中1 9月⑤
次の日。学校が終わった私は、ドキドキしながらそのまま木漏れ日にやってきました。玄関で靴を脱いでいると、館長さんがちょうどやってきました。
「こんにちは、穂乃果さん。おや、制服のままですか。お家の方に、ここに来ることは言ってありますか?」
「えっとね、部活がなくなったんだ。今日は本当は18時過ぎに家に帰ることになってたんだけど、暇になっちゃった。でもこのことを知らないお母さんが仕事休みで家にいたら、きっと私が帰ってきた時に不機嫌になっちゃう。『なんで帰ってきたの?部活は』って。だから行くあてもなく、ここに来ちゃった……。」
私は、ドキッとしたことがバレないように、一生懸命誤魔化します。
「そうですか、じゃあ時間になったら心配かけないように、きちんと帰ってくださいね。そうだ!今日は初めて教室に行く日でしたね。同じ学年の子も来ていますよ。」
顔が赤くなかったか、動きがカクカクしていなかったか不安で心が紫色になりかけましたが、館長さんは話題を変えました。大丈夫だったみたいです、良かった……。私はひとまず安心します。そして、そうです。今日はもう一つドキドキすることがあるのでした。同じ学年の子が来ている、という館長さんの言葉を聞いて、一気に心がピリピリ、そわそわしてきます。
「緊張するなあ……。」
「大丈夫ですよ。……ちょっとソラさんを呼んできます。ここで待っててくれますか?」
私のマシマシな緊張を知っているのか、知らないのか、館長さんは私の言葉をサラッと流すと、行ってしまいました。
「教室はこの先だよ、ついてきて!」
ソラさんに言われて、私は後について歩きます。
「緊張するなあ。どうしよう、友達になれなかったら、嫌われたら、怖い子だったら……。」
「よくそんなに不安なことを思いつくよね。大丈夫だよ、良い子だから。」
緊張して喋ってしまう私に、ソラさんは手をひらひら振りながら、昨日と同じような調子で言います。
「もう!館長さんもソラさんも、私がどれだけ緊張してるか知らないの!!」
「少なくとも私は知らないなあ〜。」
「えぇ……。」
「だけど、不安で心が嫌な感じになるあの感覚は、よく分かるよ。」
ソラさんとの温かい言い合いにちょっぴり腹を立てたけど、おかげで少しだけ緊張で膨らんだ心の風船は小さくなってくれたようです。
「みんなの教室」と書かれた部屋の手前でソラさんは立ち止まり、仏頂面で言いました。
「紹介とか苦手だからさ、後ろからこっそり入っちゃおうよ。」
「その方が嬉しい、注目を浴びるの嫌なんだよね。小学校の時もね、似たようn」
「しーっ!」
前にもあったことを話そうと思ったら、ソラさんがそれを止めました。いけない、今は大事な時なんだった!
「じゃあ入ろうか。」
ソラさんは先に教室に入って私を手招きします。私は、紫からちょっぴり水色の混ざり出した心を撫でながら、明るい声や笑い声の聞こえる暖かい雰囲気の教室へ、一歩踏み出しました。
教室に入ると、中では1〜3人の小さなグループごとに勉強をしたり、おしゃべりしたりしているようでした。グループごとに1人、大人?サポーターさんがついているようでした。思ったより人数はずっと少なく、生徒さん?は全部で6人くらいです。
「こっちこっち!」
ソラさんは身を屈めながら教室の奥へ抜き足差し足をしています。私もそれを真似しようとしました。その時です。
「あれ、ソラさん!何してるの?その子は誰?」
私たちの努力も虚しく、背の高い男の子に発見されてしまいました。
「え、新しい子?」
「名前は名前は?」
「何年生?」
その子の声で他のみんなも気付き、寄ってきます。
「ええなんでバレちゃうの?ちょっ、ちょっと待って!この子、注目されるの苦手だからさ。また慣れたら改めて、ね?」
「ソラさんがそーゆうの苦手だからじゃないの?」
「うっ……。」
目の前で、ソラさんと他の子たちが楽しそうにツッコミあっています。私はどうしたら良いか分からず、その場でキョロキョロします。バレないように作戦立てて入ったのに!顔が熱い。少し照明が眩しく感じる。心がゾワゾワ、緊張と恥ずかしさで暴れてる。
「注目されたくないのは本当なんじゃない?……新入りちゃん大丈夫?」
私の様子を見たのか、察してくれたのか、優しそうで穏やかな女のサポーターさんが言いました。みんなに書いてもらったのか、手作り感満載の名札に、「田中」と書かれています。田中さん……?でも、私はその声を聞いてもっと顔が熱くなった気がします。恥ずかしい!田中さんの声が届いたのか、みんなは「また今度ね」、「また話そうね」と口々に言うと、席に戻って行きました。
「わ、私たちの席はこっちだよ。」
