第2話
紙に筆を走らせる音だけが部屋中に響く。
チガネは筆の墨が薄くなり始めたのか、墨を足そうと墨瓶に穂先を付けた。
障子を少し開き、中を覗いていた梢はチガネが真面目に勉学に励んでいるのを確認すると、チガネの夕餉を準備する為にゆっくりとその場を離れた。
しばらく経つとチガネは筆を止め、梢が広緑を歩く音が遠のいていくのを耳を澄ませていた。
「これで梢は暫く此処に戻ってこないわ」
チガネは立ち上がり、部屋と広縁を隔てる障子に手を掛けると、極力音を立てないように開いた。
縁側の下に隠してあった草履を取り出し、鼻緒に親指と人差し指を摘まむ様に履くと、庭の塀に駆け出した。
塀の一角にしゃがむと、一見重そうに見える大きい石に手を掛ける。
「よっ、と」
チガネは石を横にずらすと、子供一人がギリギリ通れるくらいの穴が現れた。
頭を屈め、腹這いになり、手と膝を地面に擦る様にして穴の先に前進する。
尻の辺りが少しばかりつっかえたが、無事に穴から抜けることが出来た。
手を伸ばし、先程ずらした石を元の位置に戻すと、ふぅと安堵した様に息を吐いた。
「やぁ、チガネ。
今日は少しばかり遅かったね。
もう太陽が西の方角に傾いているよ」
チガネは振り向くと、そこには淡い花葉色の生地に紅い金魚が描かれている着物を着た少女がチガネに微笑んでいた。
「
チガネは立ち上がり、嬉しそうに椿の胸に飛びついた。
抱き止めた勢いに少し体勢を崩しそうになった椿だったが、チガネの背に手を回すと、抱き返した。
「あらかた遅くなった理由の予想はつくけれどね、無理をして毎日こちらに来なくてもいいのだよ」
椿はそう言うと、チガネは顔を上げ、首を振るう。
「私が椿に会いたいから来てるのよ。
今日は昼間に着物を汚して梢に怒られたの!
そうしたら、いつもよりの長い時間……」
「勉学に励んでいるか見張られていた、だろう?」
「そう!」
チガネは大きく頷くと、椿はふっと笑う。
「学問は沢山の知識を得られる点では、今後のタメになることが多いと思うよ」
「文字を見るだけでも頭が痛くなるの。
椿が書物の知識は面白いっていうけれど、私にとってはそんな紙に書かれたものよりも、自分の手足や目で見たもの、触れたものの方がタメになると思うわ」
「まぁ、それも一理あるけれど」
抱きついていたチガネは椿から離れると、今度は椿の手を握った。
そして、二人は少し遠くの方に見える屋敷の方に歩みを進めた。
チガネが住んでいる屋敷と今向かっている屋敷は同じ外観をしているが、緑はこちらの方が多いとチガネは最初の頃に思った。
チガネは一度だけ何故、屋敷同士が塀に隔てられているのか使用人の梢や母親に尋ねようと思ったことがある。
しかし、聞いてしまったら塀の穴は塞がれ、椿にもう会えなくなるのではないかと不安が過ぎり、チガネは口を噤んでいた。
チガネが椿と出会ったのは三年前だった。
あの日、いつもの様に庭で遊んでいたチガネはふと、梢を驚かせようと、隠れる場所を探している時に偶然、塀の穴を見つけた。
見つけたまでは良かったのだが、好奇心に駆られ、チガネは潜ってしまった。
塀の奥に広がる場所に興奮し、無我夢中で走り回ったことにより、辺りが暗くなってきたことに気づかず、
泣きじゃくるチガネの元に椿が現れたときは、驚きと安心が同時に襲いかかってきて、更に泣いてしまい、椿を困らせてしまったことが今でも懐かしく感じる。
そうこうしているうちに屋敷の縁側までたどり着き、チガネと椿はそこに腰かけた。
「ふぅー……歩き疲れた」
チガネはそう言うと、手の甲を額に当て、かいてもない汗を拭う仕草をした。
椿は近くに居た使用人に飲み物を頼み、隣に座るチガネの方に顔を向けた。
「そうだ椿、聞いて。
塀の穴も歳が一つ増える度に段々と狭くなって嫌になってくる。
また尻が
もう、笑わないでよぉ~!」
椿は着物の袖で口元を隠すと、ふふっと笑った。
「いやぁ、すまないね。
その様子を想像してしまって……ふふっ、はははっ」
「も~!!」
涙が出る程笑っている椿にチガネは頬を膨らませ、小さな拳を椿の左肩に何度も振り落とした。
ふと、椿の着物の袖から見える腕に包帯が巻かれているのにチガネは気づいた。
「あれ、椿。
その包帯どうしたの……?」
チガネにそう指摘されると、椿は自身の左腕に視線を落とした。
「あぁ、これはチガネが来る少し前に不注意で怪我をしてしまったのだよ。
包帯を巻いているけれど見た目ほど酷い怪我ではないんだ」
「それでも痛いものは痛いわ。
私が早く椿の腕の傷が治る様に神様に祈るわ」
チガネは椿の腕にそっと手で触れた。
そのチガネの手に椿は自身の手を添えると、チガネはびくりと手を震わせた。
「神様に祈るよりも、私は
幾らか痛みが癒える気がするんだ、お願いできるかい?
チガネ」
チガネは添えられている椿の手からゆっくりと視線を上げると、こちらに優しそうに微笑む椿が映る。
じわりと胸の辺りに広がる温かさと自身の高鳴る鼓動が椿に聞こえてしまうのではないかとチガネは恥ずかしさで口を噤んだ。
「お、おまじないするけど……ずっと見つめられていたら恥ずかしいから、目をつぶって欲しい」
「ふふっ、わかったよ」
椿はそう言うと、瞼を閉じた。
椿が目を閉じているのをチガネは確認すると、包帯が巻かれている腕をさすりながら、小さな声で唱えた。
「……っ、ちちんぷいぷい
そしてチガネは椿の腕を自身の顔に近付かせると、唇を落とした。
恐る恐るチガネは椿の方を向くと、椿は薄目を開けてこちらを見ていた。
「……目、いつから開けていたの?」
「おまじないを唱えてもらったときに。
ありがとう、チガネ」
「……うん」
チガネは頬を赤らめ、視線を下に向けた。
「そういえば、そのおまじないはお母様に教えてもらったのかい?」
椿の問いにチガネは首を横に振った。
その仕草に椿は少し驚いた様に息を漏らした。
「ううん、お母様にはそんなこと一度もしてもらったことない。
このおまじないは本の中で見たの。
あ、椿の言った通り本の中で知識が得られたってことだね」
「そうだね、知識を得てそれをこんな風に行動に移したのは、チガネが心の優しい子だからだね」
椿はそう言うと、チガネの頬を両手で包みこむと、俯く顔を上に向けた。
「ふふっ、チガネの頬が
「……っ、もしも私が
いつの間にか緑茶の湯飲みを乗せたお盆を持ち、近づいてきていた使用人の女性は二人の様子に小さく咳払いをした。
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