第11話
一人で帰るのには慣れていた。断じて紀斗と帰れないのが寂しいわけではない。
ただ、少しイライラしているのは事実だ。
原因はわからない。でも無性にイライラする。
「かずの馬鹿、ドジ、間抜け、おたんこのなす太郎!」
「随分とご立腹みたいやなぁ」
「ぅわ!」
恥ずかしい。人通りが少ないのをいいことに、つい叫んでしまったが、まさか誰かに聞かれてしまうなんて。
建物の影から現れたのは、二十代後半くらいの男だった。
肌は雪のように真っ白で、髪は黄色に近い薄い茶色だ。笑っていると、こちらが見えていないのではないかと思うほどに目が細くなる。
それはどこか狐を連想させるような顔立ちだった。
「ほんまに、はつなちゃんは元気な子やな」
「え、私のこと知っているんですか?」
慌てて記憶の引き出しをひっくり返したが、関西弁を話す知り合いなんていないはずだ。
「よう知っとるよ。まだちっこかったけどな。最後に会うたのは、五歳位の時やろか。年中さんやったもんな。覚えてへんのも無理ないわ」
必死に記憶を漁りなおす。
―――「お兄ちゃんのお名前、なぁに?」
「僕?んー、僕な、自分の名前好きくないねん」
「そうなの?」
「せやから、はつなちゃんが好きな風に呼んだらええ」
「じゃあ、はつなが新しいお名前つけてあげる!」
「そりゃ嬉しいな。どんな名前なん?」
「えっとねぇ………うん、決めた!お兄ちゃんのお名前はね、」
「初叶……なの?」
「お。思い出してくれたんやな」
半信半疑な聞き方になってしまったのは、記憶が曖昧だったからではない。むしろ逆だ。はっきりと思い出したからこそ気づけた違和感。
記憶の中の初叶と今目の前にいる男は、全く同じだった。
それはつまり―――歳をとっていないということ。
仮に初叶の言ったように、最後に会ったのが五歳の時だとすると、十年以上の月日が経っていることになる。
普通十年もすれば、少しは変わるものではないか?
「どうしたん、難しい顔しはって」
線で書いたような細い目が尋ねる。
「あなたは一体、何者ですか」
ぴくっと、初叶の眉が動いた。
「……ほんま、台詞までそっくりや」
小さな呟きは強風にさらわれて、初生に届く前に消えた。直ぐに、別の言葉を発する。
「嫌やわぁ。やっと再会できたんよ、楽しい話をせな」
「楽しい話?」
初生が怪訝な顔をするのも気にせず、笑顔を崩さない初叶。
「そうや。紀斗くんとは進展したん?」
「かずを知っているの?」
いきなり紀斗の名を出され、動揺が隠せない。
「知っとるもなにも。僕の名前つけてくれた時にもゆうてたやん」
「……何て」
幼い自分が、記憶の中で無邪気に笑っている。
「初生の『はつ』と、紀斗の『と』で『はつと』やて」
蘇るかつての想い。
私はいつだって、紀斗と一緒にいたくて、紀斗が一番で、
「はつなちゃんたちは、僕の名前で繋がっとるからな。一緒にいられんわけがない」
そうだ。
答えはずっと前から知っていた。
どうして忘れていたのだろう。それはきっと、当たり前になり過ぎていたから。
願わなくては不安になった幼い頃のほうがずっと、自分の気持ちに正直だった。
私は何よりも誰よりも―――紀斗が大好きなのだ。
✻ ✻ ✻
初雪が降った。この地域は雪があまり降らない。だからこそ生徒たちは、はしゃいでいる。
自分の身に迫り来る危険なんて、知る余地もなく。
白いダッフルコートのポッケットが光っていることに気づき、携帯を取り出す。
メールではなく、電話だった。相手を確認してから出る。
「もしもし」
『もしもし。
「知ってるわよ。画面にちゃんと出るもの。『吉田』って」
『だからこそ、だよ。昔みたいに修平って呼べよ。縁子』
聞きなれた声が、面白そうに言う。
泣き虫だった幼い頃を消し去ろうとするかのように、修平は最近いきなり男らしくなった。でも残念ながらそれは、縁子には通用しない。縁子にとってはそんな姿も可愛いだけで、つい、いじめたくなってしまう。
「馬鹿。用がないなら切るけど」
『うぁ、タンマ。伝言だよ、晴臣様から』
たった一言で修平から余裕が消えた。
ここまで縁子の思考を裏切らない反応をしてくれると、こそばゆくなる。
縁子は、自分の一番の理解者は修平だと思っていた。―――そんなことを本人が知ると調子に乗ることが容易に想像できるので、誰にも話したことはないが。
「晴臣様?」
『まぁ縁子なら伝えなくてもわかってるんだろうけど。「ついに封印が解けた。警戒せよ」だとさ』
“天津甕星”の目覚め。それだけは見逃さないようにと気をつけていたつもりだったが、案の定それを感じることはできなかったらしい。しかし、私に既に力がほとんど残されていないことは、まだ知られるわけにはいかないのだ。
「わざわざ言われなくても、知っているに決まっているでしょう。でも、何で晴臣様はいつものように直接私に語り掛けないの」
『最近縁子の心が揺れてて、繋がれないみたい。天才巫覡の名折れだな』
この話題は出すべきではなかった。失態。
「そう言うあんたも、巫覡の真似事なんてやめなさい。巻き込まれるわよ、災いに」
ため息混じりにそう言うと、笑い声が返ってきた。
「何よ」
『いや。心配してくれるなんて、やっぱり縁子は優しいなってね』
「は?私はただ、」
せっかく修平のために巫覡になったのに、修平が巻き込まれていては元も子も無いじゃない。
そう言おうとして、止まってしまった。
それを口に出してしまえば、この先修平を酷く傷つけることになる。
修平のために巫覡になったと縁子が言葉にしてしまえば、縁子が巫覡として受ける傷が全て修平のものになってしまう。
小さい頃、不注意で庭に咲いたチューリップを折ってしまっただけで大泣きしたような修平に、そんな重荷を背負わせたくはない。
第一、巫覡としての重荷を背負わせないために、縁子が巫覡になったのだから。
『俺は縁子の代わりだ。だから……』
修平は縁子の言葉を待ってはいなかった。その間合いさえも、縁子の求めていることそのものだった。
「だから?」
『辛くなったら、いつでも言えよ』
「何それ、どういう、」
『ツーツーツーツー……』
小さな機械は、相手が会話を離脱したことを告げていた。それをポケットにしまい、再び歩き出す。
私の巫覡としての力が落ちている原因なら、ちゃんとわかっていた。私は、危険なことをしている。それもわかっている。わかっているけれど―――。
どうしても、紀斗を守りたいから。
初めて、泣いている私を励ましてくれた人。
それまで私の唯一の支えは、修平だった。でも、修平は一度も泣いている私に話しかけたりはしなかった。いや、私がそれをできないようにしていたのだ。
弱さを誰にも見せたくなかった私は、力の気配がするとすぐに涙の跡を消していた。巫覡ばかりに囲まれて育ったので、それで全員に弱さを見せなくて済んでいた。
誰一人として、私が毎日泣いていたことなんて知らない。巫覡であることを苦痛に感じているとわかっていたのは、修平だけだろう。修平は人の心にやけに敏感で、察しがよかった。
ただ見守っていてくれる。
その距離感が心地よく、安心できた。
でも、初めてもらった励ましは、それ以上に嬉しかった。
たとえ自分がどうなろうと、守りたいと思えるほどに。
空を見上げると、もう雪はやんでいた。
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