思ってもいない、心がゾワゾワすることが起きたからでしょうか。まだ慌てたままのソラさんが声をかけてくれた時も、ソラさんに続いて歩き、自分の席に座った時も、私は恥ずかしさと緊張と居た堪れなさで下を向いたままでした。本当に、一度にたくさんの注目を浴びることは昔から苦手なのです。そのくせ、浴びてしまう機会が少ないわけじゃないから……。私はぐるぐる回る頭の中の狭間で考えます。
だから、私は隣に座る子の存在に、なかなか気付かなかったのでしょう。
「ねえ、話しかけてあげてくれない?この子緊張してるみたいで。あ、昨日初めて来た子なんだけど、昨日私と2人の時はもっと喋ってたし、さっきも。」
私がその子の存在にやっと気がついたのは、席に座って宿題を始めて、しばらくした後にソラさんが隣に向かって話しかけはじめた時でした。
「……え、無視?え、緊張してる?困ったな……どうすれば良いんだよ?」
その子は、ソラさんの言葉が聞こえないのか、黙々と手を動かしています。怖くて隣をしっかり見ることができませんが、着ている服の感じから間違いなく女の子です。私より少し小柄なようにも見えます。ソラさんが、同い年の子だよと言っていた、その子でおそらく間違いないでしょう。
「緊張してるのかな?普段はもっと喋るよね?おーい!」
ソラさんは必死な様子で隣の席の子に話しかけ続けています。こーゆう時、どうしたら良いのか本当に分かりません。頭が空回りして、真っ白になってしまうのです。どうしよう、何か言った方が良いかな、でも怖くて緊張して声が出ない。私は手汗で濡れた、震える手でシャーペンを強く握ります。ソラさんはあわあわしています。向かいにいた田中さんが、見かねてソラさんに声をかけます。
「しばらく様子を見よう。大丈夫よソラちゃん、ちゃんとやれてるよ。」
気まずい、気まずい、気まずい。友達になれなかった。きっと嫌われた。悲しい。私は、色んな感情で洪水を起こしそうな心がみんなに見えないように、宿題に集中するので必死でした。
他のグループの声がやけに大きく聞こえます。私たちのグループは相変わらず誰も、一言も喋りません。しかし、困ったことが起きました。宿題で分からないところが出てきたのです。今日の宿題は、数学です。反比例のグラフを見ながら答える問題ですが、最後の応用問題がどうしても分かりません。私、数学は苦手なんです。どうしよう、でも、分からないままなのも嫌だし。ソラさん気付いてくれないかな。いやなんか硬直してるし。色んな言葉が頭を駆け巡ります。そんな時間をしばらく過ごした後、私は、声を出す決心をします。分からないまま持ち帰って、明日の授業でもし当てられて、答えられなかったら……その方がずっと怖いと思ったのです。
「……あの!分からない問題があるの!ここ!!」
私は息を吐き出すように一気に声に出して、問題を指さします。私の声が大きすぎたのか、みんなが一瞬こっちを見ます。恥ずかしくてたまらない。ちょっと後悔します。
「うわっ、びっくりした!黙るか喋るかどっちかにしてよ〜。……えーっと、『グラフ上で、x座標、y座標がともに整数になる点は全部で何個あるか』かあ。え、何これ。中1ってこんな難しいことやってたっけ?だって、まず式が出ないじゃん。座標が一個与えられてないと出しようがないじゃん。うーん……分からない、数学苦手なんだよな。」
ソラさんに聞いたら教えてもらえるって思ったのに、ソラさんも解き方が思いつかない様子で、うんうん唸っています。解けていない私が言えることじゃないですが、大人って案外大したことないのかもしれません。せっかく出した勇気が無駄になってしまって、心のトゲトゲを抑えられずに、私はつい言ってしまいます。
「えー、ソラさんはとっくに中学生終わってそうなのに分からないんだ。なーんだ、聞いて損した!」
「なんだと〜!!そんな言い方はないでしょ、たまたま数学苦手で、たまたま今回分からなかっただけで。英語とかだったらちゃんと答えられたと思うよ!……そうだよね、分かってるよ自分が頼りにならないことくらい、自分が一番。けど私、これでも一応学力テスト受けてからここに採用されてるんだよね……。」
しまったと思ったのは、ソラさんが私の言葉に怒って言い返した後、急に悲しそうな顔をして、ソラさん自身を貶し出した時です。また、やってしまった。
「穂乃果ちゃん、今の言葉を聞いてソラさんはどう思ったと思う?」
一部始終を見ていたらしい田中さんが、真剣な顔をして私に話しかけます。
「……悲しかったと思う。」
「そうだよね、じゃあどうしなきゃいけないかな?」
「…………ソラさん、ごめんなさい。」
私はソラさんの方に体を向けて、でも目は伏せたまま、小さな声で一言謝ります。
「いいのいいの、本当のことだし。」
