1年目4月・お名前を上げよう

 ようやっと服が乾いて恵美は帰宅してすぐにタブレットをした。そこにはきちんとヤマでの活動時間の残りが四十九分と目減りして表示されていてがっくりと土の床に両膝と両肘を付く。

 心優しい妹ちゃんが染井吉野そめいよしのから受けていた言葉の学習を中断してまでその恵美の情けない背中をぽんぽんと叩いて慰めてくれる。

「うぅ、ありがとう! 好き! 結婚して!」

「エミ、あがいもにフラチする、ユルサナイ」

 反射で妹ちゃんに抱き着いて目を白黒させた恵美ロリコンを姉である少女が昨日までより遥かに流暢になった言葉で牽制する。

 さすが彼女は元から古めかしくても言葉を扱えていたのもあって染井吉野によるきちんとした授業を横で聞いているだけでかなり言語スキルが上昇している。

「やばい、今までは言葉がわからないって逃げられたのに、けっこうわかるから無視できない」

「いや、言われるまでに自分の行動を自制しろ、ばか」

 お姉ちゃんに認められないと顔を冷ましながらも妹ちゃんを手放さない恵美を蜜緋芽みつひめが容赦なく罵倒する。

 もちろん言葉だけで恵美おばかが言動を改めることはないのだけれど今その背中を蹴ると妹ちゃんにまで衝撃が通ってしまうから実力行使に出ることもできない。

 そんな中で今年生まれたばかりであろう赤ちゃんを抱いた恵美と同年代のお母さんは厄介事に巻き込まれないようにと茅葺屋根の裏側である壁にそっと身を引いていた。

「それにしてもあれだね」

「エミ、まずあがいもを放す。語るはそのあと」

 妹ちゃんを抱き着いたまま会話を続けてなし崩しにしてしまおうとした確信犯を賢いお姉ちゃんは見逃さない。

 しっかりと釘を刺されて恵美は渋々とできる限りゆっくりと小さな体に絡めた腕を解いていく。

「あんた本当に往生際が悪いのよ」

「ぐぎゃっ!?」

 妹ちゃんを解放した瞬間に蜜緋芽は上手に恵美の頭を足で小突いて床に転がした。

 どべしゃ、となかなか派手な音を立てて土の床に顔面を鎮めた恵美の後頭部を妹ちゃんがまたぽんぽんと叩く。

「これ、いっそ玩具だと思われてません?」

「止めなさい。玩具にされたとかこのばかが喜びそうな言葉を使わない」

 染井吉野が率直な感想を述べると蜜緋芽は口煩い聖職者のようにそこに含まれていた誤解を生みそうな言葉を制する。

 それによって、信用がない、いやむしろ逆の意味で信用され切っているのか、と染井吉野から憐みの眼差しが恵美へと送られる。

「妹ちゃんからやってきてくれたからこれはわたし無罪なやつ……南極でペンギンの方から近寄って来ても怒られないのと同じ理屈……」

「あんたのそのばかばかしいまでにギリギリの罪を重ねていくところ、尊敬しなくはないけど全部計上してやるからね」

 ここまでやられてもちっとも懲りていない恵美を蜜緋芽は冷たく見下す。

「それでですね、わたしは思うんですがそろそろみんなにも名前が必要だと思うんだけど呼びにくい」

 恵美は床にへばり付いたまま顔だけ上げて出鼻をくじかれていた話題を切り出した。いや出鼻をくじいたのは半分は恵美自身だしもう半分も恵美の悪行が原因であるし、その上でそんな床に這いつくばったまま出されるには真面目な話題過ぎて逆に対応が困る。

