4章(1)全部まるっとお断り!
「はぁ……!」
瞼を開けずに大きくため息をつく。気持ちよすぎる。
(この屋敷の寝具はどうしてこうも心地よいのかしら……)
三度め、いつもの寝台で目覚めたベルナデットはまたもや寝心地に感動する。さっさと起きるべきとは思いつつも、そうしたくはないまどろみ。
(いっそ寝具一式を主要品として輸出すればいいのではないのかしら)
などと呑気なことを考えて時間をつぶすわけにもいかない。彼女はのろのろと起き上がろうとした。
「いたっ!」
その快適さも一転、欠伸ひとつで全身に筋肉痛が走った。
(そうだった……)
ようやく昨日やった無茶を思い出す。
ベルナデットは少年の姿になったワイスを背負うようにして引きずって、どうにか屋敷の周辺に広がった畑の端にまで辿りつけたのだった。
ただし、その頃にはもうほぼ日は暮れていた。
早くも点された窓の明かりでどれほどほっとしたことか。
ほら、もうそこよ、と声をかけてもワイスは答えなかった。気絶したのか、眠ったのかまではわからない。
最初こそ世間話をする余裕があったけれど、途中から彼は意識をなくしていた。
怪我のせい? と疑ったものの、眠っているようにも思えたのでそのままにしておいた。きっちりと確認する元気もなかった。
(こう見えて案外幼いのかも)
犬は人間を置いてすぐに大人になる。ワイスの種族にとっては違うのかもしれないけれど。十数年前は子犬だったというのなら……。
もっとも、疲労は幼さのせいといえるのかどうか。獣から人間、さらに獣へと変身することがどれほどの負担なのか、ベルナデットには想像もつかないからだ。
彼女は、大きく息を吐き出してワイスを草むらに下ろし、自分は畑の始まりを示す石垣に寄りかかった。
少し休まないと、それ以上進めそうになかった。
いくら若い女性としては力があるとはいっても、日々肉体労働をしているわけではない。ふだん経験しない常識はずれの行程にすっかり疲れ果てている。
安心したせいもあるだろう。とても身体が重くてどうにもできなかった。
(もう少し。もうちょっと休んだら……。そしたら動ける)
彼女の記憶は一度そこで途切れる。
次に覚えているのは断片的な光景だ。
何人分もの声がした。最初に判別できたのは聞いたことのない強いバメイの言葉。それから呼びかけるアデルの気配も間近に感じた。
(ああ、見つけてくれたのかな……、それとも夢……?)
虚ろな思考はそこで止まり、そして、現在に繋がる。
無理をせぬよう、労わるようにゆっくりと起き上がって、ベルナデットは自分の衣装をあらためた。夜着に変えられてはいるけれど、あくまで上物だけだ。下着は出かけた日のまま。
おそらく汚れてぼろぼろだった上の衣服のみを換えたのだろう。泥と草の汁にまみれた状態で寝台に寝かせるはずもない。
歪な結び目は、王子でもバメイでもなく、ルブルの女たちが担当したのだろうと推測できる。彼女らの手には余る長さだから、きっと苦労したのだろう。
部屋を見渡すと、チェストの上には畳まれた昨日の服とベルトから外された革袋がきちんと整理されて並んでいる。
「いたた……」
まるで年寄りよね、とぎしぎしと音を立てそうな節々に驚きつつ、ベルナデットは寝台を抜け出して革袋を手に取った。たぽん、と水が揺れる重さを感じた。
「よし」
アデルたちに気づかれたら、いろいろと面倒になるだろう。まず、質問責めになるのは間違いない。
(だって、私でもそうするもの)
その前に、まずは冷泉の恩恵をルシールに与えてしまいたかった。休んでいるのは、隣の小部屋だろう、とベルナデットが予想していた通り、彼女はそこにいた。
