ジムノペディ

◆15:30

 宇曽うそ比嘉井ひがいが部屋から出て行った。食べかけのカステラと紅茶を巌内いわないが片付ける。執事しつじ仏郷ふつごうはひとり窓の外を見ながら涙を拭いているようだ。屋敷のあるじである暮田くれたは何事もなかったかのように楽譜を手に取ると、いつものようにエントランスホールのグランドピアノへ向かう。


 ―エリック・サティ「ジムノペディ」―


 絶望のどん底にあるはずの洋館の中にゆっくりと優しく淡い音色が鳴り響き、洋菓子の片付けを終えた巌内いわないの足は自然とホールに引き寄せられていく。

巌内いわない「旦那様、このような状況下でなぜ平然とピアノをいておられるのでしょうか。」

暮田くれた「こうすることでしか僕はこのやりきれない気持ちを昇華しょうかすることができないのだよ。悲しい、切ない、みじめだ、苦しい、つらい、死にたい。そんなことを考えていたって状況は何も変わらないだろう。だから音の世界に酔いしれるんだ。そうすれば、今この瞬間だけ僕はこの地獄のような苦しみから解放され、一時いっときの幸せに満ちあふれるのさ。君だってそうだろう。宇曽うそくんがあんな風になっているっていうのに、僕のピアノなんて聴きに来て。困った子だ。」

 暮田くれたは意地の悪い笑顔を巌内いわないに向けた。

巌内いわない「そ…それは…」

暮田くれた「それはそうと、きみはエリック・サティが好きだね。サティの曲をき始めた時が一番来てくれるのが早い。巌内いわないくん、ここにいる2人の時間だけ、君のことを”サティ”と呼ばせてくれないか。そのほうがなんだか可愛いだろう。」

巌内いわない「…2人の時間…」

 巌内は少し目を泳がせて周囲を確認したあと、恥ずかしそうに、こくりと小さくうなずいた。

暮田くれた「ふふ…嬉しいよ。サティ。僕だけのサティ。でも残念だが、宇曽うそくんの様子をちょっと見てきてくれないか。なにやら不穏ふおんなのでね。」

巌内いわない「わかりました。」

暮田くれた「何かあったらすぐに僕のところに戻ってくるんだよ。サティ。」

巌内いわない「はい、旦那様…」

巌内いわない名残なごり惜しそうに振り返りながら大きな螺旋階段らせんかいだんのぼって行った。


 巌内いわないの後姿を見送り、ふぅと息をもらしピアノの椅子から立ち上がる暮田くれたの元へ、執事の仏郷ふつごうがリビングの方からやってきた。

暮田くれた「どうしたんだい、こんなところへ。」

仏郷ふつごう「いえ、ご相談が。旦那様、今夜のお食事はいかがなさいましょう。宇曽うそさんがあの調子では夕飯の支度がむずかしいかと思いまして。」

暮田くれた「確かにそうだな。では今夜は僕が食事を作ろう。まだ冷蔵庫や貯蔵庫ちょぞうこに食材は残っているかい。パエリアでも作ろう。もう何日持つかもわからないのだし、この際、ヴィンテージワインも皆が元気なうちに開けてしまおうじゃないか。準備を頼んだよ。」

仏郷ふつごう「承知いたしました。」



◆15:45

洋館2階の奥。宇曽うその部屋にノックの音がする。

宇曽うそ「うるせぇ!!!誰だよ!!!」

巌内いわない「私です。開けてもよろしいでしょうか。」

宇曽うそ「あぁ。」


古びたドアがキィと音を立てて開く。げかけた金色のドアノブの粉が巌内いわないの手のひらにぺたりと貼りついた。

宇曽うそ「何の用だ。」

巌内いわない「先ほど貴方あなたが皆様にお見苦しい姿をお見せしていたので忠告ちゅうこくまいりました。まさか本当に誰かを殺すおつもりなどございませんよね。」

宇曽うそ「さっきも言っただろ、どうせ死ぬんだ、俺たちはよ。お前も殺されたければ今俺がこの手で殺してやるよ。」

巌内いわない貴方あなたが死ぬのは勝手ですが、私はまだ死にたくなどありません。自分の都合に他人を巻き込まないでください。」

宇曽うそ「黙って聞いていりゃいい気になりやがって。お前はいつから俺様にそんな偉そうな口を利けるようになったんだ?身寄りのないお前を拾って一緒に屋敷に住まわせてやったのは誰だと思っている。お前は屋敷の家政婦かせいふなんかじゃねぇ、俺の奴隷どれいなんだよ!黙っておとなしくしてねぇと、お前からぶっ殺すぞ。」

巌内いわない「私はもう家政婦かせいふでも、貴方あなた内縁ないえんつまでも奴隷でもありません。この屋敷で死を待つだけの一人の人間です。」

 宇曽うそは立ち上がると、巌内いわないの身体を両手でドンと強く押した。飲み物を運んできていた巌内いわないの手からトレイとグラスが床に落ち、破片はへんが飛び散った。倒れた巌内いわないの腕にグラスの破片が突き刺さり腕のあちこちから血がにじんだ。痛みをこらえながら片目を開け腕の力で立ち上がろうとする巌内いわない宇曽うそは上から押さえつけ、その顔に荒くくさい息を吹きかける。カッと見開いたその大きな黒目をおお白目しろめはひどく充血し、目頭から赤いすじがいくつも伸びている。果物くだものナイフを取り出した宇曽うそはその刃先を巌内いわないの首筋に向ける。


宇曽うそ貴様きさま、誰の差し金さしがねだ?いいかぁ、お前はただ俺に従って大人しくしていりゃいいんだ。二度と俺様になめた口聞くんじゃねぇぞ」










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