弐 許されざる罪

第9話

「はぁ……」

 古典の授業中にため息が出たのは、決して授業が嫌だったのではなく。

 今日はもう二月五日。

 バレンタインまであと十日を切り、一般女子のテンションは上がり始めているのである。去年までなら初生も少しは浮かれていた。でも、今年は。


 昼休み。

「―――で、はつは誰にチョコあげるの?」

 樹理が興味津々といった様子で尋ねてくる。

「樹理、百世、智佳、あと……」

「そうじゃなくって。本命の話だよ」

 指折数え始めた初生を百世が止めた。初生は思わずぎくりとしてしまう。

「別に、好きな人いないし」

「あ、目そらした!初生は嘘つけないんだから、正直に言っちゃいなさい。絶対秘密にするから」

 三人に詰め寄られ、諦めてお弁当箱を机に置いた。

「好きな人がいないのは本当だけど……告られたというか、何というか」

「マジで!?」

「誰に!?」

 百世と樹理が立ち上がらんばかりの勢いで反応する。驚き後ずさると、横から智佳が止めに入った。

「二人とも。初生が困っているでしょう」

 智佳を見ていると初生は、お母さんがいたらこんな風だったのかなと感じる。

「もう三ヶ月以上経っちゃってるんだけど、答え出せてなくて。去年までは毎年何の気なしに義理チョコあげてたんだけど、今年もそれで良いのかな、と」

「良くない良くない!三ヶ月保留のままだぁ?相手、どんだけ奥手なんだし」

 信じられない、と椅子にのけぞる樹理。やはり自分は非常識な女なのだろうかと、不安が大きくなる。

 しかし、わからないものはわからないのだ。

 この好きが、幼馴染としての好きか、そうでないか。

「相手は……かず、五木紀斗なんだけど、」

「五木君!?」

 三人が同時に叫んだ。

「五木君って、C組のあの五木君?」

「そう、だけど」

「早く返事しないと、もったいないよ。あんなにいい人、他にいないって」

 やはり、これ以上待たせるのはよくない。

「わかった。バレンタインまでに答え出すよ」

「応援してるよ」


     ✻        ✻        ✻


 この高校の建物は、一年生から三年生までの教室がある教室棟、理科室や家庭科室等がある特別棟、職員室や会議室のある管理棟、そして外部活のための部室がある部室棟で構成されている。

 部室棟以外の建物はそれぞれが渡り廊下で繋がっており、最上階である三階ではベランダのように一旦外に出る構造になっている。

 だから、雨の日の移動教室は悲惨だ。わざわざ傘を持つのも面倒なので、大概の生徒は教科書が濡れないように庇いながら走って渡りきるのだが、うっかり滑ってしまう生徒の数が意外と多い。教科書の文字は滲み最悪の場合解読不能となり、制服も大胆に汚れてしまう。学校側は先日の職員会議で、来年度までにプールサイドに敷くような転倒防止マットを設置することを決定したらしい。これで少しは犠牲者が減るだろう。

 そのような問題だらけの渡り廊下だが、晴れていて暖かい日には休憩場所としても賑わう憩いの場になる。昼休みに一番人が集まっているのは、港が一望できる教室棟と管理棟を繋ぐ渡り廊下である。

 しかしたった一人、紀斗だけはいつも特別棟と管理棟間の渡り廊下で弁当を食べている。決して友達がいないのではなく、むしろ多い。それなのに昼休みをいつも一人で過ごしているのは、一人でグラウンドを眺めるのが好きだからだ。紀斗は塀の上に弁当箱を広げ、通行人に背を向けて立ち食いする。

 私には絶好のチャンスだった。

 毎日、私は昼休みにその渡り廊下を通る。紀斗はいつも振り向かなかった。

 脇を通り過ぎる瞬間、さりげなく紀斗の身体に触れる。目が翳む。毎回、気づかれてしまわないかと緊張する。幸いまだ一度も、私を認識されてはいないようだ。

 そしてまた私はぼやける視界の中で感覚だけを頼りに、特別棟の中に入っていく。

 完全に紀斗の死角に入ってから、ようやく紀斗を振り返る。彼はグラウンドを見つめたままだった。ほっと胸を撫で下ろす。

 細かく震えている紀斗に振れた右手を、左手で握り締める。

「もう少しだけ、私に力を」

 紀斗を守れる強さをください。

 震えが治まってきた。もう視界も歪んではいない。

 教室に戻ると、初生がいつものメンバーに囲まれていた。突然、ポニーテールで眼鏡の人と、二つ縛りの人が身を乗り出して叫んだ。

「マジで!?」

「誰に!?」

 全く能天気な女たちだ。

 彼女たちは、目の前にいる友達の正体を知ったらどうするのだろう。

 初生の友情ごっこを崩壊させてやりたい衝動に駆られる。それを抑えて、自分の席につく。私の席は初生の隣なので、会話がよりはっきりと聞こえるようになってしまった。うるさいからヘッドホンでもしようと鞄に手を伸ばした。

「相手は……かず、五木紀斗だけど、」

「五木君!?」

 不意打ちで紀斗の名が出て、思わず手を引っ込める。

「五木君って、C組のあの五木君?」

「そう、だけど」

 小さな初生が、ますます小さくなっている。

「早く返事しないと、もったいないよ。あんなにいい人、他にいないって」

 返事とは、何だ。

「わかった。バレンタインまでに答え出すよ」

「応援してるよ」

「友達の彼氏が五木くんって、鼻が高いよね」

「いや、百世の自慢にはならないから」

 彼氏……だと。

 散々もてあそんでおいて、さらに彼女の座に着こうとしているのか。

 会話から推測するに、告白したのは紀斗の方だ。もうそこまで、洗脳されていたのか。紀斗は、初生に告白させられた。告白するように仕向けられたのだ。

 その時。

 耳元でささやく声を感じた。慌てて見回すが、やはり教室には沢山の生徒がいる。

 急いで屋上に向かう。この時間なら、まだ誰もいないはずだ。

 階段を上りきり扉を開くと、やはり想像した通り人影はなかった。あるのは、

「以前は声をかけずとも気配のみで我を察知できておったのに。最近、御主の力が急激に弱くなっておる」

 人でないものの影のみ。

「すみません。晴(はる)臣(おみ)様」

 やはり、力が衰えていることを隠すのは難しかったか。

「我はかまわぬ。しかし、問題は御主だ。それだけの力をいきなり失うとは……何か良からぬことをしているのではあるまいな?」

「晴臣様より言いつけられましたように、水無初生を監視し、五木紀斗と引き離すようにと、それだけに注力して行動しております」

「まあ良い。それと、御主なら気づけておろうが、最近“天津甕星”の力が大幅に増大しておる。……件の奴の封印もそろそろ切れるかもしれん。そちらも警戒しておけ」

「承知いたしました」

 もうほとんど感じることのできなくなった晴臣の気配。なんとかそれが周囲から消えたことを確認し、緊張を解く。

 “天津甕星”の力の増大。そんな重大なことに気づけなかった。晴臣に忠告されて初めて知ったのだ。想像以上に、私の巫覡としての力は落ちている。このわずかな力でどこまでやれるか………。

 もう、時間がない。いつまでもこのままではいられないのだ。行動に移らなければ。

 紀斗のために。

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