願い。

桜田 優鈴

序幕

第0話

「はつと、これ何て読むの?」

 ずっと隣で読むこともできない新聞を覗き込んでいた孫娘が、『清水叶稀』という歌手の名前を指差した。

「し・みず・と・まれ、やと思うよ」

 ゆっくりと指で字をなぞりながら答えるが、はつとは正直読み方に自信が無かった。何しろ最近の名前は難しいものが多く、信じられないような読み方をするものがざらにある。

「これ、『と』って読むの。」

 『叶』をくるっと丸で囲むしぐさをする。

「多分な。他の読み方は、『かなう』。夢とか願いが『かなう』って言うときに使う字やで」

「よし、決めたっ!」

 言うなりいきなり立ち上がった。はつとは畳で胡坐をかいているが、それでようやく孫と目線の高さが同じになる。

「はつとの『と』は、叶うっていう字の『叶』にする」

 宣言してから、背伸びをして棚の上にあるペン立てから油性ペンを取ってきた。ちょこちょことした動きが、本当に愛らしい。

「新聞の端のところなら、好きに書いてええよ」

 メモ用紙が見つからないらしいので、読みかけの新聞を差し出してやる。小さな手が、覚えたての漢字を一生懸命書く。

『初叶』

「これが、はつとの名前だからね」

「何でこの漢字にしたん」

 よく漢字の読み方を尋ねてくる好奇心旺盛な孫は、『と』と読める漢字を他にも知っている。例えば、人、十、図、土、斗などだ。

「あのね、前にテレビで言ってたよ。名前はその人の分身みたいなものだから、大切なんだって。だからね、漢字もいい字ないかなってずっと思ってたの。願いが『叶』うって、とってもいい事だよね」

 満足げに笑う。彼女の頭を撫でながら、はつと――初叶は小さく呟く。

「願いが叶うのはいい事、か」

 ゴーンゴーンゴーンゴーンゴーンゴーン………

 掛け時計が午後の六時を知らせた。

「もうそないな時間か。また明日来るな」

 新聞を畳んで食卓の上に置き、立ち上がる。そのまま真っ直ぐ玄関には向かわずに、台所を覗いた。

「ほな、そろそろ帰るな」

 中にいる日香織ひかりに、そう言っていつものように片手を挙げた。結婚生活五年目にして、未だに料理が苦手な日香織。そのくせ彼女の四歳になったばかりの一人娘の好物が天ぷらなので、しばしば音をあげる油の前で半泣きになっている。

 現在まさにその状況で、衣をまとった海老の尻尾を親指と人差し指の二本で摘みながら油を見つめている。日香織は初叶に返事をする余裕など全くないらしい。

「そないな危なっかしい料理の仕方で、怪我してへんのがほんまに不思議やわ」

 初叶の目は、笑っているせいで線のように細くなっている。

「せっかく気合入れたとこなのに、お父さんが話しかけるからまた怖くなっちゃったじゃないの」

 海老を左右に振りながら、顔を初叶に向ける。ぷくう、と頬を膨らませてみせた日香織の顔は、とても大人には見えない。但し、日香織は童顔であることにかなりのコンプレックスを持っているので、身内では暗黙のうちに童顔という単語が禁句になっている。

「許したって」

 にこにこしたまま謝る。

「いいよ。でも、本当に自分でも不思議だよ。未だに一度も怪我していないのは」

 開いてみせた日香織の指には、切り傷一つ無かった。

「怪我しませんようにっていつも願ってるからかな、なーんてね。運も実力の内よ」

 先ほどの孫とそっくりな表情で胸を張ってみせる日香織を前に、初叶は眉根を寄せ首を傾げて、困ったような、悲しそうな、複雑な表情をした。

「お母さん、夜ご飯まだー?」

 ひょっこり出てきたのは、一人で居間にいたはずの初叶の孫で日香織の最愛の娘だ。

「僕が長居してもうたせいやな。また明日も来てええ?」

 孫の頭を優しく撫でながら、初叶は娘の顔色を窺う。

「良いに決まってるでしょう。お母さんの様子はどう」

 半年ほど前から、病気で入院している。

「あんまり良くないんよ。またお見舞いに来て欲しいねんけど」

 初叶は昔からずっと愛妻家である。一人娘の日香織が家を出てからは、老いていく妻を精一杯支えていた。

「わかった。旦那も誘って、今度の週末にでも行くね」

「おおきに。またな」

「ばいばぁい」

 足元から聞こえた可愛い声に、大人二人は口元を綻ばせる。シャランシャラン。玄関の方から音が聞こえた。扉についているベルが帰宅者を迎えたのだ。

「旦那が帰ってきたみたいね」

 足音が真っ直ぐに台所に向かっている。

「お父さんだぁ」

「ただいま」

 はしゃぐ娘の髪を手櫛で梳いてやりながら、初叶にお辞儀をする。

「はつとさん、今日も晩御飯は召し上がっていかれないのですか」

「待ってる人がおるからねぇ」

「今週末に三人で病院に伺いましょう」

 日香織の提案に、首肯で賛成の意を示した。

 娘のいる前では、初叶のことを皆「お父さん」や「お爺ちゃん」ではなく「初叶」と呼ぶ。その呼び名が娘に一番馴染んでいるので、それに合わせている。誰も初叶の真名を教える必要性を感じていないためにそのままになっているというのもあるし、まだ四歳の子供には、初叶の事情を理解することはできないだろうという考えによるものでもある。

 初叶は外見なら、三十歳と言っても疑われない姿をしているから。そのような若い容姿を持つ初叶をお爺ちゃんと呼べ、というのも無理がある。だから、彼女は初叶の真名も、彼が自分の祖父であるということも知らないまま今に至っているのである。

 シャランシャラン。

 新たな来訪者を知らせるベルが鳴った。

「誰か客が来る予定があったのか」

「そんな予定は無いよ。インターホンも鳴らさずに入ってくるなんて……」

 駆け出そうとする娘を、日香織が止める。

「僕が見てくるよ。丁度帰るとこやしね」

 初叶が台所を出て行く。

「俺も行ってみる。いざというとき男手は多い方が良いからな」

 二人きりになった台所で日香織はしゃがみ、娘を膝の上で抱いた。

 状況をわかっていない娘だけは、楽しそうに笑っている。

「あかん!日香織、はよう逃げ!!」

 突然響いた今までに聞いたことの無い、初叶の大声。その言葉の意味を日香織が理解した時には、既に台所に見知らぬ男達が押し入っていた。

 電灯を反射し鈍く光る男の手元。―――刃物を持っている。しゃがんだ体勢にある日香織からは、包丁に手が届かない。武器になりそうなものを見つけられないまま、男達が突進してきた。

 この子だけは守らなくては。

「うああああ!」

 咄嗟に目に付いた金属の取手を掴み、男達に投げつける。

「ぎゃぐっ」

 日香織は大きく肩で息をつく。

 掴んだものは、天ぷらを揚げるために熱していた油の入った鍋だったらしい。

 男達の皮膚は赤く爛れていた。

 油で茶色く汚れた服は、皆揃いの袴だ。現代において、ほとんど見ることもない格好。

「貴様、よくもやってくれおったな」

 人を切るための刃が振りかざされる。日香織は男達に背を向け、娘を抱きかかえた。

「っは……」

 鈍い痛みは、日香織の体内を抉る。

 不思議と死ぬことを怖いとは思わなかった。

 命は惜しくない。

 くれてやる。

 だから。

 唯一つの願い。


 ―――娘を生き延びさせて!


 全ての力を、この願いのためだけに。

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