1年目4月・基本目的

 異世界へと連れてこられた恵美は、この世界は自然の力が強過ぎて人類の文明が発展しないというところまでは、まぁ、なんとか理解出来た。

 異世界転生でメジャーな魔王とか世界滅亡の危機とかはないらしい。むしろ人類史という観点で言えば、人類の世界はまだ始まってもいないと言えるかもしれない。

 そもそも異世界転生じゃなくて異世界転移だしな、元の世界で死んでないし、なんて意味のないことまで考える余裕が恵美にはあった。単に長い話に飽きてきただけとも言う。

 どうせなら綺麗なお姉さんといちゃいちゃして楽しみたいな、なんて隣の三つ編みシニヨンになってぽふんと柔らかそうなハニーブラウンの髪を見詰めていたら、当の本人に睨まれた。

「集中」

「はーい」

 学校の先生みたいに手厳しい。これは攻略のし甲斐があると恵美は静かに胸の内にやる気を燃やす。

「人類を繁栄させるために、ヤマの気を弱らせて人の力を増していかねばなりませんが、この世界にその方法はありませんでした。わたくし達は困っていましたが、そんな時に貴女達の世界に、山の神が春になるととある木にやって来て人里に恵みを齎す、という話を聞いたのです。そう、桜の木の伝承です」

「あー、そんな話もあったね」

 『さくら』という名前も『神の座る鞍』というのが語源だという説もある。春を告げるように咲き、稲の種付けの時期を報せる、田植えの時期を報せる、などと桜の開花を稲作の目印にしてきたのが日本人だ。お米が好きな日本人が桜の花が好きなのはそういうところから来ているのかもしれない。

「そこでわたくし達は桜の魂をこちらの世界に招き、精霊として具現化して、ヤマの荒ぶる気を鎮め、また吸収し、人のサトへと恵み齎して活性化させることに決めました。その桜の魂から生まれた精霊を、櫻媛さくらひめと呼んでおります」

「そんんでもってこっちはその一体ね」

 コノハナサクヤの言葉を引き継いで、蜂蜜みたいないい匂いのするお姉さんが自分の鼻先を指差して自己紹介してきた。

 恵美の視線も自然とお姉さんの指を辿ってそのシャープな顔立ちに惹き付けられる。

「今更だけど、蜜緋芽桜ミツヒメサクラの櫻媛よ。まぁ、よろしくね」

「ミツヒメさん……? 江戸時代のお姫様みたいなお名前だね」

 どうでもいいところに妙に感心している恵美に蜜緋芽は閉じた口の中で溜め息を籠らせる。

「桜の精である櫻媛をこの世界に具現化するには、桜の木を依り代にする必要がありました。神秘の存在とは言っても世界に実績を残すためには、現象にしろ物体にしろ、実在してなくてはなりませんからね。わたくし達もこの大岩と大樹が神体でありますし」

「なるほど、御神体」

 恵美は納得顔でコノハナサクヤとイワナガが立っている後ろに聳え立っている巨大な岩とその岩に根を張り巡らせて伸びる大木を見上げる。神様そのものであると言われてもすぐに理解が及ぶ立派な姿だ。

「桜の木をこちらの世界に再現するのは、どうにかなりました」

 コノハナサクヤが自分自身である大木に手杯てつきを掲げると、枝に付いていた蕾が一つ、独りでに外れてゆっくりと落下してきて納まった。その蕾は今にも綻びそうに膨らんでいて、桜の蕾の多くがそうであるように咲いた時の花弁よりも鮮やかに濃くピンクに色付いている。

「咲く直前の、花の色が既にくっきりと備わっているこのような蕾を、花珠はなたまと言います。花開き、華やかな栄光を齎す女神であるわたくしにとっては、これはわたくしの神秘が最も満ちる瞬間であり、かつ、その神秘が少しも発揮されておらず消費されていない状態です。つまりはわたくしの力が最大限に凝縮されているのです。この花珠を五つ集めて一つの桜の苗木を生み出せます。そうは言っても、生まれる桜があちらの世界のどの桜の魂を宿しているのかはわたくしにも決められないのですけれど」

