第10話
学生鞄を肩にかけて、下駄箱に向かう。
肩を叩かれる感覚がして振り返ると、そこにいたのは。
「かず!」
告白の返事の件について考え事をしていた初生は、素っ頓狂な声をあげてしまった。
「何をそんなに驚いてんだ」
長身を折り曲げて視線を合わせてくる。
「別に、何でもないから」
「あっそ」
初生が歩き出すと、紀斗もついてきた。
「かず、どこに向かっているの」
「グラウンド。部活に決まってるだろ。一緒に帰れないのが寂しいのか」
「はぁ!?そんなわけないでしょう」
「どうだか」
告白してきたのは紀斗のはずなのに、この余裕ぶりは一体……。真剣に悩んでいる自分が馬鹿らしくなってくる。
「ちょっといい?」
突然声をかけられ、二人そろって声の方向を見る。そこにいたのは、縁子だった。
隣で紀斗が「この人誰?」と目で問いかけてきたので、紹介することにした。
「えっと、私と一年から同じクラスの松原縁子さん。で、こっちは私の……幼馴染の五木紀斗」
一瞬言いよどんでしまったのは、告白されていることが頭をチラついたからである。そっと紀斗を窺うと、目が合ってしまった。紀斗は別に「幼馴染」に引っかかっている様子はないが、初生は一人勝手に気まずくなって縁子に逃げた。
「松原さん、どうしたの」
「ごめんなさい。用があるのは水無さんじゃなくて、五木君の方なの」
初生は縁子に軽く腕を掴まれた。
その瞬間、全身の力が抜けていくような奇妙な感覚に襲われ、ふらついて廊下の壁に手をついて体を支えた。
「おい、大丈夫か」
「あ、だいじょ、」
「大丈夫よ。ありがとう」
紀斗が話しかけていたのは、初生ではなく、縁子だった。
「ちょっと貧血起こしちゃったみたい」
「保健室行くか。俺、ついてくけど」
「ありがとう。そうしてくれると助かる」
紀斗は縁子を支えながら、思い出したように初生の方を見た。
「松原さんのこと保健室に連れてくから。じゃあな」
待って、とは言えなかった。第一、縁子は本当に青い顔をしていて具合が悪そうで、優しい紀斗ならばこうするのが当たり前だ。でも、その当たり前が何故か無性に悲しい。私だって、よろけたのに。私だって―――。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
✻ ✻ ✻
顔色もさることながら、体の震えも尋常でなかった。
「やっぱり、病院に行ったほうがいいんじゃないか」
養護の先生が何度も縁子を説得しようと試みたが、肝心の縁子が病院行きを断固拒否したのである。
先生から職員会議が終わるまで縁子を診ていてくれと頼まれたことに加え、あまりにも具合が悪そうだったので、紀斗はサッカー部副部長である雄聖に練習に遅れる旨を連絡し、保健室に残ることにしたのだった。
「病院に行っても、治らないわ」
ベッドに横たわり天井を見つめたまま、縁子は淡々と言った。
「何でそう言い切れる」
「だって、病気じゃないもの」
布団を口の上まで引き上げて、慣れてるし、と小さく呟く。
「原因がわかっているなら、対処法はないのか」
「あるわよ。でもこれを恐れていたら、何も始まらないから」
紀斗は、縁子の笑った顔を初めて見た。柔らかな、暖かい笑顔。……いや、この顔は前にどこかで見た気が。
「あのさ、俺たちって前にも話したことあったっけ?」
「えぇ。一年生の時に屋上で、一度だけね」
和斗は眉を寄せて、考え込む。
「入学したての頃よ。まだ髪染めてなかったし、あの頃と今とじゃ私、外見が随分変わってるから」
それを聞き、先入観を取り払ってもう一度記憶を洗い直した。
―――あの時の女の子か。
四月。校庭にはまだ桜が咲いていた。
校内をまだ詳しく知らず、本格的な部活加入は誰もしていなかった一年生たちは、教室から出てお弁当を食べるという考えが浮かばなかった。だから、昼休み開始直後に校内をうろうろしているような者は他にいなかったのである。
紀斗は、そこに目をつけた。この機会に、特別教室の位置なども覚えてしまおうと踏んでいた。
初生を誘おうかとも迷ったが、教室を覗くと新しくできたのであろう友達と楽しそうに会話している姿があり、声をかけなかった。
一人であちこち歩き回る。
屋上に自由に上がれることに気づいたときは、胸が高鳴った。小学校も中学校も、鍵がなくては立ち入れない構造になっており、てっきり高校も同じだと思い込んでいたからだ。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、屋上へと続くドアを勢いよくあける。強風に目を細めながら外に出ると、想像していたよりも大きい空間が広がっていた。
「っく、ひっく……」
ふいに、どこからか風に乗って聞こえてきたすすり泣き。
声のする方へ行ってみると、一人の女子生徒がコンクリートにぺたりと座り込んで顔を覆っていた。
「あの。どうしたんですか」
放っておけず声をかけると、彼女は驚いて顔を上げた。驚きすぎたのか涙は止まっていたが、体は思い出したように小さなしゃっくりをこぼした。
長く伸ばした黒髪は無造作にウエーブがかかっていたが、そのはね具合から天然仕様であることが窺える。可愛いよりは美人と言う方がしっくりくるタイプである。
胸につけられたバッジの色で、一年生であることがわかった。
「こっちに来ないでよ」
顔を隠すように、背を向けてしまう。腕の動きで、無理やり涙の跡を消そうとしているのがわかる。
「別に泣き顔見るくらい、大したことないじゃん」
「何よ。高校生にもなった女が、一人で泣いてるなんてみっともないって、思ってるくせに」
声はまだ震えをこらえきれてはいなかった。
「そんなこと全く思ってない。こんなこと言うのは失礼だけど、お前人を見縊り過ぎだよ」
