第6話 西の城

「こ、広元先生は、これらを本当にそらんじているんですか?」


 西の城の庁堂内にある書庫の一角。

 部屋にある几案きあん(机)横に積み上がる書物束のひとつを解き開き、中を見た子玖しくの顔は、焦りを通り越して蒼ざめている。


暗誦あんしょうはきみにはまだ先かな。でも、いずれはやらないとね」


 この場の師として在る広元は、幼い新生徒に対し、温かさと厳しさを織り交ぜた笑みを作った。


 諸葛少年の誘いに応じた広元は、その翌日に約束通り登城した。二日前になる。

 広元はまず、城の当主である子玖の叔父、諸葛玄に謁見えっけんした。


「ほう。そなたは郡国学の学生か」


 広元の立場を知った諸葛玄は、そのときついでのように、思わぬことを言った。


「ならば、しばし子玖の教育師をしてもらえぬか」

「! は、あの……わたしが、でしょうか?」


 あきらかに面食らっている客人にも、諸葛玄は表情を変えない。


「これまで放浪ばかりで、子玖は歳相応の教育を受けておらんのだ」


 事情は広元にもわかる。しかし。


「おそれながら……自分はまだ若輩書生、人に指導出来るような身では」

「数日でもよい。この城には今、師らしい者がおらん」

「……」


 広元の言は半分以上、素通りされているようだ。

 威圧感までとは言わずとも、比較的大柄な体躯たいくである諸葛玄からの、なんとも断れぬ空気であった。


 加え、諸葛玄の側に立つ子玖が、例の懇願こんがん視線を浴びせてくる。


「……」


 無雑な小動物のようなその瞳には、広元、どうにも叶わない。


「は……い、では。わたしに充分なお役が務まるかどうかは、分かりませぬが」


 押しに負けて、承知させられてしまった。


 そういった経緯で、二人は今、城の役所内にある書庫に来ている。

 

「子玖、書舎しょしゃに通ったことはあるのかい?」


 難解書物類と格闘している子玖が息をついた合間に、広元が尋ねた。

 書舎とは、漢王朝が公に設置した初等教育機関である。


「はい、瑯琊ろうやにいた頃。でもほんの少しです。ぼくが八歳のとき父が亡くなって……その後すぐ瑯琊が戦場になって、まちを出てしまったので」

「! ……あ、そ、そう」


 質問が悪かったな。……広元の自省。

 諸葛氏の災難経緯を知れば、子玖の過去状況は想像出来ることであった。


「ここ着くまで……大変だったろうね」


 後漢は、教育制度を広く普及させた王朝である。

 治世ならば、子玖も世間並み以上の教育を受けられていたであろう。しかし乱世となれば、そうはいかなかったのだ。


 ———— まして流れ着いたような者が、ここで充分な学びを受けるのも、やっぱり厳しいか。


 再び懸命に学習に取り組む子玖を見守りながら、広元はこの地の状況についてを改めてなぞった。


 宛の属する荊州南陽郡は、中国で覇道を目指す者にとって最要衝地ようしょうちのひとつである。


 そのため近年でも多くの将が、この地を巡って激戦を繰り広げ続けてきている、まさに激動乱の地だ。

 わずか直近三年半余りの間だけでも、南陽郡の統治者はころころと変わっていた。


 頻繁ひんぱんな戦乱は、当然ながら、土地も住民も疲弊ひへいさせる。


 ———— この城も、相当きつい有り様だったな。


 一昨日の朝、西の城の城門を初めてくぐった広元は、庁堂方向に歩みながらすっかり気が沈んでしまった。

 堅城と称されている宛城に比して、その脇にある西の城は、お世辞にも立派とは言い難かったのだ。


 広元は推察する。

 『城』と名付けられてはいるが、ここは元々、正式な漢城ではなかったのではないか。


 ———— 地元の有力豪族が自衛のために建てた〈(軍事上の民間防砦)〉で、郡か県側が、後から城らしく手を加えたとか?


 襄陽からも近いにもかかわらず、聞いた事のない城名だったのは、そのせいではなかろうか。


 いずれにせよ、城はかなり古い建造物で、広元が気付いた範囲だけでも、城壁や建物は全体に痛みがすすんでいた。

 門、壁、楼、ありとあらゆる設備に、修復されず崩れたままの箇所が散見されるのが目に付く。


 諸葛玄が入るまで、果たしてどれほどの期間、打ち捨てられていた城なのだろう?


 ———— 諸葛氏は、袁術に続き劉表様からも、あまり厚遇されていないとみえる。


 袁術下に居場所がなくなった諸葛一家は、揚州から離れ、古い伝手つての劉表を頼ってこの荊州に流れて来た。

 だが劉表と袁術は今、対立関係にある。先日まで敵配下だった者を、旧知とはいえ優遇できない劉表の心情も、わからぬではない。


 形容するに西の城は、流民の諸葛軍に取り急ぎ割り当てられた、劉表軍のやぐらといったところか。

 ……


 子玖が、度々つかえながらも書を音読しはじめる。

 広元は、いくばくかのやり切れなさを抱えた眼差しで、それを静かに見守った。



<次回〜 第7話 「流浪の貴族」>

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