顔が赤い。熱に浮かされた頬に手の甲を当てたら、ベルナデットの肌の冷たさを感じて寄ったルシールの眉が一瞬すっと緩んだ。
(ごめんね)
初めてベルナデットは後悔した。
面白がって、軽々しくこんな遠くまでやってきた。
父親のアルノーは興味を示した反面、母親のイネスは言外にではあっても反対していた。当然だろう。ふつうの貴族の令嬢ならこんなバカな選択はしない。
首都では悪評もあって呼吸しづらくて、気分転換くらいにはなるだろうと、軽薄にも強引に実現させたのだ。その自覚はあった。
(月琳は絶対ついてきてくれるって思ってたもの。わかってたから、だから安心して無茶を言ったんだわ……)
傲慢と誹られても反論できない。
ベルナデットは革袋の口紐をほどいて、サイドテーブルにあったグラスにその水を入れる。それからルシールの上半身を起こして、唇を湿らす程度にグラスを傾けた。
「ん……。ベル……?」
そうよ、と彼女は答える。
「つらいでしょう。少しでいいから水を飲んで」
ええ、とも、はい、ともつかない返事をしながらも、ルシールは主人の言葉に従うため口を開く。わずかではあったが喉が動くのを確認して、ベルナデットは従者を寝台に横たわらせた。
(これで快方に向かってくれたらいいのだけど)
ふっと、狼の言い分を信じている自分が滑稽に思えた。
会話ができたからといって、何故真実だと思ったのだろう? そもそも狼と話をしたなんて、本当のことだったろうか。
獣の背に捕まって疾走した、昨日の出来事は夢のようにも思える。
(いいえ、でもあったのだわ)
お伽話に出てくるような絵に描かれたような“小さいひとたち”。
神話の時代から生きている霊獣・神獣。
噂話、昔話としてのみ話題に上がる天劫災害……。
これまで縁のなかった事柄が一気に襲い掛かってきた。
(私が実際に触れた奇譚なんて、お父様の強いご加護とよくわからない熊の話くらいよ)
せいぜいが笑いごとになるレベルの……。それなのに、いきなりこんなにも。
ここに着いてからずっと。
信じられないことだろうが、これらはすべてが事実なのだ。
「認めなきゃ、始まらないわよね……」
(あーあ。都合のいい話なんてないってことか)
ベルナデットは音を立てないように自室に移り、手早く着替えをした。ルシールがいないので髪はうまく結べない。そういう器用さは持ち合わせてもいないし、今日は筋肉痛のせいでさらに腕が怠くて指先が震える。
しかたなく、ひとつに縛って左肩から前に垂らした。
身支度を済ませると、彼女は寝台に腰かけた。
さあ、どうしよう。
こんな話は聞いていない。
想定外もいいところだ。
天劫を伏せていたことは、ある程度仕方なかったとしても。
「ふざけないでくださる?」
声に出してみる。
そう言って、即座に帰国するのが常識的な対応だろう。ベルナデットもわかっている。でも、そうしたい気持ちには、どうにもなれない。
「楽だったものね……」
ぽろりと零れた自分の声は耳に入ってから、あ、これ本音だ、と驚く。
(そう、楽だった)
言葉にすると、じわじわと実感は増してくる。この三日ほどは、彼女はとても楽だったのだ。
好き勝手にしているといわれていても、彼女なりにはいろいろと気を遣って暮らしている。あくまで自分比ではあるけれど。
その気遣いは、ノレイアに来てからはほとんど仕事をしていない。
伸び伸びとできている。縁談がダメになったら、そのとき、という気構えもあるかもしれなかった。
(私は、どうしたいんだろう)
普通なら帰る。なかったことにする。
それはそうだ。
(帰って、どうするの?)
