怒りの日

◆15:50


エントランスで会話していた屋敷のあるじ暮田くれた執事しつじ仏郷ふつごうは二階から聞こえてきた怒号どごうとガラスの割れる音に驚き、あわてて階段をけ上がる。血相けっそうを変えて勢いよく飛び出してきた宇曽うそは手に果物くだものナイフをにぎり締めていた。宇曽うその白いシェフエプロンの肩には赤い血がにじんでいる。

暮田くれた「…!!!!!」

驚きのあまり身体が硬直こうちょくした暮田くれたの横を宇曽うそ足早あしばやに通り過ぎ、階段を降りようとする。しかし暮田くれたの後ろに控えていた仏郷ふつごうにあっさりと取り押さえられた。われに返った暮田くれたあわてて宇曽うそつかみかかる。

宇曽うそ「なんなんだよ!!離せよ!!この野郎!!」

仏郷ふつごう「こう見えてもわたくしは昔、空手からてをやっておりましてね。簡単には逃しませんよ。」

暮田くれた「おい…宇曽うそ巌内いわないくんをどうしたんだ…!!!???」

宇曽うそ「あぁ!?あいつは、俺に生意気な口をきいたから突き飛ばしてやっただけだ。大丈夫だ、殺しは…」

宇曽うそが喋り終わる前に暮田くれたは背後から宇曽うその首に腕を回し、全身の力で自分の方へ引き寄せた。

宇曽うそ「うぐっ…何しやがる…ぐはっ…」

暮田くれた「もう我慢の限界だ…。宇曽うそくん、君は巌内いわないくんを一体なんだと思っている?」

宇曽うそ「あいつは俺のだ。俺がいないとあいつは生きていけないんだからな。」

暮田くれた「果たして本当にそうでしょうかね。思い違いもはなはだしい。」

暮田くれた宇曽うその首に回した腕に更に力を入れる。と同時に、仏郷ふつごう宇曽うその腹部めがけて勢いよくこぶしを繰り出した。

宇曽うそ「うぉぉおおげほっ!!!!」

眼を見開き、口も開けたまま今にも嗚咽おえつしそうな表情で腹部を抱えながら、宇曽うそはその場にしゃがみ込んだ。

仏郷ふつごう「旦那様、ここは私にお任せを。巌内いわないさんのことをお願い致します。」

暮田くれた「ありがとう。ではこちらはよろしく頼んだ。」

暮田くれた宇曽うその部屋へけ込んだ。あたり一面に飛び散ったガラスの破片はへんの真ん中で、巌内いわないが横になってすすり泣いていた。

暮田くれた「あぁ!!!!何ということだ!!巌内いわないくん、大丈夫か、しっかりするんだ!!」

け寄ってくる暮田くれたの声のほうを振り返る巌内いわないの目からは大粒の涙があふれている。暮田くれたは倒れている巌内いわないを抱きかかえてなみだした。

暮田くれた「本当にすまない。僕が宇曽うそ君を見てきてくれだなんて言ったばっかりに…」

今にも気を失いそうな青白い顔をした巌内いわないは、そっと手を伸ばすと暮田くれたの右目から流れる涙を拭きとった。

巌内いわない「いいえ、旦那様のせいなどではございません。私が悪いのです。つい宇曽うそに反抗して、怒らせるような行動をとってしまったのです。この怪我も、私が持っていたグラスが偶然割れて出血しただけでございます。ご心配なさらず…。」

暮田くれた「僕は君をこんな目に遭わせた宇曽うそを断じて許すことはできない。」

暮田くれた巌内いわないの顔を膝に乗せたまま、小刻みに震えている。暮田くれたの涙がポツリポツリと巌内いわないほおに落ちる。

巌内いわない「旦那様、本当に違うのです。宇曽うそは口先だけの臆病者おくびょうものです。あんな態度をとっておりますが、人を殺すような度胸どきょうはございません。」

暮田くれた「なぜ君はあんな奴のことをかばう??君は宇曽うそを愛しているというのか?」

暮田くれたの目つきが鋭くなる。いつもの淡々たんたんとしたおだやかな口調とはうって変わって、怒りがふつふつとえたぎるような低い声。暮田くれた巌内いわないの瞳をまっすぐに見つめて問い詰める。

巌内いわない「いえ…私は…」

暮田くれた「………いや、すまない、今はそんなことを話している場合ではなかった。すぐに応急処置をしなくては。とりあえず、君が無事で本当に良かった。比嘉井ひがい先生を呼んでくる。」

暮田くれたは部屋の外に出ると、廊下の奥で宇曽うそ羽交はがめにしている仏郷ふつごうに声をかける。

暮田くれた仏郷ふつごうくん、ありがとう。巌内いわない君はひとまず無事だ。比嘉井ひがい先生はどこにいるかわかるかい。」

仏郷ふつごう「それが、わたくしも先程夕食のことをお伝えしようとお探ししていたのですが、わかりませんで…」

暮田くれたまいったな…。救急セットは化粧室でよかったかい。」

仏郷ふつごう左様さようでございます。」

暮田くれたは引き返し2階の化粧室の戸を開けた。正面には小窓があり、夕方だというのに、夜のように真っ暗な黒い空と、白い猛吹雪もうふぶきおおわれた外の様子が見て取れた。洗面台の横にある戸棚の上から救急セットを取り出し、巌内いわないのもとへ戻った。


長年、家政婦として働いてきて身に染みついた動きなのだろう。巌内いわないは怪我をしているというのに早くもほうき塵取りちりとりでガラスの破片を回収して新聞紙に包んでいた。安堵あんどした暮田くれたの顔にさみみが戻った。

暮田くれた「あぁ、無事でよかった、サティ。安心したよ。だが君にはまだ安静にしていてほしい。少し手当てをしたいからソファに座ってくれないか。」

巌内いわないがソファに腰かけると、暮田くれたはその横に座った。消毒液をガーゼに染み込ませ、巌内いわないの腕のあちこちの傷を消毒していく。

巌内いわない「いたっ…」

巌内いわないが苦痛で顔をゆがめる。その表情を見た暮田くれたも時を同じくして切なげに顔をゆがめる。

巌内いわない「あ、申し訳ございません。せっかく旦那様に消毒頂いているというのに、私ったら…」

暮田くれた「いいのだよ。可哀想かわいそうなサティ。すまないね。もうすぐ済むからね。」

暮田くれたはスーツを脱ぎ、裁断用さいだんようの大きなはさみで自分のワイシャツのそでを切り取ると、手際てぎわよくそれを細かく何本かに切り分け、傷跡きずあとに乗せたガーゼの上からそれがはずれないようシャツの細切こまぎれでしっかりとしばった。

暮田くれた「ふぅ。これでひとまずは安心だ。宇曽うそくんは仏郷ふつごうくんが取り押さえてくれた。しばらくはあのままらしめてもらおう。」

巌内いわない「ありがとうございます、旦那様。」

暮田くれた「いいのだよ。僕の方こそ、君をこんな目にわせてしまって本当にすまなかった。ごめんよ、サティ。」

暮田くれたは横に座っていた巌内いわないの右腕を優しく右手で抱え、左手を肩に伸ばすとそのまま体ごと抱き寄せた。暮田くれたは膝の上に乗った巌内いわないの頭を、そっと、優しく、まるで互いの心を通わせているかのようにゆっくりとでた。







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