第5話

「んっ……」

 ぼやける風景。

 目をこすり、寝ぼけている頭を稼動させる。ようやく結ばれた焦点。最初に認識したのは机に並んだ教科書だった。初生の記憶ではきちんと布団で寝たはずなのだが、どうやら学習机で眠ってしまったらしい……と、納得しかけてはたと思った。

 ―――私の机の色って、もっと明るくなかった?

 今目の前にあるのは、黒に近い色だ。首をめぐらし横を見ると、紺色の掛け布団がのったベッドがあった。

 まずはひとつ息をついてみる。

 そして、落ち着く。

 もう一回落ち着く。

 ―――で、この理解不能な状況を焦ってみる。

「何で、私がかずの部屋にいるわけ!?」

 そこで初生はもうひとつ余計なことに気づいてしまう。

「……なんか声低くない?」

 まるで紀斗の声のように。

 まさかと思い、立ち上がってみる。目線の高さが明らかにいつもより上にあって、良く知った紀斗の部屋がいつもと違って見える。

 何度も羨んだ長い足は今や初生の一部となり、手は骨ばった男のものだった。顔に手を当てると、予想より高い鼻がある。鏡を探してみるが、高二男児の部屋にドレッサーなんてあるわけもなく。

 淡い希望を持って「私が知らない間に、かずの家に遊びに来ちゃってました」説を信じ、初生の愛用しているバックを探してみるも、そんなものはここに存在しない。出かけるときはどんな近場でも必ず持ち歩いているあれがない限り、初生が自らここに来た可能性はほぼゼロになる。

「かずになっちゃった………」

 つぶやいた声は、やはり紀斗のもので。

『リリリリリリリリリリリリリリリリ……』

「うわぁあああ!」

 いきなり鳴り出した青い携帯電話。もちろん紀斗のものだ。

 常にバイブのため大音量の設定に慣れていない初生には、心臓に悪かった。

「これは、出て良いのかな……?」

 一応体は紀斗だし。紀斗は今いない……というより、私が紀斗なのだし。第一、声が紀斗だし。……などと、ひとしきり自分自身への言い訳を終えた初生は、未だ着信音を響かせている青い物体をそっと手に取った。画面をタップすると真っ先に目に飛び込んできた文字。

『水無 初生』

「私から電話!」

 もやもやと渦巻いていた罪悪感は一気に消え、勢いよく通話ボタンを押した。

『もしもし』

 聞こえてきたのは、ホームビデオでよく耳にする声。

 すなわち、初生の声。

「も、もしもし」

 初生の口から発せられるのは、もうその声ではない。

 急にそのことが悲しくなって、一生このままだったらどうしようかという不安が大きくなって、怖くなって。

『……泣いてるのか』

 携帯電話の中から、初生の声が訪ねる。

「泣いてないもん」

『嘘ばっか』

 声が入れ替わっているから、不思議な気分だ。

『大丈夫だ、俺がついてる』

 一足先に状況を飲み込んでいるらしい紀斗がなだめてくれる。

 今はその強さと優しさが、嬉しい。嬉しいけれど

「私の声で『俺』とか言わないでよ」

『それはこっちの台詞だ。『私』なんて言うな。それから、そのトーンで泣くな。気持ち悪い』

「き、気持ち悪いって……私だって好きでこんな状態になったわけじゃないのに」

 自然に笑いがこみ上げてきた。そんな場合でないのはわかっているのに。

『……元気、出たみたいだな』

「うん。………ありがと」

『おう』

 そういえば、小さい頃から困ったときはいつも紀斗に助けられていたな、と思い出した。

『で、お前の状況は』

 一転して紀斗が真剣な雰囲気になったのを感じ、初生も気持ちを切り替えた。

「目が覚めたらかずの部屋にいて。体もかずになってて。どうしよう、ってなってたら電話がきた。かずは?」

『俺も大体一緒だ。こうなった原因で、何か思い当たることはないか』

「思い当たることなんて、」

 無いよ、と言おうとして止まった。

 ――――私が、かずになりたい。

 眠りに落ちる直前、確かにそう深く望んでしまったのだ。でも、あれはただの気の迷いというか何というか。

『どうかしたか』

 突然黙りこんでしまった初生を心配してくれたのだろう。紀斗に呼びかけられた。

「かずは何か無いの、思い当たること」

『…………あることにはある、けど』

 紀斗にしてはめずらしく歯切れが悪い。

「思うんだけどね、隠し事してたら元に戻れないと思うんだ。だから私もかずも、全部、正直に話そ?」

『……そうだな』

 渋々といった様子の紀斗。口は重そうだ。

「じゃあ、言いだしっぺの私からね。私、急に眠くなって寝ちゃったんだけど、その直前に考え事していたの」

『俺も同じだ。考え事していて、いきなり眠気が』

 どうやら、これが正解のようだ。

「私の予想では、そのとき考えていたことが原因じゃないかと思うんだ」

『同意見』

「私が考えてたのはね、『私がかずになりたい』ってこと」

『………』

 あぁ、馬鹿だと思われていたらどうしよう。いや、それならまだいい。気持ち悪いとか、こんな奴嫌いだと思われてたら、

『……俺が思ったのは』

 全神経を耳に集中させる。答えを聞きたくないはずなのに、でも知りたくて。

『俺が初生になりたい』

 息が止まるかと思った。これは夢なんじゃないかとも思った。

 身体が入れ替わっているという状況は夢であってくれたら嬉しいが、でもやっぱり、紀斗の気持ちが現実であって欲しくて。

『どうしたら元に戻れると思う』

 紀斗に問われ、若干考えて答える。

「願い続ければ、願いは必ず叶う。でもそれが複数の人の願いならば、そして強い願いならば尚更に、叶う。……今回は私とかずが同時に願ってしまったから、こんな馬鹿げた願いが叶ってしまったのだと思う」

 言ってしまってから、あれ?と思う。

“願い続ければ叶う。”なんて、誰から聞いたのだっけ。誰かの曲の歌詞で見たとか、そんなことじゃなく、何かもっと重要な――――。

『その原理でいくと、今度は同時に元に戻りたいって願えば良いんだな』

 紀斗の発する初生の声で、ハッと我に返る。

「多分そうだと思う」

『じゃ、願え』

 目を閉じて、一生懸命願う。


 元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。


『……戻らないな』

「……そうだね」

 何がいけないのだろう。

 こんなにも一生懸命願っているのに。

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