第19話

 ホームに着くと、既に電車に乗ったと思い込んでいた紀斗と縁子がいた。

 こんなことなら、もう少しどこかで時間を潰しておけば良かった。

 一番階段から遠い位置にある乗車口は、まだ誰も並んでいなかった。精神的にとても疲れていたので、今日は座って帰りたい。いつもならば適当に立っているが、列の先頭を奪われないよう珍しく、点字ブロックで引かれた黄色い線ぎりぎりをとった。

 なるべく二人を視界に入れないように、向かい側のホームにある、さして興味もない映画の広告を細部まで観察する。タイトルは『初恋』。人気小説が原作と謳っている。中心に大きく、主演を務める男優と女優の写真が載っており、男優の方の顔は初生もよく知っていた。音楽番組でよく見かける、清水(しみず)叶(やす)稀(き)だ。昔初叶が彼の名前を読み間違えていたな、と思い出す。

「水無さん。紀斗をとる形になっちゃって、ごめんなさいね」

 だから話し掛けられるまで、縁子がそばに来ていることに気がついていなかった。

 邪魔してはいけないと思って距離をとったのに、わざわざ追いかけてきたのか。

 縁子は私の正面に回りこみ、哀れむようにせせら笑った。

 腹の底から、沸々と怒りがわいてくる。

「別に。かずが松原さんを選んだんだったら、私は何も言わない」

 つい、ぞんざいな言い方をしてしまう。今の自分は嫌いだ。

 縁子は、心底意外そうな顔をした。

「もっと力の触媒的存在である紀斗のことを惜しむと思っていたわ。でもあなたにとって紀斗なんて、たかが一触媒、くれてやっても痛くないってわけ」

『まもなく二番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ちください。』

 ホームにアナウンスが響く。

「何言ってるの?触媒って何」

「とぼけないで。私が何も知らないと思っているからそんな風にできるのよ」

 突然縁子は鞄を捨て、両手で初生の肩を掴んだ。

「ちょ、何して」

「いいわ、教えてあげる。だって私だけあなたの正体を知っているというのはフェアじゃないものね」

 まさか、縁子は私が“天津甕星”であることを知って―――?

「私は巫覡。声を聞き、発する者。そして……唯一“天津甕星”の力に対抗し得る者!」

 体中の力が抜けていく。以前、縁子に廊下で腕を掴まれた時と一緒だ。

 今ならわかる。

 “天津甕星”の力を吸収されているのだ!

 ……ということは、縁子は。

 初生の家族を虐殺し、初生の記憶を改ざんし、正義を気取る者の仲間!

 そして今、初生の力を奪うだけでなく、紀斗にまで危害を加えようとしている。

「許せない!」


 ―――松原さんがいなければよかったのに!


 縁子の手が、初生から離れた。

 支えを失った初生は、そのままへたりこんだ。

 初生を覆っていた大きな影が消えた。

 一瞬、叶稀の顔が見えた。

 遮られていた電灯の光が一斉に初生に降り注ぐ。

 眩し過ぎる光に耐え切れず、目を瞑る。

 次に初生がその目を開けたとき、ホームの様子は一変していた。


    ✻        ✻        ✻ 


 紀斗は数十メートル先で相対する二人の少女を見ながら、心の中で葛藤していた。

 このまま、縁子の言いなりになり続けるのか。

 それしか初生を守る術はないのか。

 縁子が関わってくる前は、いつも初生と一緒にいた。

 そこに理由なんて無くただ好きで、自分が身代わりになってでも守りたいと思った。


 ―――松原がいなければよかったのに!


 その時、縁子の体が傾ぐのを見た。

 最悪のタイミングであることは、一部始終をこのアングルから見ていた紀斗が一番良くわかっていた。

 とっさに、すぐ近くの柱に設置されている非常通報ボタンを叩く。

 しかし。

「きゃ―――――!」

 OLらしき女性の甲高い悲鳴を口火に、あちこちでパニックが起こった。

「何、何が起こったわけ?」

「やだ、見ちゃった!女子高生が線路落ちた」

「嘘!生きてんの?」

「無理でしょ、電車に撥ねられたんだから」

 あちこちで交わされる人事な会話を掻き分け、初生の元に走った。

「初生!」

 まるで何の音も聞こえていないかのように、反応が無かった。

 初生はただ、カタカタと人目にもわかるほど震えていた。


     ✻        ✻        ✻ 


 真っ赤に染まったホーム。

 両肩には、まだ縁子の体温が残っている。

 ついさっきまで、目の前にいたのに。

 ―――「答えは、脅威だから、や」

 初叶の声が耳の奥で何度も何度もささやかれる。

 確かに脅威だ。

 今、この力を最も恐れているのは、一般市民でも紀斗でも、巫覡でもない。―――初生だ。




 たった今私の前で死んだのは、大人びた孤独な人でした。


 そして、初めていなくなって欲しいと、心の底から願ってしまった人でした。

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