「それってつまり桜ガチャってこと?」

「あんたね、もうちょっと言葉選びなさいよ」

 明らかにソーシャルゲームの課金システムを思い浮かべている恵美の余りの不敬さに、蜜緋芽の方が肝を冷やしていた。

 しかしコノハナサクヤは恵美の雑な喩えに気を悪くした様子もなく変わらずに微笑んだままだ。

「しかし世界が異なるというのは生物にとって大きな差だったのでしょう。桜の苗木は植えてもすぐに枯れてしまい、木が枯れれば櫻媛も消失してしまうのです」

「櫻媛そのものは見込んだ通りにヤマの力に対抗出来たのじゃがな」

 コノハナサクヤとイワナガは揃って半端になってしまった結果への悔しさを口にする。

「なるほどね、桜守みたいな人がいればまた違うのかなー?」

 話を聞いてぽつりと思い付いたことをそのまま口に出した恵美にその場にいた三人が一斉に注目を突き刺した。

「え、なに?」

 それぞれ好みの女性に見詰められて恵美は赤らむ頬をタブレットを持ち上げて隠す。

「あんたって、ずるいくらいに的を射たこと言う時あるよね」

「こやつ分かっていて言っているのではあるまいな?」

 蜜緋芽とイワナガが胡乱な目になるから、恵美は何かやってしまったのかと二人の顔を交互に見比べてしまう。

 そんなさっきの発言は偶々だったと雄弁に語る態度に二人は揃って重たそうに溜め息を吐く。

「恵美さん、大正解です」

 コノハナサクヤだけが景品でもくれそうなにこやかな笑みと明るい声で恵美を称賛してくれた。

「正解ってなにがです?」

「はい。恵美さんがその櫻守に選ばれまてしたので、こちらの世界にお越しいただきました」

 コノハナサクヤが軽快に拍手してくるのは、正解を言い当てたことに対してなのか、それとも歓迎の意味があるのか。

「みぃ?」

 恵美は舌足らず過ぎて猫の鳴き声のような発音で自分の鼻の頭に人差し指を当てた。

 コノハナサクヤはしっかりと鷹揚に、イワナガは残念そうにだけど厳格に、蜜緋芽は疲れ切って頭を支えきれなくなったかのようにぐったりと、それぞれに頷いてみせた。

「ま、まぁ、確かにお祖母ちゃんの記録があるこのタブレット見ながらなら桜のお世話も出来るけど……って、あああああ! え、この世界って電気とか通ってないよね!? 電源切れたらタブレット起動しなくなるよ!? 電池切れる前に全部紙に書き写すべき!? 縄文時代に紙ってあるんだっけ!?」

 どうにかなるかもと思ったのと同時にその頼みの綱が万全に使えない環境であるのに気付いて、恵美は見ていて滑稽なくらいに慌てふためく。

 蜂蜜の収量が多くなるようにと桜の花付きがよくなるように試行錯誤したことはあるが、それも十分に育った木を相手にしたもので、苗木から育てる手順までは押さえていない。

「それについてなのですが、ちょうどよかったのでそちらはわたくしの方で神具に致しました。電力でなくわたくしの霊力で動くようにしてあります。それと櫻媛やこのサトの状況が分かるように少し手を加えさせていただいております」

「ほわっ?」

 なんかコノハナサクヤからにこやかによく分からないことを言われて、恵美は動きを止める。そんな彼女の手から蜜緋芽がタブレットを攫って電源ボタンを押す。

 立ち上がったタブレットには確かに、見慣れないアイコンが鎮座していた。

「櫻媛PROJECT?」

 恵美の言葉に従った訳ではないけれど、蜜緋芽はその名称が下に付いているアイコンをタップする。すると『櫻媛一覧』とか『櫻媛名鑑』とか『サトマップ』とか『ヤママップ』とかいう項目がずらりと画面に並ぶ。

「どうかお役立てくださいな」

 コノハナサクヤは女神だと言うだけあってなかなかに手厚い援助をしてくれていた。

「とりあえず、余りに多くを語っても恵美さんも大変でしょうから、まずは桜を育てて櫻媛をこの世界に維持してもらいたいというのだけ理解してもらえれば結構ですよ」

「櫻媛……蜜緋芽お姉さんみたいな存在をたくさん……はっ! つまり美女お姉さんハーレムを作れってことなのですね!!」

 ぴきーん、となんかいらない音がなるような閃きを得た恵美が俄然やる気になって手を握り締める。

「飲み込みが早くて本当に助かります」

 そしてコノハナサクヤときたらそんな恵美の暴走をにこやかに肯定してしまうので、蜜緋芽は今日一番の頭痛に頭を抱え込んだ。

「そんなけったいな飲み込み方しないでほしかった……」

「無理じゃろ。どっちにしろ同じことをほざくわ、この娘は」

 常識的な二人が気を重たくしているのにも気付かず、恵美は、えいえいおー!、と元気に拳を何度も振り上げて異世界生活にとても前向きになっていた。

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