愛の悲しみ

◆18:00


 夕食の定刻である18時になっても比嘉井ひがいは姿を現さなかった。巌内いわないはテーブルに並べられた色鮮やかな食事にラップをかけた。濃紺のうこんのコートを羽織はおり身支度をする暮田くれた執事しつじ仏郷ふつごうがマフラーと帽子、耳当みみあてと手袋を手渡す。宇曽うそもため息をつきながら重い腰を上げ、ダウンジャケットを着こんだ。

暮田くれた「行きましょうか。」

 風の勢いで重くなった玄関の大きな扉を開けると、外の暴風とともに大量の雪が屋敷に入り込み、赤紫のカーペットの上に降り積もった。

宇曽うそ「うおっ!!」

暮田くれたすさまじい風ですね…。」

 暮田くれたは帽子を深く被り、マフラーに口元を隠して目の部分だけをのぞかせた。1m先すら見えないような吹き荒れる白い粒と風だけの視界。4人は寒さにかじかみ震える体を、自身の両手で抱えながら比嘉井ひがいの名を呼び、雪をかき分けて屋敷の周囲をゆっくりと1周したが、そこに彼の姿はなかった。仏郷ふつごうくもった眼鏡めがねを外し、革手袋の右手で拭きながら、あまりの雪の冷たさに閉じていた片目を少しばかり開けて暮田くれたに告げた。

仏郷ふつごう「…旦那様、比嘉井ひがい先生には大変申し訳ないですが、この天気では捜索そうさくは困難です。このままでは私たちまで遭難そうなんしかねません。捜索そうさくはまた明日の朝、天気が回復してからに致しましょう。」

暮田くれた「そうですね。そうしましょうか。」



◆18:45


 暖炉だんろの前の丸テーブルで沈黙したまま対峙たいじする4人。猛吹雪によって生じる窓ガラスのきしみ音と古い柱時計の振り子の音が鳴り響く。重苦しい空気が流れる中、最初に口を開いたのは宇曽うそだった。

宇曽うそ「な…なぁ、俺は何もしてないからな…。」

暮田くれた「…誰が宇曽うそくんが怪しいなどと言いましたか?率先そっせんして言い訳を始めるなんて、余計に怪しく見えますよ。」

仏郷ふつごうわたくし比嘉井ひがい先生を最後に見たときは、宇曽うそくんと一緒にこの部屋を出て行かれたようでしたね。」

宇曽うそ「そ…そんなのたまたまだろ!!だいたい俺が先生を追っかけたわけじゃねぇ、先生のほうが後だったじゃねぇか。」

仏郷ふつごう「おや、あんなに激しくお怒りになっていた割には、細かいことを覚えていらっしゃるのですね。」

宇曽うそ「だ…だから違うって!!知らねぇから!!」

巌内いわない「私も最後に先生を見たのはその時でした。」

暮田くれた「僕もだね。宇曽うそくん、別に疑っているわけではないのだが、あのあと比嘉井ひがい先生はどこへ行かれたのか知らないかい?」

宇曽うそ「俺の方が先に出たんだから知るわけないだろ!!俺だって先生を最後に見たのはその時だよ!!」

暮田くれた「不快にさせてすまないね、ただ先生の足取りをつかみたくて。」

宇曽うそ「むしろ俺よりお前らのほうが怪しいんじゃねぇか?俺が拘束こうそくされている間、お前らは自由だったじゃねぇか。」

暮田くれた比嘉井ひがい先生は僕の主治医しゅじいです。持病じびょうを抱えた僕が、先生を殺すメリットなどありますかね?」

仏郷ふつごうわたくしもこの老体でございます。先生のお薬がないことには…。」

宇曽うそ「…くそっ。病気がなんだってんだ。俺だって別に先生を殺す理由なんてねぇよ!!」

巌内いわない「みなさん、落ち着いてください…。まだ事件と決まったわけでは…。」

暮田くれた「すまない。うっかり宇曽うそくんの挑発ちょうはつに乗せられてしまった。いずれにせよ、今日はもう休んで、明日の朝食でまたここに集まろう。」



◆20:30


 貯蔵庫ちょぞうこから持ってきたヴィンテージワインは、比嘉井ひがい捜索そうさくに出たため、結局開けずじまいだった。仏郷ふつごうがワインを貯蔵庫ちょぞうこに戻そうと片付けていると暮田くれたがやってきた。暮田くれたは残っているボトルを手に取ると、裏のラベルを眺めながら1本1本を吟味ぎんみしていく。

