第3話
もう、私の命がそう長くもたないということはわかっていた。
力を使わないようにすれば死が遠のくが、それでは意味がない。私が今まで命を削って守ろうとしたものの未来を、少しでも長く繋ぎとめたい。
真っ白な部屋で、ひとり目を閉じる。四月に入ってから病状が悪化してしまったため、個室になった。―――寂しい。
でもきっともう直ぐ、愛する桜の精が来てくれるはずだ。
「入ってもよろしいでしょうか」
扉がノックされた。
待ち人ではない。聞き覚えのない、男の声である。
「どうぞ」
音を立てずに、扉がスライドされる。
中に入ってきたのは、私と同年代くらいの無表情な男だった。
「どこかでお会いしたことは、ありましたか?」
雰囲気が、よく知った人にどことなく似ていた。しかし、私のよく知る彼がここに来ることは絶対にない。
「いいえ。しかし、兄が大変お世話になったと聞いております。そうですよね、
感情の一切が取り除かれたかのように、言葉にも抑揚がない。
「兄……あなたは、
「婿入りして、今は松原の姓を名乗っております」
招き入れなければ良かった。そう後悔しても、もう遅い。
数年前に膝を悪くしてから杖がなくては歩けない。逃げるのは不可能そうだ。
「ずっと探しておりました。しかし、あなたの防壁と錯乱術は強固で、位置情報が曲げられていた。苦労しましたよ」
やはり、死が間近な私の力では、もう巫覡たちを騙すのは無理だったか。
脳裏に大切な人々の顔が次々に浮かんできた。
ごめんなさい。
私はあなたたちを守り通せなかった。あま
「現在、巫覡たちが“
「待って。まさか、全員捕らえたりはしないですよね。これは“天津甕星”と巫覡との問題でしょう。あの子たちは何も知らないわ」
「私たちが恐れているのは、あなたが言うところの桜の精とやらではありません。“天津甕星”の力です。その力を受け継いでいる可能性が少しでもあるのなら、その時点で全員が巫覡の敵です」
過去の私の選択が今、沢山の愛するものたちに災いとなって降りかかろうとしている。
悲しみを繰り返させないこと。
それが私の償いだった。
それなのに。
また、過ちが繰り返されようとしている。
「巫覡の力では“天津甕星”の力に対抗し得ない。わかっていますよね」
身体はあまり動かせないが、せめて目で相手を刺す。
しかし、晴海は全く動じなかった。
「巫覡は“天津甕星”を倒せない。その考え方は、疾の昔に覆されました」
嫌な汗が、どっと出る。
“天津甕星”の唯一にして最大の弱点は、私しか知らないはずだった。
「どういうこと」
声が震える。
「
その才能を武器に辣腕を振るっていた、晴臣の姿を鮮明に思い出す。彼が既にそのたった一つの方法を見つけていると考えるほうが自然だった。私だけが知っていると思い込むなど、なんと身の程知らずで傲慢だったのだろう。
確かに、先に罪を犯したのは私たち。しかしこれでは、ただの弔い合戦だ。
そんなことのために、大切な人を消されたくなどない。
「そうはさせない」
歯を食いしばって、起き上がった。
「まだ動けるのですか。三十年以上も防壁を張り続けて、生きているだけでも尊敬に値するというのに」
尊敬など、されていない。冷ややかな目が、私を見下ろしている。
弱り果てた今の私に、何ができるだろう。
「晴臣に言われた通り、ここに来て正解でした。兄は日和さんを高く買っていますよ。その力を一族のために使っていただけなかったのが残念ですね」
もう私には、ほとんど力がない。
ならば、できることは唯一つ。
「何をしているのですか」
私はあなたたちを守ってあげられない。
だからあなたたちは、自分で自分の身を守らなくてはいけなくなった。それは同時に危険を伴うけれど、きっと今のあなたたちならできる。
私はそう、信じているから。
「手が、体内に……」
私のお腹の中に封じ込めていた力。
これは本来、娘と孫の力になるはずだったもの。
「この凄まじい“天津甕星”の気配は……一体」
窓を開け、外に抛る。
「止めなさい!」
晴海に後ろから殴られる。
霞む視界の中を、私の封じていたものが、一直線に本来の持ち主の元へ飛んでいった。
どうか、間に合って。
「雑談などしている場合ではありませんでしたね。僕が迂闊でした」
私を床に引きずり落とし、晴海が医療機器に触れた。機械の操作音が真っ白な病室に響く。
「病院はいいですね。手を汚さずに始末できる。まるで“天津甕星”のようだと思いませんか?」
「……天津甕星は、そんなこと…………しない」
身体が重くなっていくように感じる。
始めから、私が助かろうなどとは考えていなかった。
大切な人たちが幸せであれば、それで――十二分。
温もりを失った日和を抱き上げ、ベッドに寝かせる。
ちらりと掛け時計を見上げると、六時十五分を指していた。
「あなたが味方であって欲しかったですよ。本当に」
抑揚と感情を一切欠いた言葉と共に、晴海はそっと日和に布団を掛けた。
それと時を同じくして、桜の精のもとに大勢の巫覡が攻め入った。
戦いを繰り広げる彼らは、かつて皆に愛され敬われた巫女の命が、覡の手によって奪われたことなど、知る由もなかった。
そして桜の精もまた、最愛の人が既にこの世に存在しないと知る術はなく。
皮肉にもそれは、彼と彼女が出会ったのと同じ、桜の綺麗な季節のことだった。
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