第12話

 また、だ。

「紀斗。数学のここの問題がわからないのだけれど、教えてもらえないかしら」

「あー、指数関数な」

 そしてまた初生は、C組に向けていた体を回れ右して、A組に帰ってきてしまうのだ。

「なんか最近さあ。松原さん、五木君にべったりじゃない?」

 樹理が廊下のほうを指差して、呆れた声を出した。

「さばさばした子って思ってたけど、違うみたいだね」

 困ったように眉根を寄せる智佳。

「五木君、はつに告白したんだよね?」

「う、うん………」

 初叶のおかげでようやく返事が決まったが、あれからというもの常に縁子が紀斗のそばにいて、話しかけられなくなってしまった。

「あ、松原さんが戻ってきた」

 百世の視線を追うと、確かに縁子がいた。

「もう、うちは我慢できない」

 言うなり、樹理は縁子のほうへ駆けていってしまった。

「待って」

 初生たちは樹理の後を追い、結局四人で縁子に迫る態になってしまった。

「松原さん。何で昼休みの度に五木君にくっついてるわけ」

 単刀直入すぎる樹理に、心底迷惑そうな顔をする縁子。

「あなたに何の関係があるの」

「関係あるよ。五木君は初生が好きで、告白までしたんだから」

「ちょ、ちょっと」

 初生はあまりその話を広められたくはないので、手で制する。

 勢い込んでいた樹理と百世は、それで冷静さを少し取り戻して顔を見合わせた。

「へぇ、それで。あなたたち付き合っているわけ」

 長身の縁子から近距離で見据えられ、思わずしり込みしてしまう。

「いや、まだ返事はしてないんだけど、」

「ならいいじゃない。結局のところ、あなたは関係ない。ただの幼馴染ってだけなんだから」

 金槌で頭を叩かれたようだった。

 そうなのだ。確かに縁子が誰を好きでも関係ないし、たとえ相手が紀斗であろうと、幼馴染という立場の初生が口出しする権利は、ない。

「関係ないなんてそんな、」

「いいよ」

 樹理を止める。

「はつ?」

「松原さんの言う通りだよ。私たちには関係ない。それにほら、『人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえ』って言うじゃない」

 ちゃんと笑えているだろうか。引きつってはいないだろうか。

「でもそれを言うなら、先にはつと五木くんの恋路を邪魔してきたのは松原さんなんだよ」

 必死になって訴える友達たち。

 ありがとう。でも。

「私がはっきりしなかったのがいけないんだよ。かずとは幼稚園からずっと一緒だったから、油断したなぁ」

「幼稚園?」

 縁子に聞き返され、どこに引っかかったのだろうかと不思議に思いながらも頷く。

「あなたのお母さんが亡くなられたのはいつ?」

「えっと……」

 考えてみて、初生は自分が母の命日すら知らないことに気づいた。

 それだけではない。

 母がどんな顔で、どんな性格だったかすらわからない。

 焦りを隠し、ひとつだけ確かなことを答えにする。

「幼稚園の頃には、既にいなかったけど」

「じゃあ、親戚か誰かに育てられたの?」

 何故そんなことを聞くのだろう。

「ううん。お父さんに男手ひとつで」

「あなたのお父さん、二時くらいまでにあがれるようなお仕事なの?」

 返す言葉を思いつけなかった。

「男手ひとつなら普通、幼稚園じゃなくて保育園なんじゃないかしら」

 縁子に指摘されて、矛盾に初めて気づいた。

 ちゃんと考えてみると、おかしいところは他にもたくさんある。

 母のこともそうだ。家に仏壇はあるが、写真を見たことは一度もない。毎月通帳には父の給料が入っているが、最後に父と顔を合わせたのがいつなのか思い出せない。毎日欠かさず二人分の夕食を作るが、それを食べてくれたことはない。残った父の分の夕飯は、全て次の日の初生の朝食になっていた。仕事が忙しくて残業が続いているのだと思い込んでいた。しかし、休みなく三六五日働いているなんておかしすぎる。

「あなたも、決められた運命の中を流されているのね」

 呟かれた言葉は、切なく揺らめいていた。


     ✻        ✻        ✻ 


「紀斗、パス!」

 声に向かって、ボールを蹴る。以前なら、相手に繋がるはずだった。

 しかし。急に視界に入ってきた雄聖に、パスが味方に届く前に奪われてしまう。雄聖はそのままゴール前にあがっていく。どんなに足をはやく動かしているつもりでも、ついていけない。綺麗にまわされるパスに、踊らされるばかりだ。

「どうしちゃったんだろうな、五木先輩」

 密かに増えていた紀斗ファンの一年生たちが、首を傾げる。

「最近、調子悪いよな」

「もう一週間くらい、堀先輩に負けっぱなしじゃん」

 足を怪我してしまい、見学しながらサッカーボールを磨いていた二年生部員が顔を上げた。

 後輩に向かって、小指を立てる。

「彼女、できたっぽい」

「マジですか」

 にやりと笑って頷く。

「五木先輩、カッコイイもんなぁ」

「えー。でもそのせいで弱くなったんだったら、幻滅するよ」

「確かにな」

 はぁ、と揃って溜め息をついてしまった後輩を尻目に、二年生部員は再びボールを拭き始めた。

 その日の結果は、二対零。

 結局紀斗は一度も、シュートを決めることができなかった。

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