1年目4月・快復
熱を出した翌日、竪穴住居の入り口から入って来る朝日がキラキラと綺麗だなと思って恵美が体を起こすと、驚くほど軽く、ひょいと起き上がれた。
「こ、これは……」
恵美は意味もなく自分の手のひらを見詰める。別に何か力がふつふつと湧いてくるのが分かるわけでも神秘の力が輝いて見えるわけでもない。ただ何となく気分的に見ているだけだ。
手のひらは全く関係ないけど、怠さもなくなって体も熱くも寒くもなく、あれだけ滝のように流れていた脂汗も嘘のように引いている。
恵美は一日寝込んで風邪が過ぎ去ったのを実感して、狭い茅葺屋根の下で勢いよく立ち上がって両腕を掲げる。
「恵美ちゃん、ふっかーつ!」
茅葺屋根と土の床に大声を反響させた恵美に、いつもの面々から冷たい視線が投げかけられる。ちなみに、この住居には女性と子供だけが住んでいて、赤ちゃんを抱いた年若いお母さん、妊婦のお姉ちゃん、妹ちゃん、弟くん、赤ちゃん以外の皆さんは朝早く起き出してもう外に出ている。
「エミ、うるさい。おばか」
そして恵美の雄叫びを喰らったみんなを代表して、まだ幼さに丸い顔立ちをしているのにお腹に胎児を宿しているお姉ちゃんが文句を述べた。
その厳しくて口汚い言葉に、恵美は愕然とする。
「ちょっと、ミツヒメ! あなたでしょ、こんな言葉覚えさせたの! なんてことしてくれるの!」
「うるさいわよ、おばか。別に教えてないわよ、その子が勝手に覚えるくらいにあんたに言わされるだけじゃない」
「言わせてないもん!」
「あんたのおばかっぷりと声の大きさのせいでつい口をついて出るのよ」
ずっと恵美の横にいて今も急に立ち上がった足元に横座りしている
蜜緋芽の口癖なのもそうだけど、サトで唯一言葉を扱えるだけあってお姉ちゃんの学習能力が高さがよく分かる。
「エミ、うるさい、おばか、しずかになさい」
「トリプルコンボ!?」
冷たいジト目で追撃をされて、恵美は膝を追って冷たい床に撃沈した。
恵美を倒したのに、お姉ちゃんは今日も腰にくっ付いている小さな弟くんの耳をさり気なく手で庇って、不満そうに蜜緋芽に視線を寄越して来る。
「……ああ、別にエミを罵倒したいんじゃなくて静かにしてほしいのね? 言葉だけで静かになるんだったら、この子はおばかじゃないのよ」
「ぎゃっ!」
やっと飲み込めたお姉ちゃんの意図を汲んで、蜜緋芽はタブレットを使って恵美の無防備な後頭部を引っ叩いておいた。
その痛みで涙目になった恵美はうめいているけれど、叫ばれるよりは静かだ。
やっと自然の音くらいには静かになったのに安堵したようで、赤ちゃんを抱いたお母さんは指を巧みに使って我が子をくすぐりつつじっとその顔を幸福そうに見詰め出す。
「見なさい、エミ。あんたっていう騒音を黙らせて得られた平穏があれよ」
「なんて目の保養になる光景……殴られた甲斐もあった……」
恵美もその暖かな光景には心が洗われたようで、親子の触れ合いに眩しそうに目を細める。
「人妻もいいなぁ……わたしもあやされたい……」
前言撤回。この女の邪心は母性溢れる親子愛の前にも、余計に燻るのだった。
蜜緋芽は堪忍袋の緒が限界に来たので、恵美の背中を蹴飛ばして転がし、曝け出したお腹に体重をしっかり乗せた足で踏ん付ける。
「ぐぎゃっ。ちょ、なかみ……中身出る……」
「昨日は液体しか口にしてないでしょ。出ても胃液よ」
「胃液出るのが既にやばいって……ちょっと子供達も見てるからこんなハードなプレイはだめだよ……」
「あんたって本当に懲りないし理解しないおばかね」
ここまでされてまだそっちに思考が及ぶ恵美のどうしようもなさに、蜜緋芽の方が呆れて折れて足をどかした。
「だいたい子供に見せられないのはあんたの存在そのものでしょうか。体調戻ったならいつまでも転がってないで仕事なさい」
「しごと?」
「あんた、この世界に呼ばれた理由覚えてる?」
「ああ!」
そうだった、桜のお世話してお姉さんをたくさん増やすのがわたしの使命だった、と恵美は思い出してすっくと立ち上がる。
蜜緋芽はまた恵美がしょうもない形も事実をねじ曲げているのを見抜いて顔をしかめる。
「こっちの顔に皺が増えたらあんたのせいだからね」
「え? お婆ちゃんになるまで添い遂げようっていう告白?」
「んなわけあるか」
相手をすればするほどに気苦労が積み重ねられるだけなので、蜜緋芽は恵美にタブレットを手渡す。
恵美は祖母の形見をしっかりと腕に抱いて、しゅばっと家の中にいるみんなに手を上げてお出かけの挨拶をする。
「じゃ、いってきます!」
恵美が意気揚々と光の差し込む入り口から外へと這い出る後に、蜜緋芽も当然続く。
恵美は清々しい朝の日射しと空気の中で思いっきり背伸びして深呼吸をする。
「んー! 一日で治ってよかった!」
昨日の苦しみをすっかり忘れたような恵美の元気の良さだ。
恵美は背伸びで腕を空に向けて伸ばしたのをきっかけに、自分の匂いを気にしてすんすんと鼻を鳴らす。
「うー……いい加減お風呂入りたい」
二日もお風呂に入ってないのを思い出して、恵美は辟易とする。こっちに来てからずっと涼しくて朝晩は寒いくらいだけど、昨日は熱を出して思いっ切り汗まみれになった。まだ匂いは堪えられないものではないけど、気にはなる。
「そんなものありそうにないけど」
「それー。お風呂って作れるかな。温泉とかどっかで湧いてたりとか」
「作るのはともかく、温泉は山の中でしょ、開拓しないと無理よ」
この世界、ヤマの中は人への脅威に溢れていると聞かされているので、恵美は、うへぇ、濁った声を漏らした。
それにお風呂を作ると言っても恵美の知識ではドラム缶風呂が発想の限界だ。ドラム缶なんて勿論この文明未開化な世界には存在していない。
外に出たのにそんなふうにぐだぐだしていたら、ひょっこりと妹ちゃんの方の少女が家の中から出てきた。
「およ。どしたの?」
恵美が訊ねると、少女はとててと恵美の足元までやって来た。そしてじっと顔を見上げてくる。
「ついてくるの?」
訊いてもこの少女は言葉をまだ覚えていない。でも恵美が歩き出すと歩調を合わせてくっついてきた。
「ま、いっか」
この世界に対して素人な恵美だけど一応は向こうの世界で成人している大人だ。責任能力くらいはあるつもりなので一緒に暮らす少女を連れて歩いても問題はないだろう。
「取りあえず、女神様とお婆ちゃんのとこ行こっか」
「そうね。まだ説明全部聞いてないのだから、続きを聞きに行きましょ」
取りあえずの行き先を決めて恵美は蜜緋芽と少女を連れ立って、幼稚園児のように大きく腕を振りながら楽しそうに歩き出した。
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