第4話
今日二年A組の担任は、出張で午後から学校にいなかった。普通毎日行われる帰りのホームルームは、今日は普通でないため行われない。七時限目の授業を終えると、A組の生徒たちは廊下に飛び出していった。皆一秒でも部活時間が増えるのが嬉しいようだ。
初生は帰宅部なので、特に急ぐ気もない。急いで家に帰ったところで、どうせ出迎えるのは見慣れた真っ暗な廊下。
いつも帰りが遅く休みもない父とは、顔を合わせることもない。一人暮らしと大差なかった。
「初生、また明日ね」
百世が手を振っている。慌てて笑顔で手を振り返した。
「無理しすぎないでね」
初生のすぐ横から声がして、驚く。
声の主は智佳だった。平安の女性のような綺麗な黒髪が夕日で輝いている。
「少し、元気がないように見えたから。気のせいだったらごめんね」
智佳は、四人の中で一番気が利き、周りの態度に敏感だった。ポジティブで常に元気な百世や、相手が誰であっても自分の信じることは曲げない樹理とは全く異なるタイプの良さである。
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だよ」
「良かった。じゃあ、私は部活に行くね」
茶道部である智佳は、先生に弟子入りしているらしい。熱心にやっていることは、初生にもわかる。
「頑張ってね」
教室には、初生を含めて五人の生徒しか残っていなかった。
鞄の中を整理してから、初生も教室を出る。
靴を履き昇降口を出ると、校門に見知った人影がいるのを発見した。
「かず、何でここにいるの?ひとり?部活は?」
思わず駆け寄り、質問攻めにしてしまう。対する紀斗は初生を一瞥しただけで、下に置かれていた鞄を拾い上げて歩き出してしまった。
「もしかして、私のこと待っていてくれた……とか?」
期待半分、冗談半分な初生の質問。
「もしかしなくても、俺がお前以外の誰を待つと」
予想外の答えに、テンションが一気に跳ね上がった。
「すっごい優しいね!」
「別に」
紀斗はふっと顔を背けてしまう。その態度が初生には若干気に食わなかったが、待っていてくれた優しさに免じて許すことにした。
長い足を思う存分使う紀斗の一歩は、初生にとって致命的な大きさである。「少しはチビを労われ!」と何度も心の中で叫ぶ初生であったが、今のところそれが紀斗に伝わっている様子は残念ながら全くない。
そんな気遣いのかけらも無い紀斗であるが、運動神経抜群、いつも優しく、いつもクール、一八六センチという長身、そして多くの女子から言わせるに「イケメン」ということもあり、(初生にはイケメンとやらの基準がよくわからなかったが)かなりモテる、らしい。
だから、紀斗と仲が良いことを皆に羨ましがられる。初生と紀斗は幼稚園からの付き合いで、家が近所の幼馴染である。
「あ、私の質問、答えてくれてない。部活行かないの?」
思い出して、前を行く背中に尋ねてみる。
「サッカー部の顧問、お前のクラスの担任だろ。出張でいないんだ。で、副顧問もそろって出張」
「あー、それで練習許可おりなかったってわけか」
「そういうこと」
気づけばもう駅に着いていて、そして運よく電車が来た。溢れかえらんばかりの混雑具合の中、なんとか箱に体を押し込む。聞きなれた音と共に扉が閉まると、どこからかきついタバコの臭いがした。
「良かったね。待たなくてすんで」
「俺は・・生と・・・・もっ・・・一緒・・・た・・な」
「え?」
満員電車がちょうど切り替え地点の上を通過したようで、紀斗の声が初生に届くことはなかった。
✻ ✻ ✻
鮭を二匹焼いて、そのうち一匹を白米と共に胃袋におさめる。もう一匹はラップをかけて冷蔵庫へ。
台所の引き出しからいつものメモを取り出し、食卓に置いておく。
『お父さんへ
夕食は冷蔵庫の中にあるよ。温めて食べてね。
おやすみなさい。
初生より』
何度も使いまわしているため、紙はよれている。メモ用紙の絵柄は、何年も前に放送を終了したアニメのキャラクターだった。
「そろそろ、書き直した方がいいのかな」
初生に応える声は存在しない。
孤独感を振り払うために大きく伸びをして、食器を流しに運ぶ。洗い物は朝にまとめてやることにしているので、夜の分は水につけておく。
先日遣り残していた場所を掃除していた結果、結局丸一日を家事に費やしてしまった。
「はぁ。疲れた。」
初生は自室に戻ると、一気に体が重くなった気がした。そんな自分が、年寄りのように思えてきて。
―――縁子は良い意味で大人っぽいけれど、私は悪い意味で老けているのではないだろうか。
浮かんでしまった取り留めもない空想が、思いのほか初生自身を傷つけていた。
別に、家事をするのが嫌なわけではない。むしろ落ち着くし、好きなくらいだ。しかし、歳相応の、高校生の今しかできないような楽しみをもっと味わえても良いのではないだろうか。
例えばそれは友達と放課後に遊ぶことであったり、部活であったり……恋愛であったり………?
そのとき、初生の頭に現れた人物がいた。
紀斗。
幼いときから、ずっと一緒だった紀斗。
初生の目に輝いて映ったのは、いつだって自分ではなく紀斗だった。
母親がいない子、と特別視され友達がなかなかできず、できても遊ぶ時間はほとんど取れないためどこか浮いてしまって、完全に輪の中に居続けることは難しかった。
……その隣で常にクラスの中心にいたのは紀斗だった。
小学生のときも、中学生のときも、卒業アルバムの部活コーナーに初生が写っていることはなかった。高校でも、この先初生が部活にはいることはないだろう。
……サッカー部の中心で部員に囲まれて写っていたのは紀斗だった。
初生は紀斗と一緒に帰ろうとして、何度も紀斗に告白しようと待ち構えている女の子に遭遇した。紀斗に渡して欲しいと、手紙を託されたこともあった。連絡先を教えて欲しいと懇願されたこともあった。
……まぁ、紀斗は誰とも付き合う気はないようだけれど。
――――私が、かずになりたい。
急に眠気が襲ってきて、耐え切れずにベッドに横たわった。
まだ明日の予習をしていないし、お風呂にだって入っていない。でも、ほんの少しだけ仮眠をとるくらい。
緑茶色の毛布を肩まで引っ張りあげて目を閉じる。
睡魔は驚くほどの力強さをもって、初生を眠りへと誘った。
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