第5話 広元の選択

 一驚している広元に少年は続ける。


「ぜひお願いします。叔父上にも会っていただいて」

「……」


 広元は少なからず戸惑った。


 城主の従子である少年は、善意で誘ってくれているのだろう。

 しかしながら、諸葛玄は一時太守の任を帯びたほどの高官。中央官吏には及ばずとも、それなりの身分階級者である。

 そのもとを、いくら現在が不遇の身とはいえ、面識もつてもない一介の旅書生が突然訪ねるなど、非礼に過ぎるのではないか。


 ……それに。

 身分や権力といった切口が絡んだとき、広元には反射的に生まれる懸念があった。


 ———— 知らぬ方をこう言っては悪いが……諸葛玄がどんな人物なのか、わからない。


 懸念というより、警戒。

 それは、動乱世ゆえにより持たされてしまう本音であった。


 四百年の歴史を誇り、永遠と思われたこの漢王朝も、いまや末期的な腐敗症状にちてしまっている。

 それゆえに始まったこの乱世。法や秩序の無視が横行するような世界では、人の持つ倫理道徳など、限りなく死に体と化してしまうものだ。


 無体な理不尽扱い、ときに命までも軽率極まりなく奪われる事態に、人はいつ何どき、巻き込まれぬとも限らなかった。

 そういう現実を、広元は若くありながら、おのが深部で知っていたのである。


 権力が強く臭うものからは、出来ればなるべく距離を取りたい。完全に関わらぬことは無理であるにしろ……。


「子玖どの、その……気持ちは嬉しいけれど、それは――」

「あ、叔父上へは大丈夫です。久々のお客人を、きっと喜びます」


 辞退を口にしかけている広元を気に留めず、少年はすでに喜色満面である。


「広元様は遊学中なのですよね。城にも確か、貴重な書物が結構あったと思います! ……そうだ、それに」


 迷いのない子どもの発想には歯止めがない。

 せっかく見つけたいい話し相手を離すまいとでも思っているのか、子玖は思いつく限りの引き留め項目を次々引っ張り出して、必死に近い懇望こんぼうの眼差しを広元に当ててきた。


「……」


 忖度そんたくを知らぬ少年のうるむような眼と、真正面からの勢いに押され、広元は返答に詰まってしまった。


 まだ幼い少年が、それなりの身分立場でもあるというのに、初めからかなり気を遣った言葉や態度でいるのにも気付いている。


 ———— たった今出会ったばかりで、こちらの素性も何も、得ていないだろうに。


 そんな自分に対し、ここまで懇願する理由は何だろう?

 単なる無邪気さからというにしては、やや違和も感じてしまう。


 ———— 普段よほど、孤独な思いでもしてるのか。


 広元は、初めに聴いたあの謡を思い返す。

 合わせてふと、無垢むくに見える少年の澄んだひとみ奥に隠れている、わずかなかげりが見えたような気がした。


「広元どの。ご迷惑でなければ、そうしてはいただけないだろうか」


 迷い顔の広元にそう願う言葉をかけたのは、趙雲。


「わたしは、諸葛様が本年この地に駐屯してからの仕えの身で、諸葛御一家のそれ以前のことは存じ上げないのだが。いっときだけでも、子玖どのの話相手をお願いできれば、かたじけなく存ずる」

「……」


 どことなくを感じる言い方にも、聞こえなくはない。

 ……


 さわ、と、これまでよりも冷感をともなう風が渡った。

 秋と冬、共のおもむきを持ち合わせる落ち着いた大気が、辺りの低い草を揺らせる。


 二人に答えぬまま、広元はおもむろに立ち上がった。


 不安があるのは本心だ。

 とはいえ広元自身、それほど帰着に急を要している旅ではないのも、また事実であった。


 ———— むしろ襄陽へ戻るには、まだ早い……か。


 穏和な気質の裏で、広元は人に語れぬある重い心情を抱えている。

 昨年、彼にも深い関わりがあって起きてしまったひとつの事件。ために起こした、今回の旅次。


 ———— 結果を、自分はまだ受容できていない……。


 両腰に手を当て、広元は空を見上げた。


 青空を白のはけで薄く掃いたような巻雲まきぐも(すじ雲)を背景に、ぽつんと黒の点……先ほどの声と同じ鳶がまだ名残惜しんでいるのだろうか。優雅な旋回軌跡を描いている。


「……」


 彼は目を閉じる。

 冷えて澄んだ初冬の空気を肺に目一杯入れ、ゆっくりとはき出した。


 諸葛の、西の城。


 もう一度だけ短く考え……そこで広元は、それ以上思考の深掘りを進めることを止めた。


 ———— 人の出会いなんて、大抵、意図せぬ偶然から始まる。


 神や仙人とは違うのだ。余分かも知れぬ寄り道もまた、己の人生の一部だろう。


 広元は二人に身を対し、深く拱手した。


「お招きに感謝致します。どうぞよろしく」


 彼は諸葛家の招きに、とりあえず応じてみることに決めた。



<次回〜 第6話 「西の城」>

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