1年目4月・サトヤマについて

 一緒に来たみんなが水浴びを終えて帰っていった後も恵美はまだ素っ裸で沢のそばに突っ立っていた。理由は単純で服が乾かないのである。

 所在無く濡れた服を持っている恵美の近くにいるのは退屈そうに頬杖をついている蜜緋芽みつひめだけだ。

「みんな、わたしを置いて行っちゃうなんてひどい……」

「いや、連れて行こうとしたのに拒んだのあんたでしょ」

 蜜緋芽の言う通りいつもの妹ちゃんが来た時同様に恵美の手を引いて一緒に帰ろうと誘ってくれた。

 恵美以外のみんなは服の素材が麻で目も粗くて乾きやすいし、生乾きでも構わずに着こんでしまうし、そもそも着ている服の数が恵美と比べて圧倒的に少ないし、と同じように服を丸洗いしても必要とする時間がまるで違っていた。

「まっぱで帰れと!?」

「普段の言動とのギャップを喜べばいいのか哀しめばいいのか……取りあえず蔑めばいい?」

「やだ、人目がないからって、そんな。きゃっ」

 頬を染めて身をくねらせる恵美を見て蜜緋芽はもう相手をするのを止めた。

「うぅ、せめて脱水機さえあれば」

 恵美の細腕ではいくら服を絞っても全然水気がなくならなくてさっきから全く乾いてきている実感がない。

 春の日射しのお陰で全裸でも寒くないどころか皐風さわかぜが肌に涼しいくらいだけれど現代人の分別としてそのままでは人のいる場所には戻れない。

「ところであんた気付いてないだろうから一応言っておくけど」

「ん? なに? ミツヒメがツンデレっていうのはちゃんと気付いてるよ」

「まじで会話する気なくすの止めてくれない?」

 なんでもすぐ色恋沙汰に挿げ替える恵美に侮蔑の眼差しを突き立ててそれでも命の危険なのだから言わなくてはと蜜緋芽は重たくなった口を開く。

「ここ、ヤマの中だから活動の制限時間引かれるからね」

「うそでしょ!?」

 みんなに連れて来られたのにこの沢がサトの範囲から外れているだなんてひどい罠だと恵美は驚愕する。

「ヤマで危ないからみんなさっさと帰って行ったんでしょうが。あの子だってかなりがんばってあんたの手引いてたでしょ」

「確かに一生懸命になっててかわいいって思ってたけど……」

 言われてみれば恵美を連れて帰ろうとする少女の顔には少し焦りが混じっていたかもしれない。小さい手で恵美の腕を掴んで、小さい体を懸命に揺らして恵美を引っ張っていた少女の仕草によからぬ感情を抱いていた恵美がその表情をちゃんと見れていたかは定かではない。

「え、ちょ、まって。じゃあまたヤマノケ出て来たり……?」

 昨日襲ってきた動物の影を思い出して恵美は今更ながらきょろきょろと辺りを警戒する。

「こっちのヤマは向こうほど荒ぶってないからこんな領域の際までヤマノケは出ないわよ。出てきたらあんたは相当運が悪いわね」

「フラグ立てるの止めよ? 噂をすれば影ってことわざ知ってる?」

 恵美が珍しくもっともなことを言うから蜜緋芽も肩を竦めて脅威を話題にするのは取り下げた。

 昨日のヤマノケは南の方角にある山の眷属だ。この沢はサトの北側であり遠くに見える三春瀧桜みはるのたきざくらも植わっている高い山嶺の領域にある。

 ちなみにこちらの山嶺は天に向かって掲げられた剣のように尖った切っ先が鮮明であり南に見える山よりも明らかに山頂が高い。

「あ、でも出てきたもミツヒメが守ってくれて、それから追い払ってくれるよね?」

「それが出来るんだったらこんな急かすようなこと言ってないっての」

「え」

 頼りにしている櫻媛さくらひめが自信なさそうに溜め息を吐くから恵美も怖くなって身震いする。

「コノハナサクヤも言ってたけどヤマだとなんでも全部できるわけじゃないの。こっち一人だとあんたが倒れないように結界張るので手一杯だからヤマノケ出て来ても戦闘とか無理だから」

「やばやばでは?」

「やばやばなのよ」

 呑気に服が乾くのを待ってる場合じゃないと知って恵美の顔が青褪める。

 でもまだ濡れそぼった服を着たら肌にぴったり張り付いて気持ち悪いことこの上ない。

 蜜緋芽が口で言うほど気を張っていなくて退屈そうに頬杖付いたままなのも恵美の抱く危機感を曖昧にする。

「休眠のままの染井吉野そめいよしのもヤマに来れないから残ってたわけだし、本当に面倒な世界よね」

 言われて初めて恵美は家の隣に植えた櫻媛が付き添っていないのに気付く。家からみんなでぞろぞろと出てきたのに気付かなかったというわけもないだろうし、染井吉野は真面目だからそのまま黙って見送るのも考えてみればおかしい。

「水浴びの度に命の危機って怖いんだけど。体洗いたい時に気軽に来れないじゃん」

 やはり早く家にお風呂を作らないと、だなんて斜め上な決意を恵美は胸の中で固める。

「まぁ、この辺りなら開拓すればサトヤマになるでしょうけど」

「里山? 里山は安全判定なの?」

 里山と言えば人の手が入ることによって環境を保っている山のことだ。同じような場所として里海とかいう言葉も最近ではある。

 確かにそこは里であり山でもある、自然の恵みを人が得るために利用しやすく管理した環境だ。

「ええ、サトヤマはサトのように人の身は害されることがなくて、けれどヤマの復元力で資源が供給される環境よ。まぁ、草刈りとか石垣とかの管理を怠るとまたヤマに還ってしまうけれど」

 毎日草むしりして道を作るだけでもそれなりに効果あるわよ、と蜜緋芽は具体的な案も付け足した。

 恵美は、ふんふん、と頷いているけれど裸のままだからなんとも間抜けな光景になってしまっている。

「ま、まずはこの後女神のとこ行ってヤマでの注意点をちゃんと聞くのと、あともうちょい櫻媛増やして同行させられるようにしてからね」

「はーい」

 まだこの世界にやって来て四日目。まだまだ地に足を付けた安定した日常を過ごすにはやるべきことが多い。

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