壱 目覚める時

第1話

 帰りのホームルームが終わると、水無みずなし初生はつなはクラス一の速さで筆箱を鞄に突っ込んだ。

 すぐさま席を立ち、教室を出ようとすると

「初生。カラオケ行かない?」

 いつも一緒にお弁当を食べる仲の、百世ももよに呼び止められた。その隣には、同じく友達の樹理きり智佳ちかもいる。

 彼女たちは高校二年で初めて初生と同じクラスになったので、知り合ってからまだ半年ほどである。それにもかかわらず四人は不思議と気が合い、公私共に認める仲の良さだ。

「せっかくの短縮日課だし、遊ぼうよ」

「はつ、帰宅部だし、塾も行ってないよね。なのに、いつもすぐ帰っちゃうんだもん。たまにはカラオケもいいじゃん」

 二つ結いした髪を揺らしながら、樹理が手を握ってくる。

「んー……ちょっと今日は用事が」

 真っ直ぐに初生を見つめてくる瞳を直視することができず、あらぬ方向を見てしまう。

 しかし、こんな曖昧な返事であっさりと納得してくれるはずもなく。

「初生はいつもそう。用事って何?私たちに言えないこと?」

 百世は、責めるというより悲しいといった表情で問うてくる。友達にこんな顔をさせたいわけがない。しかし……。

「水無さんは、友達に心配掛けたくないのでしょう」

 突然、背後から声がし、驚いて振り返る。

「……松原さん」

 松原まつばら縁子ゆかこ。数少ない一年、二年ともに初生と同じクラスの人で、他人と群れない一匹狼。長身のモデルスタイル、毎日綺麗に巻かれたロングヘア、大人っぽいメイク。制服を着ていなければ高校生には見えない外見も、彼女が孤独な日常を送っている要因であると、初生は考えている。

「自分で言えないなら、私が言ってあげる。水無さんね、母親がいないの。だから、家事全部やらなきゃならないってわけ。あなたたちみたいに呑気に遊んでいる暇なんてないのよ」

 沈黙。そして。

「ごめんね、気づかなくて」

「私たち、酷いこと言って……」

 百世たちの反応に戸惑っている合間に、縁子は教室を出て行ってしまう。

「別に気にしてないよ。というか、私が言わなかったのが悪いんだし。今まで黙っていて、ごめん」

 手を合わせて頭を下げる。

「何ではつが謝るのさ。うちらに協力できることがあったら、何でも言ってね?」

「……うん!ありがとう」

 単純に、嬉しかった。

 一年生のときは四月の段階で母親がいないことを明かした結果、変に気遣われて上手く友達を作れずに終わってしまった。だから二年生になったら親友と呼べるような子が欲しいと、ずっと願っていたのだ。

 “願い続ければ叶う。”

 恐らく誰かの曲の歌詞で見たのであろう臭い言葉も、今は素直に信じられた。

「カラオケには行けないけど、昼休みとかは遊んで」

「もちろん。家事、頑張って」

「また明日ねー」

 教室を出る。廊下には、テニスラケットやギターを背負った生徒たちの姿がある。きっと、これから部活に行くのだろう。家庭の事情により帰宅部の初生は、ほんの少しだけ彼らを羨ましく思った。

 校門を出て、運動系部活のトレーニングコースと化している急な坂を下る一人で駅までの道のりを二十分かけて、とてとて歩く。一般の高校生ならば十五分もかからずに着ける距離なのだが、運動が苦手であり、身長一四八センチという素晴らしく小柄な初生ではそんなに早く到達できない。

 幸いなことに乗換えが無いため、電車に乗ってしまえば後は楽だ。四十分間揺られていればいい。混んでいることが多くめったに座れないが、初生は立ったまま寝られる派なので座われないのを気にしたことは一度も無い。

 やはり今日も座ることのできないまま、初生の家の最寄り駅に到着した。ホームで大きく伸びをしてから階段を上る。数段先に、大きな荷物を左手に持ち右手で手すりを握り締め、足を引きずるようにしている男の子がいた。

「あの、荷物お持ちしましょうか」

 男の子は驚いて、大きな瞳で初生を見つめた。彼の着ているジャージの胸には『浜西中』の文字が書かれている。

「足引きずっていましたよね。怪我しているんですか」

 初生を見つめていたのは最初だけで、すぐに何故か顔を赤らめて下を向いてしまった。そんな男の子から荷物を自然に取り上げる。

「あ、えっと、剣道の練習で足首を捻ってしまって」

 男の子の速さに合わせて、ゆっくりと一段一段進んでいく。

「剣道、かっこいいですね」

 目が上括弧のように細くなり、両の笑窪が綺麗にできる初生の笑顔。

「あれ?熱があるんじゃないですか。顔が耳まで真っ赤ですよ」

 俯いてしまう男の子の顔を覗き込もうとする。

 男の子は心なしか速度を上げた。

「大丈夫です」

 改札にたどり着いた。男の子に手を差し出され、荷物を返す。

「ありがとうございました」

「いえ。私のお節介で、困っていそうな人を見るとほっとけないんです」

「優しい、ですね」

 初生は激しく首を横に振った。

「私なんか全然。役に立てることも少ないし。私の幼馴染の方がもっと優しいですよ」

「その幼馴染って、男ですか」

「そうですけど、何か?」

 小首を傾げると、男の子は溜め息をついた。

「いいえ。別になんでもないんです。忘れてください。本当にありがとうございました」

 改札を抜けて、ゆっくりと足を庇いながらバスロータリーの方へ行ってしまう。初生は徒歩なので別方向だ。

 今日は早帰りで時間が沢山あるので、普段は週末に行っている駅前のスーパーに寄ることにした。父と初生の二人暮らしの上、父は夜中に帰ってくるようであまり家で食事を取らないため、必要な食材はほぼ初生の分だけである。

 財布に入れておいた買出しメモに従って、かごに商品を次々入れていく。会計を済ませレジ袋を持って坂を下る。十分ほど歩けば初生が十六年間住んできた家だ。さらに三分ほど進めば、同学年の優しい幼馴染の家である。

「ただいま」

 鍵を開けて扉を開くと、真っ暗な廊下が出迎えた。

 荷物を玄関に置き、電気をつけてから靴を脱ぐ。床の冷たさが足裏から体温を奪っていく。レジ袋を抱え台所に入ると、冷蔵庫に買ったばかりの食材を仕舞った。

「さて、時間もあることですし大掃除でもしますか」

 一人で呟いてから、掃除機を取りに台所を出た。

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