26.片山譲治の場合
「俺は、仕事一筋の仕事人間だ……」
片山は眼鏡をクイッと押し上げながら話し始めた。
「新卒で今の会社に入ってから、俺は会社のために全てを捧げて来た。この三十年間、全てをだ。家庭も顧みず、子供の事は妻に任せて、俺は出世だけを求めて必死に働いて来た。それもこれも全ては家族のためだ。俺は、五十歳になる前に役員に抜擢された。異例の若さでの出世だ。俺は喜んだ。家族も喜んでくれると思った。だが、その知らせを持って家に帰ると、妻も子供も家にはおらず、テーブルの上に結婚指輪と離婚届が置いてあった。そこには書置きもあったんだが、『仕事だけのあなたとはもう一緒にいられません』とだけ書いてあった。俺は血反吐を吐きながら仕事を頑張って来た。全ては妻と子供たちに楽な暮らしをさせるためだ。そのために必死に生きて来たのに、全てを否定された気持ちになった。それからだ。俺がアルコールに頼るようになったのは。それまでは接待の時くらいしか飲まなかったんだ。アルコールを摂取すると翌日のパフォーマンスに影響が出る。だから日常的に飲む事はしなかった。だが、俺はこの日から浴びるように酒を飲んだ。妻の手料理も無くなって、コンビニで飯を済ませる事も多くなった。それまでは滅多に食わなかったスナック菓子も良くつまみにした。そうしたら、数年の間にみるみる内に体重が増えた。健康診断では『立派なメタボリックシンドロームですね』と言われた。妻と子供も、頭を冷やしたら帰って来てくれるだろうと思っていた。そう思って離婚届を出さないで四年が経った。実はまだ離婚は成立していなくてな。この合宿が決まった時、最後の願いのつもりで、妻のスマホにSMSを入れた。『生まれ変わるために合宿に行く。そうしたらやり直そう』とだけ入れた。ただ、その返信はいまだに無い。でも、俺の身体は思ったよりもアルコールに蝕まれていた。ここに来ても渡会さんと一緒に飲んでしまった。でも、あの時高遠先生に諭されてから、俺は一切酒を口にしていない。俺は、前の自信に溢れた自分に戻りたい。そのためには、このでっぱった腹なんて邪魔でしかないんだ……」
ここまで一気に話すと、片山は手元にあったお茶を一口含んだ。
「だからか、力が入りすぎていてな。つい周囲にきつく当たってしまう……」
片山の告白を聞いて、佐恵子は涙を浮かべて語りかけた。
「そんな事があったのね。あたしあなたをただの意地の悪いおじさんだと思っていたわ。ごめんなさいね」
「いや、俺も悪かったんだ……」
そう言うと、片山は周囲を見渡した。すると、更紗が俯いて大粒の涙を流している。
「い、井之上さん……?」
困惑する片山だったが、更紗は顔を上げると気丈に話しだした。
「すいません。高遠先生の話が出てつい涙が出てしまいました。わたしの事はお気になさらないで下さい」
「でも……」
「大丈夫ですから! 次は佐恵子姐の番ですよね! その次はわたしが話させてもらってもよろしいでしょうか?」
この更紗の問いに答えたのは、この場を仕切っていた山室だった。
「もちろんですよ。じゃぁ、越本さんの次は井之上さんでお願いします。じゃぁ、越本さん、どうぞ」
佐恵子は「あたしのは大した話じゃないけど……」と前置きをして話を始めた。
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