1年目4月・ヤマノケ襲撃

「キィ! キィ!」

「え、なに、どしたの!?」

 恵美と蜜緋芽みつひめが桜の植樹に向けた算段を立てていたら放置する形になってしまっていた少女が突然甲高い声を上げた。

 恵美はびくりと肩を跳ね上げて、暇になっちゃったのかな、と少女に視線を向ける。

 少女は恵美に向けてではなく田んぼの向こうに対して、ウー、と歯を食い縛って唸り猫のようになにかを威嚇している。

「マズった。まさかこんなとこまで来るなんて」

 蜜緋芽は少女が警戒している相手に気付いて舌打ちしそうなくらいに顔を歪めた。

 恵美も蜜緋芽が急に不穏な空気を出したのに心を竦ませながらも顔を上げる。

 恵美も二人と同じ方向に視線を向けた時、そこに映ったナニカに心臓が冷えるような思いがした。

 それは真っ黒で、曖昧な靄のようで、ずんぐりとした獣だ。獣の形をしているけれど煤というか煙というか、アニメで見た瘴気というやつみたいな、輪郭が揺らいで掠れているよく分からないバケモノだ。

 その恐ろしさに恵美は少女をぎゅっと抱き締めて守ろうとする。

「エミ、その子と一緒に下がってなさい」

 恵美達がバケモノの視界に入るのを遮るようにして蜜緋芽は左腕を伸ばす。

 その細い腕を辿って恵美は蜜緋芽の顔へと視線を向ける。

「あれ、なんなの?」

 蜜緋芽は恵美の疑問にすぐには答えてくれなくて、鋭い視線をバケモノに向けて動きを警戒している。

 向こうもこちらを警戒しているのか襲ってくる気配がないのをじっと見極めてから蜜緋芽は薄く唇を開く。

「あれがヤマの災害が凝り固まって具現化したものよ。動物の形を取るようになったのは、最近らしいけど」

 蜜緋芽はバケモノに意識の大部分を向けているから細かい説明もできない。

 それでも恵美はあれこそが自分が櫻媛さくらひめとともに対処しなくてはならない脅威なのだと肌で実感する。

「なるほど、モノノケならぬヤマノケ」

「あんたのどんな時でも呑気なとこ、素直に尊敬するわ」

 声を震わせながら言うのがそんな緊張感のない内容なのかと蜜緋芽は毒気を抜かれてしまった。

 それが行けなかったのか、ヤマノケがこちらに向かって駆け出してきた。

 ぼてぼてと体を重たそうに上下させているくせに田んぼを突っ切って来る速度は速い。

「この!」

 走って来る勢いのまま体当たりしてくるヤマノケに向けて蜜緋芽が手をかざすと桜の花びらが散って盾となって防ぐ。

 四つ足で立つ相手は蜜緋芽の腰よりも大分低い位置にいるのでなんともやり辛そうだ。

 動きを止められたヤマノケは、ぽてん、とお尻を地面に付けた後に前足の長い爪で蜜緋芽の出した花びらの渦巻く盾を掘り始める。

「ちょ、うそでしょ!?」

 見る見るうちに防御に穴を空けられた蜜緋芽は慌てて飛び退いて、そのついでに恵美の首根っこを掴む。

 自分の体が後ろに引っ張られるのと同時に恵美は抱えた少女に回した腕をさらに力を込めて離さないようにする。

 二人まとめてヤマノケから退避させた蜜緋芽は一跳びで数メートル距離を取って恵美の首を手離した。

「ちょっと窒息しそうだったんですが……」

「非常事態よ、勘弁しなさい」

 不満を垂れる恵美をあしらうのも程々にして蜜緋芽はまた大地を蹴って足元の草を散らしヤマノケへと肉迫する。

 蜜緋芽がヤマノケへとかざした手のひらから、今度は砲弾のように花びらの塊が放たれた。

 その攻撃をヤマノケは横っ飛びで避ける。

 蜜緋芽はヤマノケの動きを目で追って追撃しようとするが、ヤマノケが蜜緋芽を避けて恵美達の方へと駆け出そうとしているのを察知して攻撃の手を緩める。足を踏み出してヤマノケの目の前へと飛び出し、行く手を遮った。

 ヤマノケは道をふさいできた蜜緋芽に驚くこともなくそのまま突進してきた。

 蜜緋芽は攻撃のために練っていた霊力を防御の盾に回してヤマノケの体当たりを弾き返す。

 けれどまたその盾はヤマノケの爪で穴を穿たれてしまう。

 ヤマノケが繰り出した爪が肌に迫るが蜜緋芽は大袈裟に飛び退いて空振りさせる。

「ミツヒメ!」

「黙ってて! こっちは戦闘向きじゃないんだから、気が散る!」

 少女が飛び出したりしないように強く抱き締め続ける恵美が悲鳴のような声で蜜緋芽を心配するけれど蜜緋芽はそれすら煩わしくて叫び返す。

 その隙を突いてヤマノケが振り上げた爪を、蜜緋芽は咄嗟に腕を伸ばして手首を掴んで押し留める。

 蜜緋芽の腕力は恵美と少女をまとめて持ち上げるほどのものなのに、ヤマノケはそれをじわじわと押し返している。

 蜜緋芽の白い肌があの太い爪に裂かれてぱっくりと開くのを想像して、ひっ、と短い悲鳴を上げる。

 ヤマノケの前足を抑える蜜緋芽の顔がだんだんと赤くなっていくのが、限界を報せているように見えてはらはらする。

 でも恵美は抱えた少女を手放すわけにはいかないし、たとえ少女がいなくても恵美にはヤマノケに対して抵抗する手段はなにもない。

 どうしよう、どうしようもない、と気を揉んでいる恵美の横に草を踏む足が表れた。

「あらあら、大変なところに来てしまったみたい。でもタイミングが良かったのかも?」

「え?」

 おっとりと眠気を誘うような声が降ってきたのにほとんど反射で恵美は顔を上げる。

 まず目に入ったのは鮮やかに濃い桜色が散りばめられた晴れ着で、それが桜の瀧のように思えた。さらに黒髪もまた艶やかに瀧のように流れていて顔立ちは丸っこくでどこかで見たような親しみがある柔らかさだった。

 恵美の視線に気付くと彼女はふんわりと微笑んでくれる。その微笑がまるで聖母のようで恵美はつい見惚れてしまった。

「危急なので自己紹介はまた後でということで。ごめんなさい」

 急がないといけないと言いながら穏やかで緩慢な口調で話してくるから恵美は脳が混乱する。

 それでいて目でちゃんと追っていたはずなのにもう彼女はすっと蜜緋芽とヤマノケの方へ向かって進んでいた。

「はい、そこまで」

 それは物腰柔らかいお母さんが子供の悪戯を止めるようなやんわりとした制止だった。

 けれど柔和なのは口調だけだった。

 誰もがぽかんとしている中、彼女の前で桜の花びらが正しく瀧となって落ちてヤマノケを呆気なく押し潰したのだ。

「え、あれ、消えた?」

「はい、ちょっとお邪魔だったのでヤマガミさんの眷属には消えてもらいました」

 呆然とするしかない恵美に突如やってきてヤマノケを消し去った彼女はにこやかにその認識が間違っていないと肯定してくれる。

「どうも、私は三春瀧桜みはるのたきざくらと申します。気軽に、お瀧さんとでも呼んでね」

 三春瀧桜。日本三大巨桜の一本と名高い櫻媛なのだと、確かにその実力を見せ付けた彼女はゆったりと名乗りを上げた。

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