魔王

◆16:30


黒いエプロンを身にまとい、キッチンでトントンと小気味こきみよい音を立ててトマトを切る暮田くれたを、宇曽うそうらめしそうにながめる。


宇曽うそ「なぁ、暮田くれたさん。そこは俺のテリトリーだ。さっきは取り乱して本当に悪かった。頭を冷やすから…だから、頼むから俺に料理をさせてくれ。みんなが食べたいものなんでも作るからさ…」

暮田くれた「……」

暮田くれた哀願あいがんする宇曽うその声など耳にも入っていないような様子でサラダを盛り始める。もう何度目かの頼みを暮田くれたに無視され続けた宇曽うそはがっくりと肩を落とし項垂うなだれた。執事しつじ仏郷ふつごうによってナイフを奪われた宇曽うそは、手足をぐるぐる巻きにされ、えてキッチンの見える場所に鎮座ちんざしている大きな椅子に拘束こうそくされていた。自分の戦場であるキッチンを暮田くれたうばわれてしまった宇曽うそは、先ほどまでの怒り狂った様子はかけらもなく、ただただ自分の短絡的たんらくな行動を後悔している様子だった。宇曽うそうつむいたまま言葉を続ける。

宇曽うそ「俺には料理しかないんだ…頼むよ…」

暮田くれた「……」

暮田くれたは無表情をよそおってはいたが内心はまだ宇曽うそに対し激しい怒りを覚えていた。そしてその怒りを静かにまな板に向けてぶつける。

仏郷ふつごう宇曽うそくん、今晩はもうあきらめなさい。これにりたらもう二度と巌内いわないさんにあんな真似をしてはいけませんよ。」

巌内いわない「旦那様、何かお手伝いいたしましょうか。」

暮田くれた「いや、大丈夫だよ。ありがとう。今日は僕がやることにしたのでね。それよりも、もうすぐディナーの時間なので、比嘉井ひがい先生を呼んできてくれないか。あ、君ひとりでは心配だね。仏郷ふつごうくんも一緒に頼むよ。」

仏郷ふつごう「承知いたしました。」

仏郷ふつごう巌内いわないがドアの外へ出て行き、2人の声が遠くなるのを確認した暮田くれたは、ナイフを手にしたまま宇曽うその方にゆっくりと歩み寄り、顔を近づけると宇曽うその黒目を凝視ぎょうししながら口元だけにみをたたえた。

暮田くれた「……宇曽うそくん。君はいつも巌内いわないくんの事をあんな風に乱暴に扱っているのかい?」

宇曽うそ「………おい、ナ…ナイフをしまってくれ。」

暮田くれた「君が部屋から出ていた時には果物くだものナイフを持参していたね。巌内いわないくんは答えてくれなかったけれど、君は巌内いわないくんをおどしたのではないのかい?」

暮田くれた宇曽うその目の前に力強くにぎったナイフを素早く突き出した。

宇曽うそ「…うわっ!!!!ち…違う!!!俺は何もしていない!!!助けてくれ!!」

恐怖に怯えた宇曽うそはその場から逃げようと、真っ赤な顔をしてジタバタと身をよじらせたが、拘束こうそくされている手足にはその椅子を転倒てんとうさせる程の力はなかった。暮田くれた宇曽うその目の前にナイフを突きつけ、表情を変えぬまま、一言ひとことずつ丁寧ていねいに言葉を発する。

暮田くれた「僕はここのあるじだ。君の生殺与奪せいさつよだつの権利は僕がにぎっている。今すぐに君を解雇かいこして路頭ろとうに迷わせたってかまわない。巌内いわないくんは引き続き僕が面倒を見るよ。そして例え今、僕が君を殺したところで誰ひとり僕のことを非難しないだろう。みなは君のような狂暴きょうぼうな人間が減って安心して死までの時間を迎えることができる。君は言っていたね。『俺たちはどうせ死ぬんだ』と。僕は今ここでこのまま君を殺したってかまわないのだよ。」

宇曽うそ「ひぃぃいいっ!!!か…勘弁かんべんしてくれ!!!し…正直に言う。確かにおどしには使った!!あいつが生意気だったから腹が立ったんだ!!!だが俺はこれでも料理人のはしくれだ!!自慢のナイフを人殺しになんて使う気はさらさらない!!!これは俺のプライドだ!!!これだけは本当だ!!頼む!!信じてくれ!!!」

宇曽うその身体の震えが激しくなっていく。動かない身体でなんとか尿意をおさえようとしているのか、大きく腰を動かしている。

あわれな宇曽うその姿を見るにえかね、暮田くれたは窓の方に目をそむけた。

暮田くれた「フン…プライドか。そんなものを持ち合わせているなら、最初からそのやいばを人になど向けぬことだな。いいだろう、どうせあと少しの命。2人が戻ってきたらきちんと謝罪しゃざいをしてくれ。そうしたら君のことを釈放しゃくほうしてもいいだろう。明日の朝からまた朝食の支度を頼むよ。ただし…」

宇曽うそ「…ただし…???」

暮田くれたは再度宇曽うその方を向きなおすと、至近距離しきんきょりまで近寄り、頭よりはるか高い位置からその顔を見下みおろした。

暮田くれた「もう二度と巌内いわないくんには近づくな。次に君がなにか問題を起こした時には、僕が直接手をくだす。」

宇曽うそが屋敷に勤めてから20年、穏やかな暮田くれたが今までに一度も見せたことのなかった恐ろしい悪魔のような形相ぎょうそうに、宇曽うそは全身に悪寒おかんを覚えると同時に、股間が生暖かくなっていくのを感じた。




◆16:45




比嘉井ひがいを探しに行った仏郷ふつごう巌内いわないがリビングに戻ってきた。暮田くれたによって拘束こうそくかれた宇曽うそは、青白い顔をしてキッチンのすみにへたり込んでいた。それを見た巌内いわないの顔が一瞬引きつった。

暮田くれた「あぁ、すまない、驚かせてしまったね。大丈夫だ。宇曽うそくんの覚悟を聞いた。もうあのような真似は二度としないと。今君たちに謝罪をしてもらい、明日からまたシェフとして仕事をしてもらう。あと、念のため巌内いわないくんには今夜から1階の奥の鍵付きの部屋を使ってもらおう。」

巌内いわない「…お気遣きづかい頂き、ありがとうございます。」

宇曽うそはチッと小さく舌打ちし、しかめっつらをしながら小声で2人に謝罪した。

宇曽うそ「……さっきは悪かったな。どうせ死ぬんだって思ったら、無性むしょうに腹が立っちまって…やつあたりしてしまった。悪かった。俺はこれでもシェフだ。ナイフは人殺しには使わねぇ。これからは真面目に仕事するから、許してくれ。」

暮田くれたが2人を見ると、仏郷ふつごう巌内いわないも大きく頷いた。

暮田くれた「いいでしょう。宇曽うそくん、早く着替きがえてくるといい。」

ニヤリとする暮田くれた宇曽うそは顔中をしわだらけにしてにらんだ。

宇曽うそ「くそっ…余計なことを…」

宇曽うそは小走りで自室に戻った。


暮田くれた「さて、比嘉井ひがい先生のほうはどうだったかい?」

巌内いわない「それが…やはり見当たらないのです。屋敷中を探したのですが。どこかですれ違っているのでしょうか。」

仏郷ふつごう「嫌な予感がしますね…」

巌内いわない「縁起でもないことをおっしゃらないでください…。」

暮田くれた「妙ですね。ディナーの時間を過ぎてもいらっしゃらないようなら、全員で改めて探しましょうか。」








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る