第15話

 境内の桜は既に散り、若葉を広げ始めている。

 一日のほとんどを、部屋から出ずに庭を眺めて過ごした。

 空いた時間をどう使っていいのか、有り余っている時間を全て使って考えてもわからない。何に使うのかを考えることで時間を浪費する。

 日和は既に、巫覡としての力が弱い婚約者の晴義に代わって、当主の仕事をこなしていた。

 だから世話役になれたからといって、一日中僕のそばにいるわけにはいかなかった。その分は、琴が世話してくれた。

「琴」

「何にございましょうか」

 雑巾で飾り棚を拭いていた琴が、律儀に身体ごと僕の方を向いた。琴は日和と正反対で感情をあまり表には出さないタイプだったが、責任感は人一倍大きい。言い方を選ばなければ、部下として重宝する人だった。巫覡の間でも、琴は使い勝手の良い人材として扱われている節がある。

 しかし、日和だけは違っていた。意外にも琴は、日和にとって一番の親友らしい。一方琴は日和に尊敬の念を抱いており、友情というよりは忠誠に近かったが、確かに日和の前ではよく笑った。

「最近、日和の様子がおかしない?」

 日和はあからさまに、僕を避けている。

 それだけならば僕が嫌われたのだと思うだけで済むのだが、どうもそう単純な話ではないらしい。

 庭を眺めながら溜め息をついたかと思えば、いきなり巫覡全員分の食事を作り出したりする。

 完全に、情緒不安定なのだ。

「結婚の儀が、目前になってしまいましたからね」

 声を潜めて、応えてくれた。

 晴義に近い人間に聞かれないための配慮だろう。

「でも、日和はこの結婚のこと納得しとるんやろう」

「以前は、仕方のないことだと諦め、晴義様との結婚を受け入れておりました」

「以前はって……今は違うんか」

 重い首を縦に振った。

「何があったんや。酷いことされたんか」

 怒りが無意識に口調を荒くさせ、琴を問い詰めてしまう。

 日和を傷つける者は、たとえ誰であっても許せない。

「桜の精様は日和様のために、お怒りになられるのですね」

「当たり前や。あんな娘苦しめるような奴がおって、冷静でいられるか」

 ふっと、琴が柔らかい笑顔になった。

 日和のいるところ以外で初めて見る表情だ。

「桜の精様は、日和様を愛してらっしゃるのですね」

「何でそうなんねん」

 まだ五月だというのに、暑い。

 顔が熱を持っている。

「大丈夫です。誰にも申しません。もちろん、日和様にも」

 好きになったとたんに相手の婚約を知ってしまった、報われない想い。

 消し去ろうと努力し続けたが、捨てられない想い。

 この想いは自身の中だけに留めておかなければならないのだと、戒めてきた。

 それが今、ここから出してと泣き叫んでいる。

「日和様を、愛してくださっているのですよね」

 限界だった。

 押さえ込めていた分だけ、想いは大きく成長していた。

「……愛しとるよ。初めて会うた時から」

「やはり、そうでしたか」

 琴は雑巾を手放すと、僕のすぐそばに来た。

 今まで以上に声を小さくする。

「お願いです。日和様を救って差し上げてください」

「どういう意味や」

 琴の眼差しは、真剣だった。

「桜の精様のお心を、日和様にお伝えしていただきたいのです」

 つまり、告白しろということか。

「待て待て。日和はもうすぐ結婚するんやで。僕がそないなことしても、迷惑なだけや」

「いいえ。今の日和様に必要なのは、あなたです。巫覡の価値観を持っていないあなただけが、唯一日和様をお救いできる可能性を持っていらっしゃるのですから」

 ようやく話が見えてきた。

 つまるところ琴は、日和の元気がないのを、「私自身ではなく、巫覡としての利用価値でしか、評価されていないのではないか」という思考の表れだととったらしい。そして、巫覡でない僕が日和を愛していると告白することで、その思考を断ち切ろうとしている。