「あんた、誰に向かってそんな口利い……ごめんなさい。あなたには関係のない価値観よね」
感情の振れ幅が大きいらしい。勢い勇んでいたと思ったら、急に萎れた。
「俺でよかったら相談とかのるけど。誰かに話すと気持ちも整理されるし」
隣にしゃがみこんで言うと、彼女は目を落ちそうなほどに大きく見開いた。
「誰があなたみたいな他人に……」
言葉は相変わらずな上からだが、態度が拒絶を示さなくなっているのを感じた。
きっと、この少女は長い間待っていた。
寄り添ってくれる“他人”を。異なった価値観を持っている人を。
「嫌なら無理にとは言わないけど」
素直になれないようなので、紀斗からもう一押ししてみる。
彼女は勢いよく首を振った。―――横に。
一度決断してしまうと、重石がとれたらしい。気が変わらないうちにと思ってか、少女は一気に話した。
「私、本当は自分の意思で生きたいの。でも、私の事情がちょっと特殊でね。この高校への入学も、周りが決めたことなの。今まではずっと、それが当たり前だと思っていたわ。仕様がないことなのだと諦めてもいた。でも、このまま一生そうやって周りに未来を決められていくんだって考えたら、嫌になって」
考えていたよりスケールが大きく、戸惑った。
しかし、伝えたいことはある。
「確かに、諦めなくちゃいけない場面もあると思う。でもそれって大小は様々だけど、誰でもあることだ。全部が思い描いたようにはならない。それでも、ほんの少しでも、自分で選べることは必ずある。そういう部分からちょっとずつ変えていけばいいんじゃないか」
彼女はゆっくりと瞬きをして、そして綺麗に笑った。
本当に、綺麗だった。
「同情されたり、上辺だけの気遣いをされたりしたことは何度もあるけれど、そんな風に言ってくれたのは、あなたが初めてよ」
心から嬉しそうにしてくれる。
泣いていた彼女を見つけたのが自分で良かったと思った。
「ねぇ、あなたの名前、聞いてもいいかしら」
「俺は五木紀斗。一年B組だよ」
「えっ……!」
手を口に当て、視線を泳がす。
「どうした?」
そっと伸ばした手を音がするほど勢いよく撥ね退けられた。
「あ……えっと、その……………ごめんなさい」
そのまま、校内に駆け出していってしまう。
突然のことに呆然としていた紀斗は、行き場を失った手をようやく引っ込めると、自身も立ち上がった。
三階へと続く階段の下からは、生徒たちの楽しげな会話が響いてきた。しかし、電気を付け忘れた無人の踊り場だけが、取り残されたように闇の中に沈んでいたのだった。
何故、今まで気づかなかったのだろう。
目の前で横たわる松原縁子が、あの春に一人で泣いていた少女だったことに。
確かに縁子は約二年の間に大きく変わっていた。
髪は黒から赤茶になり、カールは天然ではなくパーマできちんと整えられているし、薄くではあるが化粧も嗜んでいる。
「思い出してくれたの?」
ベッドの中から、見上げられる。
「何であの時、いきなり逃げたんだ」
「あなたが紀斗だったからよ」
視線を逸らし、ぶっきらぼうに答える。
「意味がわからない。俺が紀斗であることとお前が逃げたことに、何の関係があるんだ」
「……とにかく、今の私があなたに言えることはひとつだけだわ」
苦しそうに顔を歪めながらも、起き上がる。
「私、あの時からずっと、あなたのことが好きなの」
真直ぐに大きな瞳に見つめられ、時が止まった。
屋上で自分だけに向けられたあの綺麗な笑顔が、今決意に満ちた少女に重なる。
それでも、紀斗にとって好きな人は後にも先にも一人だけだった。
「ごめん。俺、好きな人いるから」
「水無さんでしょう。あなたは騙されている」
即座に初生の名前が出てきたことに面食らいつつも、後半部が引っかかった。
「騙されているって、どういうことだ」
「そのままの意味よ。あなたが水無さんを好きな気持ちは、本物じゃない。そう仕向けられたのだから。……あなたは私と同じ。決められた運命の中をただ流されているだけ」
意味深長な発言に戸惑っている合間に、縁子はさらに続けた。
「選べる部分からちょっとずつ変えていけばいい。あなたが教えてくれたことよ。だから私は選んだの。何よりも、紀斗を」
縁子はとても真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
「だからって話が突飛過ぎる。大体、初生が騙してるなんて、根拠も無しに言うな」
「私の言い方に語弊があったわ。あなたを騙しているのが水無さんだというのは正確な表現ではない。強いて言うなら水無さんの、“願い”に騙されている、といったところかしら」
ふう、とひとつ大きく息を吐き出すと、一気に掛け布団を跳ね除けた。
「部活遅刻させちゃってごめんなさい。もう大丈夫よ」
覚束無い足取りで扉の方へ向かう後姿は、とても大丈夫なようには見えなかった。それでも、縁子の話から受けた衝撃が大きすぎて、引き止める気にはなれなかった。
もしも縁子が初生に騙されているのだと言ったのなら、聞く耳を持たなかっただろう。しかし、縁子は“願い”に騙されていると言ったのだ。
三ヶ月前に確かにこの身に起こった、信じられないような出来事。初生も記憶があるから、夢や幻ではないはずだ。
その事件の原因は、初生と紀斗の“願い”だった。
だからこそ、“願い”に騙されているという一見意味不明な言葉も、妙な現実味をもって聞こえてしまったのである。
「紀斗。これだけは覚えておいて」
廊下に片足を踏み出した状態で、縁子は紀斗に背を向けたまま言った。
「あまり水無さんと関わらない方がいいわ」
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