不協和音


◆◆◆



3日目 XX:XX



 巌内いわないが目を覚まし横を向くと、部屋に暮田くれたの姿はなかった。肩まで露出した自分の腕を見た巌内いわないは、散らかった下着を慌てて掻き集めて布団にくるまる。ふと見ると暮田くれた寝間着ねまきはきっちりとたたまれた状態で枕元に置かれ、サイドテーブルには軽食と飲み物が置かれている。巌内いわないは時計を見ようと部屋中を見渡したが、普段使用していないこの鍵付きの部屋に時を刻む道具は無いようだった。エントランスから響いてくる落ち着いた静かな音色。巌内いわないは立ち上がると、暮田くれた寝間着ねまきの上に勢いよく座り、その上で下着を履くと、黒のメイド服を身に着ける。しわになった暮田くれたの服はそのままに、巌内いわないはベッドメイクだけをほどこし、平静をよそおって部屋を出る。


巌内いわない「旦那様、おはようございます。」

暮田くれた「おはよう、サティ。」

巌内いわない「トロイメライ…ですか。……旦那様は、どんな時でも冷静でいらっしゃるのですね。」

 淡々たんたんと喋る抑揚よくようのない巌内いわないの声。暮田くれた巌内いわないの方を見向きもせずに声だけで返事をする。

暮田くれた「上には宇曽うそ君がいるだろう。こんな時だからこそ、気持ちを静めないといけないと思ってね。」

巌内いわない「旦那様。」

 暮田くれたかなでる旋律せんりつ突如とつじょ、聞きなれない音に変わる。

巌内いわない「……どうなさいました。」

暮田くれた「何もないよ。」

 ゆったりとした美しい音が1音づつ乱され、徐々に間の開いた3つの全音が不気味な音色をかなで始める。繊細せんさいけんに触れていた指先が、次第に乱雑な動きに変化していく。

巌内いわない「旦那様、落ち着いてください…。」

 巌内いわないは不協和音に耐え切れず、耳を塞いで1歩下がった。そばから気配がなくなったのを感じた暮田くれたは、演奏をやめそっと立ち上がると巌内いわないを後ろから抱き寄せた。

暮田くれた「怖がらせてすまない。指が言う事を聞いてくれなくてね。僕だって、こんな状況で冷静でいられるほど、完璧な人間じゃないんだ。」

 巌内いわない至極しごく不快な顔をしたまま、暮田くれたの腕の中に納まっている。暮田くれた巌内いわないの首から下へ、そっと手を下ろしていく。

巌内いわない「旦那様。こんな所でいけません。宇曽うそが降りてきては困ります。」

暮田くれた「まだ朝も早い。宇曽うそ君はまだ起きていないようだったよ。朝食は僕が準備したんだ。あぁ、君の分も準備して部屋に置いておいたんだけど、気づいてくれたかい?」

巌内いわない「あっ…申し訳ございません。せっかくのお気遣いを…」

 先程までの不機嫌な様子からうってかわって、慌てて申し訳なさそうに謝る巌内いわないの髪を暮田くれたはそっと優しく撫でる。巌内いわないは耳に手を当てながら、気持ちよさそうに斜め後ろの暮田くれたを振り返った。

暮田くれた「いいのだよ、サティ。朝食よりも先に僕の顔を見たくなったのだろう?…そうだと嬉しいのだけれど。」

巌内いわない「えぇ…。でも私はてっきり、旦那様が横にいらっしゃるものとばかり思っていたのですけれど…。」

 寂しそうに目を逸らす巌内いわない暮田くれたはその首筋をそっと唇でなぞる。

暮田くれた「サティ。僕は君を手に入れたい。」

巌内いわない「だ…旦那様…」

暮田くれた「そのためなら、どうなったって構わないし、命だって惜しくはない。サティ、これから僕がしようとすることを、君は全て許してくれるかい。君は、どんな僕でも、受け入れて、愛してくれるかい。」

