私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に白玉の龍が哭(な)く」〜戦乱世に舞い降りた、美(は)しき龍人の鎮魂歌

第9話 月笛の麗人

　———— 笛だ。こんな、ひとけのない場所で……？

　それは優美な、吹楽器の音（ね）。

　今宵の澄んだ夜空に輝く月を、誰かが野外で愛でてでもいるのだろうか。

　奇態さはあれど、しかし耳に届くその音色は、広元が今まで触れたことのない、流麗な深みに満ちた奏（そう）であった。

　密やかで、どこか妖艶（ようえん）さを含んでいるような……。

　———— そんなに遠くからじゃない。

　自身が夜間に迷子であるという状況もすっかり忘れ、広元は吸い寄せられるように、音が発せられている方へと歩みを向けた。

　聴力を頼りに進むにつれ、音は次第に明瞭になってくる。

　ひとつの大岩に当たり、その岩に沿った細路から広元は岩向こうを覗（のぞ）いた。

　そうしてすぐ先に見える、突き出た形の小丘の先端に広元が見留めたもの。

「……!!」

　そこには、皓々（こうこう）とした玉輪に浮かび上がる、ひとつの人の影（かたち）があった。

　皓き月光……その下で麗人が独り、横笛を奏でている。

　斜め後ろ手にいる広元の眼に映るすらりとした後ろ背のその者は、宮廷、もしくは京師（けいし）（都）の上層階級者を思わせるような、綺羅（きら）の衣を纏（まと）っていた。

　上に羽織られた透きとおる長い紗地（さじ）が、風に乗り、優雅な軌跡をひらめかせている。

　……女だ。

「……」

　円月の下、幻視かと疑うほど、あまりに神秘な像。

　広元は口を半開きにして惚（ほう）けたように、ただただ眼を瞬（しばだた）かせる。

　こちらが少しでも存在気配を立てたら、像はまたたく間にかき消えてしまうのではないか。

　自然そんな風に思え、彼は寸分も変えられぬ姿勢のまま、我知らず呼吸をさえ潜めた。

　自分の目に映っているものは、実体ある現人（あらひと）なのか……？

　———— ……美しい。

　影の持つ貌容に、広元は己の全集中力を絡めとられる。

　纏った錦繍（きんしゅう）（錦織物）以上の玉姿。今宵の皓月と糶（せ）るように輝く肌膚（きふ）。

　細筆でスッと描いたような柳眉（りゅうび）に、閉じられた眼を縁取る黒く長く濃い睫（まつげ）。

　漆黒の長い艶髪（つやがみ）が、しなやかに舞い踊る……。

　光源は月の光だけだというのに、どうしてそこまでくっきりと認識できるのか、広元にもわからない。

　ただそのときの彼は、思考する発想も発声も失い、全身を視覚にして、目の前の娟麗（けんれい）な光景に、ひたすら魅入ってしまった。

　これほど麗しい人が、世にいるとは……。

　夜陰、月輪、笛音、妍姿（けんし）。

　現世（うつしよ）から切り離された、まるで一枚の幻影のような画。

　広元の脳裡に、この国に古くから伝わる仙女の話が浮かんだ。

　———— 姮娥（じょうが）……。

　月の精……姮娥。

　女神・西王母（せいおうぼ）から夫が賜った不老不死薬を、欲心から盗み飲み、その罪により月へ追放された絶世の美女。

　その伝説から、『姮娥』は月の異名ともなっている。

　……

　どのくらいそうしていたのか、明確な認識はない。

　茫（ぼう）と眺めていた広元は、はたと気付く。

　———— ……影が。

　麗人の足下の地面には、月明かりに結ばれたその者の影が、後ろへと伸びていた。

　つまり眼前にある姿は、天女でも月の精でもなく〈人〉なのだ。

　いくぶん我に返った広元が、一歩足を踏み出そうとした瞬息である。

　忽如（こつじょ）湧いた一陣の突風が、鋭い音と共に広元の立つ場所を突き抜けた。

「あっ……！」

　咄嗟に広元は顔を伏せ、腕と袖（そで）で頭を覆った。

　疾風はしゅるしゅると高い音を立てながら、周囲の砂と草破片を巻き込み、空へと駆け上がっていく。……

　風騒は、ほんの二、三呼吸の間で静まった。

　風音の微かな余韻が、空気に溶けて消える。

　頭の草葉を払った彼は、顔を上げ、再び小丘の方に視線をやる……と。

「えっ!?」

　声をあげた。

　たった今まで居たはずの麗人が、消えていたのだ。

　弾かれたように岩陰から飛び出し、彼は辺りを小走りに探る。

　だかそこには、何の痕跡も残していない静寂（しじま）と、先ほどまでよりも青白さを帯びたように感じられる、透き通った月光が残されているばかりである。

「そんな……」

　何かのまやかしにでもあったのか……。

　茫然の面持ちでひとり佇（たたず）む。

　その彼を、先ほどより空高くなった月の冴え冴えとした清光が、静かに照らし続けていた。

＜次回〜　第10話　「無言の案内人」＞