第8話 幾望月(きぼうづき)
「長居をした上に夕食まで頂いてしまって。申し訳ない」
子玖の話をよく聞いているうちに、気付けば日暮れ刻になっていた。辺りは暮色に包まれている。
「あの、本当にお送りしなくてもいいんですか?」
帰路の見送りに邸門に立った子玖は、落ち着きなく両手を握ったり擦り合わせたりして、心配げだ。
「宿は城内にあって近くだから大丈夫だよ。馬も宿に預けてきたのだし」
広元はにこり会釈すると、
「じゃあ、明日また来るから」
そう言って子玖を安心させる。
子玖の心配は広元の帰路よりも、明日も広元が訪れるかどうかだろう。
結局教育役をしばらく続けることになった広元は、翌日も訪れることを約して、
立冬月の十月といってもまだ上旬、小春と称されるような、穏やかな日和もみられる時期である。
それでもここ南陽郡は、広大な荊州の中の最北に位置する郡。陽が傾けば空気は間違いなく、歳寒に向かう気配を肌に感じさせた。
冷感は、それだけで新鮮な印象を人に持たせる。
空気もことさら澄んでいるようにも思えて、広元は空を仰いだ。
間もなく日の入りとなる帰路の
「そういえば、今宵は
ほぼ満月と同じ円い
その輝きを浴び、心地よく張った冷気の中を歩みながら、広元は子玖が話してくれた、諸葛家のこれまでの過程を
曹操が二度に渡り行った、徐州大虐殺。
『曹操軍が通り去った土地からは、一切の動く生命が消えた』
とも形容され、天下中から
———— 加え、犠牲者の何十倍もの流浪難民が発生したと。
徐州からの難民は、揚州と並びここ荊州にも大量に流入してきている。
おかげで曹操は、徐州のみならず荊州においても、それこそ鬼畜として憎まれるようになっているのだ。
子玖の父、諸葛珪が横死したという泰山郡を襲った乱は、地理的に考えて、曹操軍の所業ではないと思われる。
しかし
———— 家族一緒が救いだったとしてもな……。
命辛々の脱出、死と隣り合わせの長い逃避旅、やっと安住と思った直後の、敗戦による再びの流浪。
そこそこ恵まれた貴族家に生まれた幼い子玖にとって、わずかな期間で味わわされた大人都合の一連は、どれほど過酷な経験だったろうか。
———— 子玖は一度も口にしないが……生死の惨状を、きっと目にしてきたろうに。
経験をことさら平穏に語った子玖。無理をしている自覚さえ、押し殺しているようにも取れる。
広元には、自分の過去と子玖とを重ねているところがあった。
だが諸葛家の状況に比すれば、自分は遥かにましな境遇だったろうと思うのだ。
———— 子玖に最初から何となく見えた影は、それか。
『子玖の話相手を』と願った趙雲の言葉も、今は広元なりに理解できる。
期せずにせよ自分と
それは、広元の純一な念いであった。
◇◇◇
陽は、いつの間にか西の果てに埋没していた。
考え事に囚われている広元は、地に付く自分の足先から月光が映し出す自身の影を眺めつつ、歩いている。
夜とはいえそれほど遅い時刻でもないのに、一帯が奇妙なほど静寂であることにも、彼は思い至っていない。
突然、バサバサッという大きな羽音がたった。どきりとして足を止める。
———— ……
鷺は冬の到来を告げる大型の渡り鳥。水場を好み、川の多いこの地域には多く生息している。
城内に川は流れていないと思われるが、近くに溜池でもあるのだろう。
羽音に目覚めさせられ、広元はそこで初めて周囲を見まわした。
———— ……あれ!?
きょろきょろと頭を振る。自分が宿への道とは違う風景の中にいることに、やっと気付いたのだ。
広元が立っているのは、人家のある街並みからは少し外れた、木立や周辺を見渡せる程度の低い丘陵がある一角であった。
少し離れた向こうに、低い城壁の影形が見える。
———— 弱った。どこまで来てしまった?
そんなに長距離を歩いたわけでもなし、目的地の宿とさほど離れていないとは思う。だとしても、何せ初めて来た場所で土地勘がない。
道を訊ねようにも、辺りに人影は見えなかった。
———— 夜禁時刻か。
日没後は夜間外出が禁じられている制度が施かれている。夜に出歩くのは犯罪者だと、第一想定されているからだ。
とはいえ、無法が横行し始めている昨今の地方都市においては、すでに現実的ではなくなっていた。
———— ここで大都市のような取り締まりは、してないと思うが。
楽観的に考えてみたものの、運悪く厳格な見回り役人に
やはり送って貰えば良かったか……そんな焦りを持ったときだ。
彼の耳に、柔らかく細い、何かの調べのような響きが、風に漂い聴こえてきた。
<次回〜 第9話 「月笛の麗人」>
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