きっと両親や伯父たちが新しい縁談を探してくるだろう。今度はもっと真っ当で、こんな後出しびっくり情報のない人物を。
もしかしたら、身分も、顔面偏差値もぐっと下がってしまうかもしれない。
けれど、親族からすれば安全で、安心できて、ちゃんとしたお相手……。平和に、平穏に一生を過ごせるような。
そういう妥当なお相手を。
ゾッとした。
繁殖される家畜よろしく、決まった場所に繋がれて赤ん坊を抱いている自分の姿が浮かんで。
彼女は自分を抱きしめた。
そんなふうにして、五年、十年、二十年と過ぎて行き、最期は半泣きの孫たちに「お祖母ちゃん」と囲まれて、いい人生だったな、と感じながら……。
「死ぬ?」
幸せと思う人はいるだろう。それはいいことだ。
(でも、私の幸せではない)
改めて、はっきりと感じた。
もうイヤだ。
諦め続けることは。
ベルナデットは唇を噛みしめる。
追われるように故郷から出された。「両親がいちゃつきたかったのよ」とはふざけはするけれど、地元を旅立ったときの異様な雰囲気はなんとなく覚えている。
自分が、あの土地に要らない者だと切り捨てられたのだ、という感覚は未だに拭えない。
どこにでもいる、ありきたりな令嬢になるために首都で教育を受けた。そうすることが、貴女のためよ、と繰り返し諭されながら。
その意味とは、誰かの付属品になること。
ごく早いうちから、ベルナデットには理解できていた。
周囲は、他の生き方など教えてくれなかった。
(お母さまは、あんなに自由に自分の生き方を選んだくせにね)
何故、自分には許されないのか。つまらない。本当につまらない、とそう内心で燻っていた。
それが破天荒なふるまいに結び付いていた、ともいえる。
だからといって、ベルフォールにもいよいよ戻れない。
(私に、居場所なんてないものね……)
縁談がいくつも立ち消えになり、求婚もダメになったとなれば、本格的にベルナデットの令嬢としての賞味期限は切れる。
その先は……。
(永遠の婚活令嬢なんてまっぴらだわ)
よくわかっている。いいえ。
改めて、わかった。
「誰かの顔色を窺って生きるなんて、絶対にイヤ」
居場所はなければ、作ればいい。というか、もうそうするほかない。
ベルナデットは寝台から身軽に飛び降りて、外へと向かった。若干憂鬱ではあるけれど、こうなったらさくさくと進めてしまわなければ。
(うーん、でもさすがに求婚をひっこめられるかしら)
傍から見れば、王子の愛犬を勝手に連れ出して行方不明になりかけたのだ。しかも、ぼろぼろの姿で。およそ令嬢のありようではない。
(いや、でも大体自力で戻ってこれたし)
そういう問題でもないんだろうな……、と自省する。
セヴラン王子によく指摘された「見た目と行動に差がありすぎて、ほとんど詐欺」という部分が、もろに出てしまった。アデルはベルナデットに幻想を持っていそうだったし、本当にただの行き遅れになるかもしれない。
その覚悟はしておくべきだと心を決める。
「当然よね……」
結果的に昨夜はなし崩しになったけれども、さすがに釈明は求められるだろう。その結果、「思ってたのと違う」となりそうだった。
そうなったらそうで、どうしようもない。向こうから来るのを待つのではなく、彼女は自分からアデルたちを探しに出た。
で。
(うん、忘れてた)
またまた迷った。
どうしてこう、この屋敷の間取りを覚えられないのか。もういいや、適当に開けられるとこを開けて、そこにいた人に場所を聞こう、と明らかに客用ではない素朴な扉をぐいと引いた。
「あっ」
そこは主人の傍仕えが使う部屋だったらしい。
机で書面を読んでいるバメイがいた。
「ベルナデット……、様」
無表情なバメイも、唐突すぎて驚きを隠し切れていなかった。
「あの……、ごめんなさい。失礼しました……。その、迷って」
貴女はこんな小さな館でも方向音痴になれるのですね、と呆れているのか、嫌味なのかわからない、声色だけは低く落ち着いた調子で呟き、彼は立ち上がった。
「それで、どちらへ?」
「アデル様を探していて……。でも、貴方にもお話はありましたの」
何を? と彼は首を傾げた。
「謝罪したいのです。本当に申し訳ないことをしましたわ」
ああ、と彼は溜息をついた。
「そうですね。貴女をお預かりしている立場になりますので、大変肝を冷やしました」
おや、とベルナデットは思う。おためごかしのない本音らしい口調は、ノレイア滞在中初めてだ。
「はい。浅慮だったと反省しております」
それは思ってもいないが、彼女はしおらしく目を伏せた。
はあ、とバメイは息をついた。
「……。それは嘘ですね」
ばっさりとバメイは切り捨てる。えー、と彼女は視線を流した。
そう切り返されるとは予想していなかった。
「そのようには思っておられないでしょう。この際ですので、はっきり申し上げますが」
相変わらず陶器のような硬い表情のまま、バメイは告げる。
「ワイスの管理は私がしています。ですので、勝手に連れ出すのはお止めいただきたいのです」
「それは……。その通りですわね」
これは一言もない。
「さきほど申し上げたように、貴女は今はまだアデル様のご婚約者ですらありません。ご後見は父上の辺境伯です。貴女の身に何かあったら、ご両親にどのようにお詫びしても足りないことでしょう」
はい、とベルナデットはうなだれた……。が、内心は予想通り面倒事になってしまった、どうしようかと思案を始めている。
(先にこの男に見つかったのは失敗だったわ……)
といってもベルナデットの方が部屋に侵入したのだが。
「ワイスは大人しい狼ではありますが、野生であることは忘れてはならない、それはベルフォール領でも同じことかと存じます。ご興味をお持ちいただけたなら、なおのこと。お声をかけていただければ、と思います」
(ああ……。これはまずい風向きだ)
「政治問題に発展しても不思議はないのです。ご身分を考えれば」
どこかで話を切って、アデルとその話がしたいと言わなければ、と思った彼女の先手を取るようにバメイは尋ねた。
「大体、なぜワイスを外に出されたのですか? そういった軽挙をされるような方とは思えません。何か問題や事故でもあったのでしょうか? ワイスが思いがけず暴れ出した、とか? 私にはそれを把握しておく義務があります」
(はい、来た!)