「このサトは櫻守以外に五十人いますけど、全員にお名前を付けて差し上げるのです?」

「いや、それはちょっと……わたしの手に余るから……どうかお力をお貸しください」

 染井吉野が恵美の話題に乗ってその思惑を確かめると恵美は床に転がされた体勢をこれ幸いと土下座に繋げて肩代わりを懇願する。

 五十人もの人の名付けを恵美の語彙に任せるのはこの上なく不安しかないので染井吉野から困った視線で見上げられた蜜緋芽は小さく頷く。

「あ、でも! お姉ちゃん様のお名前はいいのがあるんだよ! あるんだよ!」

 言い出しっぺのくせに弱気だった恵美がいきなり声を大きくしてがばりと上半身を持ち上げるとその背中に登ろうと腕を伸ばしていた妹ちゃんがびくりと体をのけ反らせる。

「エミ、うるさい、おばか、あぶないでしょ、落ち着きがないんだから」

 大事な妹をあわや転ばせそうにした恵美にお姉ちゃんから厳しい罵倒が雨霰とぶつけられる。

「ミツヒメ!」

「だからこっちじゃないっての、おばか」

 罵倒を教えただなんて冤罪を被せられた蜜緋芽は即座に言い返してこちらからも恵美に罵倒を重ねる。

「ぐぬぬぬ」

 恵美がなんか唸っているが完全なるお門違いだ。

「ぐぬ、ぬ、ぬぅん……」

 蜜緋芽とお姉ちゃんが揃って冷たい蔑みの眼差しを浴びせかけると恵美も居心地が悪くなっていって不満の声を作り物に変えてさらに先細りさせていく。

 そして恵美の唸り声が途切れて、人に囲まれた捕縛目前の獣のように注目を集めて、ほんの少しだけ静けさが住居内に還ってくる。

「いろはちゃん!」

 静かな空気をいきなりぶち破って恵美はずびしとお姉ちゃんを指差して表情に自信を溢れ返させる。

 渾身の命名だ、とでも思っているのだろう。

「人を指差すのは止めなさい」

「まず名前について話題にしよう!?」

 蜜緋芽が恵美の態度に苦言を呈するが恵美としては触れてもらいたいのはそこではないので抗議の声を荒げる。

「エミ、うるさい、おばか」

「こっちからも!?」

 声を張り上げる恵美にお姉ちゃんからもお決まりの苦情が寄せられると恵美は余計に大きな声で悲嘆してくる。

 騒音から弟くんの耳を守るお姉ちゃんは迷惑そうな眼差しで蜜緋芽に訴えかける。

 蜜緋芽は恵美を住居から摘まみ出すかどうか本気で悩むがそんな隙に動き出すくらいに行動力が溢れているのが恵美のばかさ加減なのである。

「いろはちゃんだよ、いろは! 言葉を始めに覚えた子だから、いろは歌からいろは! めっちゃよくない!?」

 必死になって考えた名前の良さを主張する恵美に一同は揃って白けた視線を集中砲火する。

 内容がどれだけ良くてもそれをプレゼンするやり方が悪いと相手にされないというとても悪い例だ。

 そんな冷たい雨に打たれるような心地で恵美はしゅんと勢いを失っていく。

「いろはちゃん、だめ?」

 ここに来てやっと恵美はしおらしく上目遣いでお姉ちゃんに気に入らないかとお伺いする。

 初めからそんな殊勝な態度を出せばいいのに、と蜜緋芽はひっそりとやるせない溜め息を吐く。

「いろは、ですって」

「い、ろ……?」

 仕方なしに蜜緋芽が本人に全く伝わってなかった要点を改めて伝える。

 しかし突然名前を突き付けられてもお姉ちゃんには戸惑っている。彼女しか言葉を話せる人がいなかったのだからお互いを呼び合うための名前が必要とされなかったのは当たり前と言えば当たり前だ。

「いろは、の名です。い、ろ、は」

 見るに見かねて今度は染井吉野が古語を用いながら彼女に恵美から贈られた名前を教えて上げる。

「あが名? いろ、は。いろは」

 それでやっと本人も恵美の意図が伝わったらしく、たどたどしくもらった名前を繰り返して口に馴染ませようとする。

「そう! いろはちゃん! かわいいっぎゃっ!」

「だからすぐ飛び付くなっての」

 やっと自分の考えた名前が届いた感激で脊髄だけで動き出した恵美を蜜緋芽の拳が撃墜した。

「エミ、おばか……」

 いろはもすっかり、おばか、という言葉をしっかり正しく使えるくらいに覚えてしまったのだった。

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