1年目4月・報告会

 一仕事を終えた恵美が一度家に入って水を一口飲んでからまた外に出ると染井吉野そめいよしのと少女が向かい合わせで座っていた。

「あー」

「んぁー」

「そうそう。あー、あー」

 二人して大口を開けて咽喉の奥まで見せ合っている。少女の口からちょこんと飛び出した八重歯が可愛い、とか思って恵美はまじまじと見詰めてしまう。

「なにあれ。お医者さんごっこ?」

「言葉を教えてるんだって」

 意味がわからなくて三春瀧桜みはるのたきざくらに訊ねてみても返って来た答えがやっぱりよくわからなくて恵美はきょとんと目を丸くする。

「文字とかじゃないんだ?」

 恵美からすると学校で教わった言葉の始まりと言えば文字だった。それなのに実際はお医者さんごっこみたいなのが行われているのだから理解が及ばない。

「あなただって文字の前に発音を家庭で覚えたでしょう?」

 染井吉野は少女に向き合ったままなのに耳聡く恵美のぼやきを聞き付けてきた。

 やば、と恵美は顔を背ける。

 しかし染井吉野は気分を害した様子もなく口を開ける少女に今度は、いー、と噛み合わせた葉を見せた。

「いぃー」

「上手、上手。いー」

 染井吉野は少女を褒めながらひたすらに一つずつ発音を教えていく。

 恵美は自分の出る幕はないと正しく判断して二人の横に座りこんで染井吉野の授業を鑑賞する。

「いやー、ちっちゃい子のお口の中とかかわいい歯とか存分に見てられるなんて、役得ねいった!?」

「気持ち悪いこと言ってんじゃないわよ、このおばか」

 悦に入っている恵美の脳天にいつの間にか背後に立っていた蜜緋芽みつひめがげんこつを振り下ろした。

 容赦ない一撃を食らった恵美は強い痛みで頭を抱えてうずくまる。

「ミツヒメ……」

「なによ」

「……おかえりぃ」

「あんたってえらいわね。ただいま」

 殴られたことに対する文句を言うでもなく真っ先に、おかえり、と言ってくる恵美に蜜緋芽は素直に感動した。でもその前に怒られるような邪な思考を幼気な少女に向けないでほしい。

「それでなにか、ひっ!?」

 ヤマに入っていった成果を聞こうと振り返った恵美は蜜緋芽にまとわりつくように飛び交う黒い影の集団に短い悲鳴を上げる。

 恵美はその小さくても羽音をしっかりと響かせる生き物が利益だけではなく命の危険ももたらすのをきちんと知っているからだ。

「蜜蜂にそんなたかられてだいじょうぶなの!?」

「こっちは蜜が出る木だってわかってるからとっても友好的よ。蜜蜂がおとなしいのは知ってるでしょ」

「そうだけど、おとなしくたって二回も刺されたら危ないじゃない」

 そう、蜜緋芽が連れて来たのは野生の蜜蜂だった。無数の蜂が作る集団は雲のような影を作ってぶんぶんと羽音を立てている。

「分封群見つけたから持って帰ってきたわよ。蜂蜜好きでしょ」

「好きだけど……巣箱ないじゃん」

「そこはうまく巣を壊さないようにがんばりなさいよ」

 近代的な枠に造らせた巣房を引きだして蜂蜜を採りまた巣箱に戻すという非破壊的な養蜂しか知らない恵美はこの環境で蜜蜂を飼育するのは乗り気にはなれない。

 けれどその名前に蜜と入るくらいの蜜緋芽は蜜蜂にも親近感があるのかやけに推してくる。

「三つも群れ連れてきたのよ?」

「三つも!?」

「どうせ桜たくさん植えるんでしょ? 蜜源には困らないわよ」

 なんだったら自分一本でこれくらいの蜜蜂の群れは維持してみせるとの自負を持って蜜緋芽は恵美を頷かせようとする。

「受粉させたら桜の花も綺麗に咲くのよ?」

「そうだけど、知ってるけど! いきなり蜜蜂連れて帰ってきたら驚くでしょ、普通!」

 珍しく恵美が声を荒げて常識を訴えている。

「こっちの木の方に住まわせるからいいでしょ。全然来ないんだし」

 蜜緋芽はちくりと自分の依り代である桜の木の方に恵美が足を運ばないのを揶揄すると恵美も後ろめたさが立ったのか顔を背けた。

 蜜緋芽は勝ち誇った様子で鼻を鳴らしてこの話題を終わらせた。

「エミも新しい櫻媛を呼び出したのね。どっち?」

「うん。染井吉野ちゃんだよ。みんなに言葉とか教えてもらうといいってお瀧さんが言ってくれたから」

「ああ、そうね。知識のある人の手は役に立つものね」

 それはいい先見の明だと蜜緋芽も称賛してくれる。技術とは人の力を何倍にも増幅する。

「それであれってことね。きちんと最初からやってて丁寧だこと」

 恵美と違って蜜緋芽は染井吉野が少女に発音から教えているのだと一目で把握した。

 恵美は信じられないと蜜緋芽の顔をまじまじと見詰める。

「なによ、その顔」

「うう……蜜緋芽の方が美女と分かり合えるだなんて……」

「あんたはまずその邪悪な性根を叩き直しなさい」

「なによぉ、みんなと仲良くするののなにが悪いのよぉ」

「ナカヨクの意味がいかがわしいのよ」

 全く話しているだけで疲れる、と蜜緋芽は肩を落とす。

「こっちの報告もしていい?」

「どうぞ」

 恵美は手のひらを優雅に差し伸べて手番を譲る。

 蜜緋芽はちょっと眉を持ち上げるけど文句を言うのは控えてやった。

「三春瀧桜の木も確認したわ。さすがの大きさだったわよ、見事って言うのはああいうのを言うのね」

 ただ本人が言う通り放置されれば二週間足らずで枯れてしまうのは蜜緋芽の見立てでもその通りだと思われた。その代わり櫻媛としてヤマの気を清浄な霊力へ変換して空気が澄んでいた。

「もしかしたら次も他の櫻媛が根付くかもね」

「んー、それはいいこと? 悪いこと?」

「良いも悪いもないないわよ。事実ってやつ」

 それはそれとしてヤマの瘴気を差し引いても足場が険しいので行き来するのは困難だ。どちらにしても恵美はまだヤマに足を踏み込んだだけで熱を出して倒れるので問題外でもある。

「とにかく向こうのヤマはまだ昂ってないみたいだから放置して良さそう。さっきヤマノケが降りてきた南の方を優先して対処しましょう」

「向こうはやっぱりヤバいの?」

「サトまで襲撃してきてるのよ。さっさと払ってしまわないとこんな小さい集落すぐに滅びるわよ」

「む、それはだめだね」

 恵美だってこのサトの人達にはお世話になっているし、もうサトの一員であるつもりだ。

 このサトがヤマからの災害で滅ぼされるだなんて聞いて知らん顔はできない。

「ようし、みんなでがんばろー。えいえいおー!」

 恵美が元気よく声を出して腕を振り上げると、三春瀧桜と少女がノリノリで声を合わせて、染井吉野はちょっと恥ずかしそうに声細く、蜜緋芽は仕方なさそうにやる気なく手を上げるのだった。

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