第10話 無言の案内人
———— 幻覚か。……いや、笛の音もはっきりと聞こえたし。
あの後幸い役人にもかち合わず、無事に宿へと辿り着いた広元だったものの、結局ほとんど眠れずに夜が明けてしまった。
寝不足眼のまま訪れた西の城で、子玖の勉学指導を勤める広元の胸中を占めていたのは、昨夜体験した夢まがいの出来事である。
幻というにはあまりに鮮明。現実というには夢想的に過ぎる光景。
まったく
「……生。……先生。広元先生?」
「ん? ……あ」
囚われた思考にはまり過ぎ、子玖の声を認識したのは、呼ばれて何度目かだったらしい。
「ああ、すまない。どこまで話したかな」
「天子様が曹操に
授業を終えた広元は、子玖と共に諸葛邸の小さな
「い、いや別に。なんでもないよ」
広元は心中汗ばみつつ、
「うん、だから天子様は、曹操が今年遷都した
努めて平静な口調でのり切る。
裏事情など知るよしもない子玖は、師からの世情話題に対し、真剣に発問した。
「天子様を曹操が守っているということなら、では、曹操に敵対している者達は皆、逆賊なのですか?」
「……」
なかなか、きわどい問。
『皇帝』という称号を考案したのは、中国初の統一王朝を築いた秦の始皇帝だが、漢代では同意語として『天子』という呼称を使うことが多い。
天子とは天からの代理人であり、地上世界全てを従える、絶対的な地位にある存在だ。
その天子を、守護という名目で現在
〝 天子を
曹操側の理屈ではそうなるだろう。
子どもでも自然にとらえる道理であり、それこそが曹操の狙ったものなのだ。
……しかし。
「逆賊か。……どうかな」
答える広元、半ばは自身に問うている。
これまで多くの将が曹操と同じ形を試み、そして滅びてきた。目下は曹操がその立場にいるだけで、先々はわからない。
「仮に曹操が才華ある
曹操の実力は事実として否定できない。されど、己の個人的感情からあんな大虐殺を行うような
「まあ、事の真の正否は、全てが終わってみなければ、わからないものなのだけど」
自分を見る子玖の
「それらを最後まで見届けられる程、人の寿命は長くない。評価を下すのは、ずっと後世の人々だろう」
「……」
「だからといって、今世に生きているぼくらが、人生を嫌世した不毛精神でいるわけにもいかないからね」
「……はい」
子玖は頷いてみせたものの、正直、広元の云わんとしている事の全てが、充分には理解出来ていなかった。
ただそのときつと、子玖の胸裏を過ぎったものがある。
あのときは恐怖に追われ過ぎて、従兄の言は半分も入ってきていなかった。けれどその手がとても大きく、温かかったのは憶えている。
———— そうだ。広元先生は
子玖から見た諸葛瑾は、とにかく真面目を絵に描いたような人で、己にも厳しく、笑貌を見せることも滅多になかった。
それでも孝心
対しての広元はといえば、見方によってはやや頼りなさげにも見える温和さが目立つし、諸葛瑾のような、堅物でいつも気難しそうに見えた気質とは、かなりの差異があった。
それでも物事への広い視野や
……
小鳥が数羽、高い枝木から羽ばたいた。ゆるい風が樹々葉を揺らせる。
「や。もう
広元が見上げた陽は、だいぶ西寄りに傾いていた。諸葛家もそろそろ夕食どきだろう。
広元は城を訪れた折に、食事提供を受けられることになっている。それ自体はありがたい待遇なのだが、あまりゆるりとしていると、昨夜の二の舞になってしまう。
……もっとも道に迷うことは、さすがにもうなかろうが。
「あの……先生」
子玖がなにやら急に、目線を上下させる。
言い出しを迷っている風であったが、やがて思い切ったように、広元に額を向かわせた。
「その……宛におられる間だけでも、この邸にお泊まりくださいませんか? お客様として」
「!?」
またもやの想定外提案に、広元は目を
「子玖、それは……」
「気持ちは嬉しいけど、でもそれではまるで、
「ぼくの師としてって、叔父上はああ云いましたけど、そんなことは気になさらないでください。こうして世の中の事教えて頂けるだけでも、ぼくはその、有難いんです」
「……」
口調は控え目であるが、自身の希望は結構はっきり主張している。
子玖の見せる繊細さと強引さの共存に、素直な子供らしさを感じて、広元は頬を崩した。
広元の中にあった権力者への警戒心は、
何より、子玖の力になれればと、昨夜願った自分なのだ。
「……ありがとう。もし諸葛様がお許しくださるなら、甘えさせて頂くよ」
「本当ですか!?」
承諾返事を受けた子玖が高い声で返す。瞳は明るい。
そのとき広元にはチラと『明日から』との言葉が出かかったのだが、引いた。替わりに口角をにや、と上げて付け足す。
「けど、きみには条件だ。勉強はきちんとやる。根を上げても手を抜かないから、そのつもりで」
「は、はい!」
満面の笑顔で発する子玖の返事は、これまでで一番、元気な声色であった。
「ありがとうございます。ぼく、叔父上にお願いしてきますね。叔父上もきっと、そうしろと言ってくださいます!」
歩廊を走って行く子玖の後ろ姿を、広元は身内のような柔らかな面様で見送った。
◇◇◇
冬の日没は早い。
西空には、紅い斜陽が射し始めている。
子玖が去ってひとりになった広元は、院子設えの石坐に腰掛けたまま、また昨晩の夢想画を思い返していた。
———— 美しい人だった。平民とは思えない……かなり高貴な方のような。
宛県の上層
答えの出ない推測ばかりを巡らせる。
実のところ広元にとっての関心は、あの女人がどこの身分の者かなどではなかった。
先ほど子玖からの提案を受けたとき、一瞬付け足し掛かった言。
動機は我ながらに、ばかばかしいものである。
〝 昨夜と同じ刻同じ場所に行ったなら、もしや 〟
発想の
「……」
深々と、ため息。
実態も分らぬものに、自分は何を囚われているのだろう。これはまるで益のない感傷。あれは偶然見まえた、
……
陽が地に消え、空が紫の残像光に染まっていく。
周囲が徐々に暗くなり始めた中で、広元は自分から少し離れた所に控えている、
「そこにいたのか。どうした、錫青?」
親しく声をかける。
初対面はあんなであった錫青も、その後は広元に対して、子玖へのそれと同様、従順に懐いた姿勢をみせていた。
錫青は尾を振りながら、しばし広元にじっと視線を固定していたが、不意にすっくと立ち上がった。
身を返し数歩あゆむと、頭を広元に振り返らせる。
「……」
なんだろう?
錫青の動きに、広元は釘付けになる。
錫青はさらに歩先を進め……少し行って、また広元を振り返る。
『ついて来い。
錫青が人であれば、そのときそう言ったかもしれない。広元には、そう聴こえたような気がした。
———— まさか。
まさか犬が、そんなことをするだろうか?
あり得ないと頭では認識しながら、しかし広元は何かの引力に導かれるかのように立ち上がり、錫青の後についた。
<次回〜 第11話 「闇迷路の木扉」>
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