1年目4月・みずあみ

 よだれを垂らして眠っていた恵美はぺちぺちと頬を叩かれて目を覚ました。

 ぼんやりとした視力の真ん中には恵美のお腹に馬乗りになって顔を覗いてくる妹ちゃん少女の姿がある。

「……朝チュン? まって、せっかくのお楽しみの記憶がないんだけど」

 朝っぱらから意味不明な発言をする恵美に妹ちゃんはきょとんとする。昨日から染井吉野そめいよしのに言葉を習っていると言ってもまだ少女に恵美の戯言を理解するほどの語彙力はない。ない方が幸せかもしれないまである。

 取りあえず恵美を起こす役目を果たした妹ちゃんはその体から降りていったので恵美は上半身を起こして首を巡らせる。

 するといつもは朝早くからいなくなっている皆さんがまだ家の中に揃っていた。

「あれ、皆さんいつもまだ暗いうちから出ていかれるのに今日はゆっくりしてるんですね?」

 四日目にして初めての光景に恵美は不思議がる。雀達が元気に鳴いている声を聞きながらまだ寝惚けた頭をゆるゆると揺らしても答えは出てこない。

「エミ、みずあみ、いく」

「みずあみ……水飴?」

 恵美が起きたのを見てみんなが腰を上げていく中でお腹を膨らませたお姉ちゃんな少女が声をかけてきてくれた。

 けれど相変わらず恵美との間の意思疎通は困難を極めていく。

「行くって、どこか行くの? わたしも?」

 恵美は重ねて問いかけるけれどもお姉ちゃんもみんなに置いて行かれないように急いでいるのか恵美の手を取ってまずは立ち上がらせようとする。

 よくわからないけれど郷に入っては郷に従え、取りあえずついて行こうと恵美は促されるままに起き上がって妹ちゃんに手を引かれながら弟くんと連れ添うお姉ちゃんの背中をくっ付いていく。

 ぞろぞろとみんなで連れ立って歩くのはこちらの世界で初めての体験で恵美は物珍しがっているけれどまともに会話ができる相手がいないのが難点だ。お喋り好きな煩い女に黙って歩き続けるのはちょっとした試練になる。

「エミ、あんたこっちになんにも言わないでどこに行くのよ」

 そんな道すがらで蜜緋芽みつひめが颯爽と現れた。

「おはよー。だってみんなについて来いっていうから」

「おはよ。あの子がなにか言ってなかったの?」

「水飴? に行くって」

「は?」

 恵美の歩幅を合わせてせめてもの情報収集をする蜜緋芽だけど全く要領を得ない説明に不機嫌になっていく。

 なんでこう行き当たりばったりなのか、蜜緋芽も頭が痛くなる。

「てか、よく家にいないのにわたしの居場所わかったね?」

「あんたの居場所はなんとなくわかるのよ。縁ってやつね」

「運命の人ってこと?」

「あんたみたいな手間のかかる運命とか捨てたくなるもの押し付けないでくれる?」

 蜜緋芽ったらつれない、と恵美も恵美で頬を膨らませる。

 蜜緋芽もどうせみんなについて行けばどこが目的地かもわかるかと会話を打ち切る。視線を遠くへと投げやって行先に危険がないかを確認するのに努めている。

 やがて行き着いたのは透き通った水の緩やかな流れを薄く湛える沢だった。

 一緒に来た女性達は次々と服を脱いでその川の浅瀬に全身を浸していく。そのついでに服も沢の水の中で揉んで洗っているようだ。

「やばい、ここ天国かな」

「行きたいならいっそ送ってあげましょうか?」

 前振りもなく始まった素肌の公開に頬を緩ませる恵美に蜜緋芽は息の根を止めるのもやぶさかではないと割と本気で拳を握る。

「いえ、その、せっかくなら生きてこの光景を目に焼き付けたいです」

「この沢に頭から沈めたらあんたの心もちっとは綺麗になるかしらね」

 蜜緋芽は口で言っても利かないと判断してがっちりと恵美の首根っこを掴んだ。

 さすがに命の危険を感じた恵美は小さく両手を上げて降参の意思を見せる。

「全くもう……水飴じゃなくて水浴みって言われたんでしょ」

「あ、それ! あみ! なんで網? この後魚とか採るの?」

「浴びるって言うのを古語で浴むっていうでしょ?」

「ああ! なんか聞いたことある!」

 水を浴むだなんて古めかしい言い回しが通じないのは仕方ないのだけど普段の態度の悪さのせいでつい口が酸っぱくなるのを自覚して蜜緋芽は強いて口をつぐむ。

 落ち度がないところにまで口煩く貶すのは正しくないと強い自制心で蜜緋芽自身を諫める。例えこれまでに溜まった不満でいくらでも罵倒したくて堪らないのだとしても不当に貶めたりしてはならない。

「みんな一緒に入るんだね。う、冷たい水……あったかいお風呂入りたい」

 恵美は靴を脱いで足先を沢に浸してすぐその冷たさに声を震わせた。ないものねだりだとしても毎日お風呂に入っていたのを懐かしんでしまう。

 それでも太陽がすっくと昇っていく日射しは肌に当たると確かな熱を感じるくらいだから服を脱いで水に体を浸すのも短時間なら身震いするほどではない。

「おおおお! 汚れが! 汚れが落ちる!」

 肌を擦る度に水に汗や泥が黒く浮いて流れていくのがはっきりと見えて恵美は驚嘆する。確かに何日もお風呂に入ってなくて肌がどろどろになってたのはわかっていたけれど冷たい水でこんなに落ちるくらいに汚れが溜まっていた事実は女子としてちょっと戦慄ものだった。

 けれどそんなのを気にしているのは恵美だけで他のみんなは平然と肌や服の汚れを沢に流していく。

 恵美はなんとなくぶつかったりぶつからなかったりする汚れの行き先を目で追ってみた。当然だけど水面に揺れて流される汚れは沢から出ていって川に侵入して下流へと去っていく。

「……これ、環境破壊にならない?」

「動物の水浴びと大差ないから平気じゃない。すぐに霧散するわよ」

 蜜緋芽はそんなこと気にしてたらなにも生きていけなくなるじゃない、と気の入ってない返事で恵美の杞憂を振り払う。

「あれ、ミツヒメは体綺麗にしないの?」

 恵美は半分くらい綺麗なお姉さんの裸みたいという欲望で思考を占めて暇そうに沢辺の岩に腰かける蜜緋芽に声をかける。

 その内心は完全に見透かされていて蜜緋芽からは切れ長で鋭く冷たい眼差しで反撃を受ける。

「こっちは厳密には生き物じゃないのよ。汚れとか一瞬消えてまた出てくれば落ちるから」

「え、ミツヒメ消えたりするの!?」

 大仰に驚いて声を荒げる恵美に蜜緋芽は鬱蒼と溜め息を吐く。

 そしてパッと一瞬、しっかりと恵美が勘違いしないくらいの間を作って姿を消してまた人間に似せた櫻媛の姿を出現させる。

「はい、消えてあげたわよ」

「すごっ!? でも目の前でされると怖い! お姉さんがいなくなるのやだ! 寂しい!」

「はいはい、身綺麗にするのはあんたが見てないとこでやるからちゃんと体洗え」

 すぐに騒いでやってたことをおざなりにする恵美にいつも通り呆れながら蜜緋芽はちゃんと水浴びを済ませるように促した。

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