスとの会話は声を発さなくても集中して意識をすれば可能だとわかったのだ。
(うーん、この機会は上手に利用しなきゃ)
せっかくだ。ベルナデットは目に入る景色のさまざまについてワイスに尋ねることにした。
とはいっても狼の足はとても速いので、風景は次から次へと後方に消え去ってしまい、それほど多くを聞き出せたわけではなかったが。
はっきりしたのは、大きな農家でしかない屋敷がほとんど唯一、人間の住んでいるところ、ということ。
正直な感想で言えば、ほとんど滅びているのでは……、と思いかけ、ワイスに悟られないように控えた。
ノレイアの国境を越えてほどなく。
ベルナデットは天劫の呪いが予想より使えると勘づいた。
ワイスは無用な混乱を避けるために人目のない地帯を選んで移動していたけれど、それでも農夫や牧夫と行き会うことはある。
彼らは、ワイスを目にして一様に驚き、そして次の瞬間、無表情になって関心を失った。
呪いによって記憶が消去されたのだ。
ベルナデットが効力を目の当たりにしたのは、当然ながら初めて。
(もしかして、私もこうなるのかしら……)
自分が何をしているか、わからなくなって……、と。
もっとも、ノレイアを離れてもその気配は全くない。思い出そうとすれば、王子の美しい
よかった、とほっとしつつ
(でもこれって、ワイスにくっついているから……?)
だとしたら、この白い獣はノレイアに属する何かしらの精霊的な存在だということで間違いないだろう。
(もし、そうなら彼から離れたら忘れてしまうってことよね……)
確証にいたる情報はない。
(首都についてから自分の身で確かめるしかないわね……)
そこまでは考えていなかった。こんなところでも、賭をしなければならないとは。自分の想像以上に面倒だ、とベルナデットは改めて感じた。
今からでも破談にするべきだろうか、と再度振り返って考えてもみる。だとしても、グレードダウンした見合いを受けるのは……、さらに次からは断りにくくなるだろう、それは絶対にイヤだった。
(仕方ないわ。やってみないとわからないことは、どうしてもあるものね)
それが致命的な失敗にならなければいいのだけれど。しばらくは不安に付きまとわれると、覚悟しなければならなかった。
(その代わり、これなら人混みの中でも同じことが起きて、私たちのことを無視してくれるのではないかしら)
「ねえ、大きな道に向かってくれる?」とベルナデットは街道を走るように頼んだ。
面倒ごとはごめんだとばかり、当初は渋っていたワイスだったが、実際にやってみると、同じ現象が起きる。
「ほう?」
ワイスも興味深げに周囲を見回した。周辺を往く人々は、ワイスとベルナデットの存在を認識したのち、急速に“見えなく”なった。
「ふむ。これは気を使わないでいいな」
「でしょう?」
ベルナデットは得意げにワイスに胸を張る。彼は、主に驚かさぬよう身に気を配れと命じられておったのだ、と言い訳した。
ふたりは堂々と街道を通り、大通りに入る。舗装された路面は移動がしやすい。認識を阻害してくれるおかげで、相手も自然に彼らを避けてくれる。
おかげで後はすんなりと首都にあるベルナデットが預けられている母の実家、すなわちグエノール家の邸宅前までやってきた。
日没前とはいえ人通りは多かったが、誰も彼女たちを意識しない。
「じゃあ、三日後の午前に来てくれる?」
手前勝手にコキ使ってくれる、と文句を言いつつもワイスは頷き、ベルナデットを丁寧に降ろしてくれた。
さて、本格的にワイスから身体を離すことになる。
(これで、彼らのことを忘れるかしら……)
忘れるとしたらどこまで? 置いてきた従者についても忘れてしまうのだろうか。
(いいえ、忘れない。そんなものに邪魔されたりしない)
少しばかり緊張しながら石畳の上に降りる……。毛皮から離れてゆっくりと振り向く……。
「何だ?」
夕暮れに赤く照らされた、巨躯の狼がそこにいた。
よかった、とベルナデットはほっと肩の力を抜いた。
(大丈夫みたい)
理由はわからないけれど、私は例外なのだわ、ときゅっと口を引き締めた。
「ありがとう、ワイス。また三日後に」
ああ、と狼は調子に乗って咆哮をあげたので、ベルナデットはびくりとした。
すべてではないけれど、人々のうち何人かはぎょっとして周囲を見渡す。
耳は、視界ほど有効ではないようだ。
(またひとつ知見を得たわね)
姿を隠したがっていたくせに、ワイスはその反応に満足げな様子で、振り返りもせず来たときと同じように高く軽やかに跳躍した。疲れの片鱗もみせない。
ベルナデットは荷物を抱え直して、屋敷の門に向き直る。
(さあ、どうやって令嬢の帰還を伝えようかしら)
徒歩やってきて、衣装も変わっている、連れもいない。ベルフォールじゃあるまいし、「ただいま!」でそのまま門番も素通りさせてくれる、なんて無理だろう。
さすがにその辺はわかっていた。
「……? もしかして、ベルナデット様?」