ソラさんは、さっきとは打って変わって明るい調子で言います。だけどその言葉はやはり自虐的で、私の言葉で傷つけてしまったのは間違いないでしょう。また、やってしまった。ズバッと言ってしまう。たとえ良くない内容でも、思ったことは躊躇なく。後悔するのはいつも、人を傷つけてしまった後。そのことに気付けただけマシです、それすら分からず、薄情者でひどい奴だと思われることも多いから。私は怖くて、ソラさんの表情を見ることができません。今日は嫌なことばかり起こる。私は今すぐ走って出て行きたくなる気持ちを必死で抑えます。
「これ、私分かるかも!」
その時です。小さな、だけどはっきりとした声が聞こえました。驚いて思わず、うわぁ!と叫んでしまって、また教室中の視線を浴びることになりました。恥ずかしい。気がつくと隣の席の子が私の宿題を覗き込んで、自分のノートにサラサラと解答を書き出していました。いつの間に?私が自分のしちゃったことについて、集中して反省していたせいで気付かなかったのでしょう。
「前の設問で出した座標を使うんだよ。代入したら一個分からなかった部分の数字が出る。式はこんな感じ。そしたら最後に、順番に数字を一個ずつ入れていって整数になるところを数えるだけだよ。」
その子は、ノートを見せながら、丁寧にゆっくり解説してくれます。
「……分からなかった?」
私が唖然として固まっていると、まだ分からないと思われたのか、怪訝そうな顔で隣の席の子は尋ねます。
「う、ううん、違うの。すごく分かりやすかったし、これなら私もできるって思った。ただ、さっきまでソラさんに言われても無視してて、急に喋り出したから、びっくりしたんだ。」
私がハッとして、水色と紫色の混ざった心をなだめながら慌てて言うと、その子は少し顔をこわばらせましたが、すぐに笑って言いました。
「ズバッと言うね。うん、ごめんね、さっきは自分の宿題に集中したかったってのと、やっぱり緊張してて、話しかけられなかったんだ。でも数学やってるの見て、得意だからうずうずしちゃったんだ。」
そして、下がってきた前髪を直しながら、続けて言います。
「私、双葉。中1だよ。」
双葉ちゃん……かわいい名前だなと思います。そうか、まだ名前も言ってなかった。私も一生懸命笑って、緊張で震える手を握って隠しながら、言葉を返します。
「私は穂乃果。同じく中1です。」
私の名前を聞くと、双葉ちゃんは「よろしくね」と言ってちょっとだけぺこりと頭を下げます。私も真似して「よろしく」と言いました。
「私、黒山南中。穂乃果ちゃんは?」
「私は響ヶ丘中。」
「この辺じゃ人数多い方の学校だね。うちなんか1クラスだよ。」
「クラス多いとクラス替えのたびに憂鬱だから、1クラスなのちょっぴり羨ましいかも。」
「クロナン……私の中学は、一小一中だから、逆に小さい時からずーっと一緒すぎて飽きるよ。」
「それでもやっぱり羨ましいなあ。」
私たちの会話を見て、田中さんは「友達の誕生だね。ソラちゃん今回はナイスファイトじゃん」と笑います。
「そういえば、さっきなんで変な風に教室入ってきたの?ソラさんもなんか身を屈めてそーっと歩いてたし……。……あれ、ソラさん?」
「……はっ!2人とも、急に話すようになってあっという間に仲良くなるから、ついていけなくて固まってた!こーゆう時どうしたら良いんだろうねえ、でも良かったよ!……ってかさっきの抜き足差し足、バレてたの!?」
ぼーっとしていたソラさんは、双葉ちゃんの一声でハッとして、そして恥ずかしそうに顔を急に赤くして、慌てた様子で言いました。感情がぐるぐると忙しそうだなと思います。双葉ちゃんはニヤけながら続けます。
「バレるよね。あからさますぎて。」
「結構良い作戦だと思ったのになあ……。」
「しかも穂乃果ちゃんは声が大きいから逆に目立ってたよ。」
「えー、私声でかい?みんなもこれくらいで喋ってるように聞こえるよ?」
「今の声も大きいよ。」
そう言うと双葉ちゃんはお腹を抱えて小刻みに震えながら苦笑します。それを見て、教室にいた他のサポーターさんや、みんなも笑います。私とソラさんは顔を見合わせて、一緒になって大きな声で笑いました。恥ずかしい気持ちもあるけれど、今はもう心はゾワゾワしていないし、オレンジ色の嬉しい気持ちです。
「人気者になれるよ、きっと。」
田中さんが目を細めてにっこり笑ってそう言います。今日は色々あったけど、最終的にはハッピーだから、良かったな。
今日も、夕日が木漏れ日のように、私たちを照らしていました。
私は木漏れ日に通うたびにどんどん馴染んでいきました。他のサポーターさんやメンバーの名前を覚えたり、運動場や体育館で遊んだり、勉強の合間にみんなでカードゲームをしたり。その度に暖かい笑いが起こって、その笑い声は金色に輝き、私たちを包むのでした。
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