 もしもこの報われない想いが、どんな形であろうと日和の役に立つのなら。

「わかった」

 僕は、琴の考えに乗った。


 次の日、久しぶりに日和の時間が空いた。

 日和が朝いきなり僕の部屋に押しかけてきて、その貴重な自由時間を、丸々僕に当ててくれると宣言した。そこには友情しかないとわかっていても、純粋に嬉しかった。

 何故か日和は朝から不自然なほどはしゃいでいて、僕を避けるようなこともない。

 出会った日と同じ、ご神木を正面から見られる位置の縁側に二人で腰掛ける。

「一日自由なんて、珍しいやん」

「本当は今日も仕事があったのだけれど、琴が日和様は最近働きすぎだーって掛け合ってくれたらしくてね。お休みいただいちゃった」

 琴に仕組まれたことだったらしい。

 せっかく琴が苦労して作ってくれた機会を、無駄にするわけにはいかない。

「あんな僕、日和に大事な話があんねん」

 癖なのか、また足をぶらつかせていた日和が、動きを止めた。

「嫌な話なら聞きたくない」

 つま先を見つめる瞳は、今にも泣き出しそうだ。

 何が日和をそこまで不安にさせているのかがわからない。

「どう受け取るかは日和次第やからなぁ。嫌な話って、例えばどんなん?」

「もう消えるからばいばい、とか」

 即答だった。

 なぁ、君は僕がいなくなるんじゃないかと不安になって、泣きそうになっているん?

 もし本当にそうだとしたら……………ごめん。

 不謹慎だけれど、すごく嬉しい。

「僕は消えんよ。日和の前からいなくなるなんて、考えたこともなかったわ」

「本当に!絶対、ずっと一緒にいてくれる?」

 僕を見つめる二つの瞳を、輝かせたのは僕。

 その可愛い顔を笑顔にさせたのは僕。

 ほらまた。

 閉じ込めている想いが、泣いている。

「僕は自分が何者かもわからんから、消えるのかどうかは自分も知らんけど……少なくとも、僕の意思で消えるゆうことはありえへん」

「ありがとう」

 え………。

 気づいたときには、日和は僕の胸の中にいた。

 しがみついた背中は細かく震えている。―――泣いている。

 突然のことで、どうしていいのかわからない。

 恐る恐る、日和の頭を撫でた。

「ごめんなさい。実は私、あなたと話すの今日で最後にしようと決めていたの」

「……何で」

 僕の服を握る小さな手に、力がこもる。

「私は、晴義さんの妻にならなくちゃいけないから。もう誰も、好きになっちゃいけないから」

 その小さな手が握ったのは、きっと僕の心だ。

 想いが、日和が欲しいと駄々をこねる。

「でも、無理だよ。あなたのことが、大好きになっていた。あなたは、初めて巫覡の力抜きで、私を大切にしてくれたから。この時間を、あなたを、手放したくなんてないよ」

「僕も、」

 言ってはいけない。

 状況が変わった。

 日和の様子がおかしかった本当の原因がわかった。

 今の日和に、これは逆効果だ。

 しかし、もう静止することは不可能だった。

 一度解かれてしまった自戒は、もう戻らない。

「日和と話せなくなるのは辛い。日和が、好きやから」

「えっ」

 腕の中で、日和が僕を濡れた目で見上げた。

「初めて会うた時から、ずっと日和が好きやった。日和が好きになってくれたより前から」

「それは違うよ」

 微笑んだ拍子に、涙の雫が一粒こぼれた。

「だって、あなたが目を覚ます前から惹かれていたもの。本当に、桜の精が具現化したと信じられるほどに、綺麗だったから。……ここまで好きになったのは、もう少し後だけれど」

 親指で、涙を消してやる。

 人間の姿をしていてよかった、と思った。だが、どうせならもう少し身長が低くあって欲しかった。

 だって、かなり屈まなければならないから。

 日和と口づけをするためには。

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