巌内いわない「……旦那様。いけません…。私、宇曽うその様子を見てきます。」

暮田くれた「どうしてだ。君一人では危ない。僕が行く。」

巌内いわない「大丈夫です。旦那様の手をわずらわせるまでもございません。宇曽うそには、人を殺す度胸などございません。それに、宇曽うそは怖がりです。さっきの音色を聞いて、きっと部屋の中で震えあがっていることでしょう。」


 黙って巌内いわないを見つめる暮田くれたを置いて、巌内いわないは2階へと上がっていく。暮田くれたは、再びピアノに向かうと、ゆっくりと深く、ねっとりと鍵盤けんばんを舐めるように、ゆがんだ音色を静かに奏で始めた。



◆◆◆



3日目 11:00


 楽譜を片付け、暮田くれたは自室へ戻る。一通り屋敷の家事を済ませた巌内いわないが部屋に戻りしばらくしてから、暮田くれた巌内いわないの部屋をコンコンと小さくノックした。 

暮田くれた「サティ。どうやら寝間着ねまきを忘れてしまったようだ。取ってくれるかい?」

 優し気に微笑む暮田くれたはドアの外から手だけを伸ばす。巌内いわないはその細く長い腕を引っ張ると、部屋のドアを閉めた。

巌内いわない「旦那様。わざとお忘れになったのでしょう?」

暮田くれた「いいや、まさか。うっかりと。」

巌内いわない「あんなに綺麗にたたんでおいて。」

 とげのある言い方を続ける巌内いわないの後ろのベッドには、張りのあるカバーとは対照的に、踏みつぶされたような衣類が置かれていた。椅子をけて通り過ぎ、まっすぐベッドの上に腰かける巌内いわないを横目に、暮田くれたは肩で口元を押さえながら、遠い方の椅子へ腰かける。

暮田くれた宇曽うそ君はどうだったね?」

巌内いわない「はい?」

 遠くに座る暮田くれた巌内いわないは思わずきつい口調で返した。暮田くれたはその様子を見るも尚、調子を変えない。

暮田くれた「僕が止めるのも聞かずに、宇曽うそ君の部屋を見に行っただろう。なにかどうしても気になることでもあったのかい?」

巌内いわない「別になんともありません。ビクビクして布団にもぐっておりましたけど。」

暮田くれた宇曽うそ君は一体何におびえているのだろうね。誰かと誰かの間にトラブルがあったとか、誰かが不審な動きをしていたとか。キミも内縁の妻なんだから、当然宇曽うそ君から何か聞いたりしているんだろう?彼は恨みを買いやすいだろうし、比嘉井ひがい先生や仏郷ふつごう君ともトラブルになったことはあったと思うのだけれど。」

巌内いわない宇曽うそは常々誰かしらの文句を言っておりましたもので…」

暮田くれた「キミの横で、宇曽うそ君は僕の事も悪いように言っていたんだろうね。」

巌内いわない「………」

暮田くれた「ふふっ。冗談だよ。そんな嫌な顔をしないでおくれ。ところで、サティは今回の件についてどう思うんだい?」

巌内いわない「どう…って、ま…まさか、私の事を疑っておいでですか!?」

暮田くれた「キミの意見を聞きたいだけだ。」

巌内いわない比嘉井ひがい先生の件は、宇曽うそが怪しいとにらんでおります。2人は同時に出て行きましたから…。」

暮田くれた宇曽うそ君は突然何をしだすかわからないところがあるからね。まぁ、キミはどういうわけか、宇曽うそ君に対して随分と自信過剰な態度だけれど。それだけ、宇曽うそ君が、じ曲がった愛情でキミの事を愛していると…そう感じているのかい?」

巌内いわない「……」

暮田くれた「いずれにせよ、あまりたかをくくっていると危険だ。次からはしっかりと…」

暮田くれたは鏡台の引き出しを開けると、瞬きもせずにじっと巌内いわないの瞳を凝視ぎょうしした。

 

暮田くれた「…サティ、ここに入れてあったナイフはどこへいったんだい?」








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る