本編

月の光

7:30


「…月の光…ですか。」

 繊細なその音色ねいろに引き寄せられるかのごとくやってきた巌内いわない暮田くれたの背後からそっとつぶやいた。

「あぁ。別の曲がいいのかい。」

「いえ…」

 九十年程前に建造され、運よく被災もまぬがれてきたこの山奥の洋館は、製薬会社社長であった先代から代々受け継がれてきた。エントランスの広大な窓から差し込むまばゆいばかりの朝日の中、暮田くれたは今日も階段の横にあるグランドピアノで美しい旋律せんりつを奏でる。巌内いわないは銀皿を抱きかかえたまま両腕で肩を掴んで、その音に耳を澄ませた。

 そのしなやかな細く白い指先に、つやめく黒いオールバックの後ろ姿に、優雅ゆうがに動く両腕に、巌内いわないの目は釘付くぎづけになっていた。暮田くれたはその視線を背後に感じながら、時折ときおり自分が一番美しく見える角度でその横顔を巌内いわないに見せつける。

「今日はここまでにしよう。」

 暮田くれたは演奏を途中で辞めて振り返った。頬を紅潮こうちょうさせた巌内いわないの表情が一瞬だけ切なくなったのを暮田くれたは見逃さない。

「まだ聴いてたいかい。」

「…いえ、旦那様のお好きなように…」

「君が聴きたいのならまだ弾いていてもいいのだよ。もう僕達に残された時間はわずかだ。」

「え…ええ…。では是非…」

「それでは、幻想即興曲にしようか。」

 暮田くれた譜面ふめんを入れ替えると、白と黒の八十八鍵の上で再び指をおどらせた。


15:00


 巌内いわないがリビングの丸テーブルの上に紅茶と洋菓子を並べる。シャンデリアの真下に置かれたそのテーブルの周りには贅沢ぜいたくな革張りの椅子が6脚並んでおり、屋敷で暮らす四人と暮田くれたのかかりつけ医である比嘉井ひがいがそれぞれの椅子に座った。

 暮田くれたみな、知ってのことだと思うが、昨日の昼からの豪雪でこの山から町までの進路が絶たれてしまった。この屋敷はもはや陸の孤島だ。反乱軍はもう町を占拠したようだ。食料も残り少ないが、買いに行くこともできず、救援物資が届く見込みもない。じきにここも軍に占拠せんきょされるだろう。もしくは食糧不足で飢死うえじにするか、燃料の枯渇こかつ凍死とうしするのが先かもしれない。今まで君達には本当に世話になったが、もう私にはすべはない。申し訳ないが皆が元気なうちに別れを告げておこうと思う。」

 比嘉井ひがい「くっ…私が昨日の朝にすぐ帰っていれば町から助けを呼んで何か援助ができたかもしれなかったのに…」

 比嘉井ひがいは白髪の頭をぐしゃぐしゃとき乱し、涙をこぼした。暮田くれたのかかりつけ医である比嘉井ひがいは週に1回、暮田くれたの持病の診察のために町から屋敷へやってきていた。僻地医療へきちいりょうに情熱を注いできた比嘉井ひがいは、町まで来ることのできない患者の元へ自ら出向いてその診療を行っていた。

 仏郷ふつごう比嘉井ひがい先生、なげかないで下さい。先生に昼食をお取りになるよう勧めたのはこのわたくしめです。悪いのは全てこのわたくしめでございます。」

 屋敷の執事である仏郷ふつごう比嘉井ひがいの肩にそっと手を置いた。

 宇曽うそ「あぁ、もう最悪だ。もうどうにでもなれ。こんな山奥でシェフなんかするんじゃなかった。お前ら全員俺の包丁でメッタ刺してやろうか。」

 巌内いわない宇曽うそさん、笑えない冗談はおやめ下さい。」

 宇曽うそ「冗談じゃねぇよ、本気だ。どうせ死ぬのは決まっているだろう。だったら俺が全員殺してやるよ。」

 宇曽うそは全身の力をぬいて椅子にもたれかかっている。

 暮田くれた「そのような体勢で言っている台詞セリフは到底本気だとは思えませんが。まぁ、いずれにせよこれで誰かが殺されたとしたら、全員が真っ先に宇曽うそさんを疑うでしょうね。」

 宇曽うそ「どうせ死ぬんだ。好きにしろ!」

 宇曽うそが勢いよくリビングを出て行き、その後を追うように比嘉井ひがいが赤くなった目を押さえながら出て行った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る