知った声がして、そちらを見ると祖父の側仕えが立っていた。
ベルナデットは内心快哉を叫びたかった。運がいい。
「ええと……? いつお戻りに? というかルシールは? そのお姿は……」
怪訝な顔で周囲を見回す。だいぶ混乱しているようだった。
「いえ、今いきなりそこに現れたような……? 誰もいなかったはずなのに……?」
「そうなの。私よ、ベルナデット・ベルフォール」
慌てて彼女は、側仕えの気を自分に向かせる。余計なことは考えさせちゃいけない。
「一時的に、帰宅しましたの!」
ごまかすためにベルナデットは、にっこりと笑った。
「あ、はい……。お帰りなさいませ……?」
職分に立ち返って、側仕えは慌ててベルナデットの荷物を持って屋敷へと導く。さらに幸運なことに、もっとも苦手な伯父は不在だった。
(本当に運がいい……)
ならば、さっさと自分のペースに巻き込んでしまわなければ、と彼女は翌日の算段をしつつ、眠りについた。
その翌朝……。
ベルナデットは慣れ親しんだ自室の寝台で目覚める。懐かしい香が漂っていた。
グエノール家は朝寝を許す家風ではないが、遠方より戻ったということで家の者たちは遠慮してくれたらしい。そういうときは気を回してくれる。
起こしに来る気配はなかったが、それでもいつも通り早めに目が開いた。
これも健全な農村生活のたまものといえよう。
「さて」
彼女は勢いよく起き上がると自分で身支度をする。
帰宅してからは家司や侍女たちに囲まれて話を聞かれたり、風呂に叩き込まれたり、髪を整えられたりで忙しかったが、その日のうちに「祖父と話がしたい」とは伝えておいた。
(午前中にお祖父様とお話できれば、午後には……)
まあ、どうかな、とは思う。自信はなかった。
グエノール公爵は、現大公の岳父に当たる。つまり、ベルナデットは王子たちの従姉妹になるわけだが、辺境伯の血を引いている関係で、貴族内ヒエラルキーとしてはそれほど高いわけではない。
むしろ、ベルフォール辺境領の地勢的役割のために注目されることが多く、野蛮な熊だが、番犬としては役立つといった認識が一般的だった。
それはベルナデットもよくわかっている。
豪快かつ厳しい人物として知られている祖父のケリアン・グエノールは、そういう意味では若い頃から遣り手の政治家だった。娘のイネスが出奔したのは予想外だったろうが、ベルフォールの若き辺境伯を射止めてくれたのならそれはそれで利用価値がある。
というわけで、縁談が持ち上がっていた時期だったせいで多少は揉めたものの、彼は実利を取って親しく交流を保ち、以後ベルフォール家にとってよい外戚となっている。
軍事に明るい一方で、貴族社会の性質もよく理解していた彼は、山だしの猿状態で首都にやってきたベルナデットをきっちりと面倒を見させ、びしびしと躾けさせたものである。
(もちろん、娘は婚姻の駒に使えるという頭があったからでしょうけども)
悪気はないけれど、基本的にそういう受け止め方しかできないタイプの男なのである。 ベルナデットが多少令嬢らしくない面を見せても許されているのは、そんな利用価値のせいもあった。可愛がってはくれているが、計算高さも持ち合わせている人物なのだ。
そんな彼も寄る年波。最近ではかなり柔らかくなった。
しかし、未だにベルナデットは対面すると緊張する。三つ子の魂というやつのおかげで背筋がぴっと伸びるのだ。
(まずはお祖父様にうまーくお願いして……。目的は、その先だもの)
彼女が本当に会いたいのは、祖父の父、つまり曾祖父になる前グエノール公爵ユアンだ。
ベルナデットの知る曾祖父は可愛くて優しいおじいちゃんにすぎないが、かつては随分な美形で、都の令嬢たちの心を沸かせたと聞かされている。
残念ながらその血は祖父にはそれほど受け継がれていないけれど、遺伝子はベルナデットの母たち、つまり孫娘で開花した。
どんな艶話があろうとも小さな老人になった今では完全に過去の話だし、ベルナデットたち曾孫がそれを彼から感じるようなことはない。
問題はユアンの性格ではなく健康にある。
ここ二年ほど曾祖父の衰えが進んでしまい、呆けている時間が長くなっているのだ。
ベルナデットは、それを心配していた。
ゆっくりと老いていくのは仕方ない。それは飲み込んでいる。けれども、勝手ながら今日は以前の曽祖父でいてほしかった。
相応の実力者であるケリアンにもできないことが、ユアンにはできる。そんな一風変わった権限というか影響力を持っている。
その口利きをして欲しくて、彼女はわざわざここまで帰ってきたのだったが。
(ユアンじいさまだけがあれを発行できる……)
彼女はこっそり、曾祖父をそう呼ぶことを許されている。彼は、変わり種の少女をことのほか可愛がってくれた。
(私がメンクイなのもジジコンのせいかも……)
いや、それは関係ないか。初対面のときにはユアンはもうかわいいおじいちゃんだった。