仏郷ふつごう「旦那様、お飲みになられますか。」

 仏郷ふつごうが食器棚からワイングラスを取り出し、暮田くれたに渡した。

暮田くれた「ありがとう。あとで部屋でゆっくり飲もうかと思ってね。仏郷ふつごうくんも今日は疲れただろう。ゆっくり休むといい。」

 そう言いながら暮田くれたはワイングラスをもう1つ取り出してトレイに乗せた。

仏郷ふつごう「ありがとうございます。それでは、旦那様、おやすみなさいませ。」

 仏郷ふつごうがリビングから出ていくと、暮田くれたは選んだ1954年産の赤ワインとグラスを乗せたトレイをもって廊下へ出た。1階の一番奥にある鍵付きの部屋を軽く2回ノックする。

暮田くれた「僕だよ。開けてくれるかい?」

 内側からカチャリと鍵を回す音がした。巌内いわないは驚いた顔をしつつも、廊下に誰もいないことを確認してから暮田くれたを招き入れ、再び鍵を掛けた。

巌内いわない「旦那様、このようなお時間にどうなさいました?」

暮田くれた「ふふっ…相変わらずつれないねぇ。君と一緒に飲もうと思って持ってきたんだよ。鍵なんか閉めておいて、わかっているくせに。お邪魔だったかい?」

巌内いわない「い…いいえ!邪魔だなんて…滅相めっそうもございません。」

暮田くれた「ありがとう。さっきはとても飲める雰囲気ではなかったからね。比嘉井ひがい先生には申し訳ないけれど、僕ももう長くはもたないだろう。それならば、残り少ないわずかな時間、幸せを堪能たんのうさせてもらってもよいとは思わないかい?あぁ、もちろん僕の都合だけというわけにはいかないけれども。」

巌内いわない「……すみません、何とお答えすればよいのか、良い言葉が見つからず…。ですが、私などでよろしければ、いくらでもお話しを…」

 巌内いわないはそう言いながら小さなベットサイドのテーブルをエプロンのポケットから取り出したハンカチで綺麗に拭き、暮田くれたからトレイを受け取るとそこにワイングラスを2つ並べた。暮田くれたは置かれたグラスにトポトポとワインを注ぐ。そしてその片方を手に取り、くるくると軽く振るとその香りをじっくりとたのしんだ。

暮田くれた「あぁ…良い香りだ。サティ、隣に座ってもいいかい?」

巌内いわない「え…えぇ。」

 暮田くれたはワインを片手に、ベットに座っている巌内いわないの横に腰かけると、ニコニコしながらグラスに口をつけた。

暮田くれた「あぁ、なんて美味おいしいんだ。甘く、そしてほんのりと苦い。まるで初恋の味みたいだ。サティ、僕はこのまま君に酔ってしまいたいのだよ。許してくれるかい。」

巌内いわない「だ…旦那様…何をおっしゃって…」

 顔を真っ赤にする巌内いわないを見て、暮田くれたはうっとりして目尻を下げ、目を細めた。そうして何かを確信したかのようにニヤリと嬉しそうに笑った。

暮田くれた「あぁ、そんなに赤くなって。可愛いね、サティ。気づいているんだろう?僕の気持ちに。ほら、一口飲んでごらんよ。僕も君を酔わせてあげるから。」

 暮田くれたはワインを軽く口に含むと、巌内いわないほおを優しく両手で持ち上げ、上からそっとくちびるを重ねた。ずれていくその隙間から、赤く美しい、まるで血のような色の細いすじが、巌内いわないの口から首へ、首から胸元へ、何本もこぼれ落ちた。





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