彼女はこの詰問を避けたかったのだ。
大きな白い狼から従者の病を治す泉があると聞いて、一緒に足を伸ばしたところで、炎竜に見つかって命からがら逃げてきた……。
などと説明できるわけがない。
(それに口止めされてるのよね……)
帰る道すがら、ワイスは何度も彼女にそう繰り返した。
「俺が人間の姿になれると王子は知らない。それは言うな。それと、お前との会話もだ」
もっとも教えたとしても無駄だろう、と彼はさらに続けた。
王子の前で人間になれたことはないし、話もできたことはない。目の前で見でもしないと信じることはないだろう、と。
もっともな話だ。
「それなら、私が話しても黙っていても同じではないのかしら……?」
念押しを不思議に感じてベルナデットが問うと、ワイスは、ふっと謎めいた笑みを浮かべて瞼を閉じ、そのまま意識をなくした。
ゆえに理由は聞けていない。
(なにかしらの禁忌に触れるのかしら……。天劫災害の呪いのような)
背景を知りたくはあったけれども、その後間もなくアデルたちに発見されてしまったので機会を逸した。
どちらにせよ、はっきり理由がわからない状態で無闇にワイスの頼みを退けたくはない。なんといってもワイスは彼女の願いを聞き入れて、泉まで連れていってくれたのだ。その分の借りがある。
そのせいで自然と彼女は口ごもることになり、バメイの目は疑いを帯びてすっと細くなった。
(ああ……。まずい、きっと変な想像をされている……)
誤解に誤解を重ねられてしまう、と彼女は焦ってぱっと手の平を開いた。
「その……。信じていただけるかわからないのですけども」
(ごんなさい、ワイス!)
ワイスの願いをすべて叶えてはやれない。巧妙な嘘には少しの真実が必要だ。
「乗せてくれる、と彼が伝えてきたのですわ」
できうる限り真剣かつ静かな面持ちでベルナデットは伝えた。
「……。は?」
案の定、バメイは驚き、次に怪訝な表情で彼女を見つめた。
(ですよね……)
予想していた反応ではあった。
(それにしても、この人も整った男らしい顔をしてるわ)
どちらかといえば、母の好みそうな外見だ。人間のときのワイスもそうだったが、美形の産地なのだろうか。もっとも、実例が三つでは立証は難しい。
妙な感心をする一方で、彼女は脳内でささっと理屈を組み立てた。
「もちろん、動物と会話ができるなんて荒唐無稽なことは申しませんわ」
(したけど)
それは今のところ秘密だった。
「けれど、彼がそう望み、そうさせてくれるのだと、私にはわかったのです!」
苦しい主張だったが、ベルナデットは相手の瞳を覗き込んで断言した。それで押し切るほか、彼女にはない。
思案していたバメイは、はっとする。
「もしや……。ベルフォール辺境伯の屋敷では、野生の熊が人間の従者であるかのように出入りしていると聞きます……。辺境伯に特別な猛獣使役の才があるのだと考えていましたが、そうではなく……?」
(いえ、あれはそういうのとは違う別の特殊な才能……、というか関係だけれど)
ともかくも都合のよい方向に意識が向いているようなので、彼女は大きく頷いた。そうしたところで、別に明言はしていない。
「王子が大切にしていらっしゃるワイスが提案するのならば、私も信頼するべきだと思いました」
そこで彼女は憂いの表情を作る。
「けれどもバメイ様のお役目と後責任は重々理解できますし、お声をかけて出た方がよかった、というのはその通りでしょう。確かに浅慮とのご指摘、言い訳はできませんわ」
わかってくださいますか、とバメイは少しほっとした顔になった。彼女は、きっと顔を上げる。
「でも、イヤです」
「は? 今なんと?」
「お断りする、と申し上げたのです」
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