気になるのは、頭がしっかりしているタイミングで会えるか、ということだった。状況によっては適わないかもしれない。そうなったら面倒で避けたいけれど、第二の手段を使わなければならない。
ちらっと幼なじみの王子がよぎる。
そちらはできれば避けたかった。
ところが、案ずるより産むが易しとはよくいったもので、ベルナデットはケリアンに会わずにユアンとの面会できるようになった。
血縁者とはいえ、通常、当主の許可なしに静養中の前公爵には会えないものなのだが、ケリアンは第二王子の婚約にまつわる手配があり頗る多忙とのことで、面会なしに口伝で許可してくれた。
(相変わらず、私自身には関心がないのね、お祖父様って)
ノレイアの王子から求婚されたことくらいは聞いているだろうが、きっと
(なーんて、その程度にしか捉えてないでしょうよ。孫息子の婚約の方が一大事だし)
それももちろん、影響あったのだろう。
晴れて午前中にひとつめの用事が終わりそうだ、とベルナデットは足取りも軽く南向きの離れへと向かった。この屋敷はノレイアと違って窓も多く明るく、わかりやすくて迷ったりしない。
日差しで作られた廊下に並ぶ四角形を眺めながら、ふと気づく。
(そうだわ……、農家と思えば不思議ではなかったけれど、採光が独特だったのよ、ノレイアでは。そして、まっすぐで広い回廊もなかった)
彼女はよく似た雰囲気の建物を思い出す。
ベルフォール領にある山城だ。
(昔は傭兵稼業をしていた、という歴史を考えれば、それは不思議ではないのかも……)
砦としても機能するよう考えて作られているとしたら無理もないのかな、とも思うのだが、いまひとつ釈然としない。
ユアンはサンルームにいる、と教えられ、ココンと特徴的なノックをしてから返事を待たずに彼女は扉を開けた。
それは曾孫たちとユアンの間の合図だ。
「やあ。お帰り、ちいさな子」
傍らに立つとユアンは、にっこり微笑んだ。大きくて包容力のある椅子にすっぽりくるまれるようにしてガラスの天井から降り注ぐ陽の光を浴びている。
「ただいま、ユアンじいさま」
出かけていても、家にいても彼はいつもそう呼びかけるので、ベルナデットもこう答える。
「久し振りだねえ。何をしていたのかい?」
「遠いところに旅をしてきたの。山奥の小さな国よ」
そうかい、とユアンは頷く。わかっていても、いなくても同じように。
「そうなの。それでね、じいさま。私、その国のことが知りたくなっちゃったの」
ベルナデットは膝をつき、ユアンを下から見上げる。おねだりをする小さな女の子として。
「だから、魔法のカードが欲しいの。許してくださる?」
ユアンは、ベルナデットを見つめた。その瞳は美しい水色をしている。ユアンのように高齢になってもくすむことのない碧眼は、それほど多くはない。
「目が、きらきらしているねえ。楽しいのかい?」
ええ、と彼女は答える。
「おまえの両目は綺麗だけれど、前より色が深くなったねえ」
そうかしら、とそれには首を傾げる。いいよ、サインをしよう、とユアンはペンを持ってこさせ、ベルナデットは書類を手渡した。
「おまえたちは姉妹だったけれども、その目を持っていたのは妹の方だけだったね……」
「やだ。ユアンじいさま、またお母さまと間違えてらっしゃる?」
ベルナデットは訂正しらが、気にはしていない。よくあることだ。前から彼は頻繁に曾孫と孫娘を取り違えた。
彼女ら母娘は似ているという評判だったので、彼の年齢を考えれば自然の摂理のうちかもしれないと思っている。
(どのみち、発行のサインをするには支障ないもの)
「私はね、お前が……だと思ったんだがね」
「え?」
書類を受け取りながらだったので、彼女は聞き逃した。
「何? 何だと思ったの?」
ユアンはそっとベルナデットの頬に触れた。その指先は枯れている。
「お前には特別な瞳がある。昔から何度もそう言ったね? それを大事にしなさい」
知らない。彼女は母親ではない。自分は言われていない。
これまで曾祖父は
「おおそうだ。お前にいつかこれをあげようと思っていたんだよ」
老人は片耳につけた宝石のイヤリングを外して、彼女の耳たぶにつけようと手を伸ばした。ベルナデットは震える枯れた手を両手で包んだ。
「ユアンじいさま、これ大切なものでは?」
もはや片方になってしまったこの飾りは、若い頃の恋の形見だと聞いたことがある。
それは事実なのだろう。ユアンの瞳と同じ、水色をした涙の形をした宝石だ。
「だからお前に渡すのだよ」
彼は優しく笑った。
「ええと」
ベルナデットは詳しく尋ねたかったが、もう行きなさい、とユアンに促されて諦めた。曾祖父はとても疲れているように見えた。
「また、会いに来るわね」
背中から優しく声をかけると、ユアンは微かに頷いた。
(お眠りになるのかしら)
音を立てないよう、そうっとそうっと彼女は退出する。
それがすぐに失われる光景なのだと理解するには、まだ少女は稚すぎた。
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