36:目隠
遠い東から来た列車はまるで太陽を連れてきたような幻想に浸らせる。
リヴィアンが向かうは西、街に朝を届けに行く。
夏の夜明けは早く、まだ生まれたて清浄な空気に満ちて実に涼やかだった。
暗闇に差した光でインディゴブルーへ少しずつ変わっていき、駅に集まる人々の旅立ちを祝福する。
クローゼットから引っ張り出してきた上着を羽織っていても少し肌寒く、繋いだ手の体温を離すには惜しい気持ち。
「リヴィ先輩、やっぱり行くのやめません?もしくは僕も今から連れて行ってくれんかな……」
「それはダメ」
見送りの場にしては実に冷ややかな返事。
思わずロキがこうして縋る言葉を口にするのも無理ない上、酷いことをしている自覚くらいリヴィアンにもある。
何しろ告白と裸の戯れ合いから一晩経過。
最も楽しくて心躍る時期だろうに、たった交際二日目にして離れ離れ。
せめて駅まではと早朝から着いてきたが、いよいよ置いて行かれるとなればロキの「寂しくて死にそう」も大袈裟ではあれど仕方ない弱音。
そうこうしている間に駅のホームまで来てしまった。
ここから先は手を離さねば。
そういえば、別れ際で電車の窓ガラス越しにキスする映画を昔見た覚えがあったと思い出す。
美しい物語の演出としてはもはや古典なのだが、この世界ではどうだろうか。
なんて、考えるだけ。
離したばかりの指先で、俯くロキの顔を上げさせる。
まだまだリヴィアンよりも背が低いのだ。
こうしなければ、キスも出来ない。
どうせならガラスなんて挟まず直接触れたかった。
「続きはまたね」
唇に甘い熱を残して、立ち去る前に告げる。
こういう時、表情を作るならば哀しげか微笑むか。
どちらでもなくリヴィアンは真っ直ぐにロキを視線で突き刺した。
何もかも見透かすかのような、いつもの真っ暗な目。
ここはまだ舞台の外。
己の言葉一つ行動一つが今後に響いてくるとは分かっていても、敢えて演技はせず。
偽って我慢した果てに欲しい物が手に入るかどうかも分からないなら、したいことをすると決めた方が後悔も無いのだ。
やがて重い巨体を引き摺るように列車は走り出す。
煙を吐いて唸りながら、熱で痺れてその場から動けないロキを置き去りに。
それから三日後、休暇を楽しんでいた筈のリヴィアンは学園からも別荘からも離れたとある駅に居た。
陽は高くなり客を迎える為に次々と店が開き出す時間帯。
駅もまた混み始めて、人々は振り返りもせず忙しなく行き交う。
どういう訳かといえば、迎えに決まっている。
目深に被った、紺藍色に金の星が散るキャスケット。
鞄を抱えながら不安げに辺りを見回す、青いジャケットの迷子が一人。
くすぐられたような気持ちになってリヴィアンは人知れず三日月の唇。
これはきっと、駅でマーマレード好きの小さな熊を見つけた時の気持ちに似ているだろう。
ああ、なんて愛おしい。
「ロキ君、こっち」
人目も憚らず抱き付いてくるかとも思いきや、やはり礼儀正しいことである。
帽子を取って挨拶したものだからリヴィアンも会釈を返した。
次の列車へ向かう時はひっそり指を絡めて、共に。
さて三日ぶりの再会には理由が幾つも。
説明させてもらうと長くなるが、話し合いはリヴィアンの誕生日まで遡る。
あの時「一緒に来る?」と訊ねた手前、勿論二つ返事でロキが飛び付いたものだから引っ込められなくなってしまった。
取り消す代わりに数秒で考えた折衷案。
譲れないところで競り合い、二週間のうち両者何とか納得の十日間で解決した。
もともとリヴィアンが一人でゆっくりする為の計画だったのだ、ずっと二人きりは何となく不安。
気の合う相手であろうと旅行で失敗して関係が壊れる、なんてよくある話である。
実際に、家族や友人や恋人でも起こると前世で何度も経験済み。
例を一つ挙げれば、両親が旅先で派手な大喧嘩。
母だけ帰る帰らないの話にまで発展し、当時は幼い子供だったので泣くしか出来なかったことも。
自我として残る最初の人格を除き、体を乗っ取る際に登場人物達の記憶を引き継ぐので今までの誰に起きたことなのかは混ざってしまって曖昧だが、強烈な気まずさだけは後味として残っている。
ただし、この辺りはほぼリヴィアンだけの事情。
一方ロキにも関する事情を明かせば、三日置いたのは外泊申請に時間が掛かる所為だけでない。
ちなみに書類へ記した行き先は適当な嘘。
突然の申請、それも親交のあるリヴィアンと全く同じ二週間なんて流石に怪しまれる。
何より準備室を借りた先日の件もあるのだ、ベルンシュタインからすればお察し。
「おやおや、まぁまぁ……」と笑われる様が目に浮かぶ。
日程をずらす程度では工作として雑だとも思うが、何もしないよりは露見の確率が低くなる。
長期休暇だけに里帰りする生徒も多く、月末のラッシュに紛れて学園を後にした。
中等部で未成年のロキと高等部で成人のリヴィアン。
十代の4歳差は大きく、今のところどうやっても外聞が悪い。
この関係はなるべく秘密。
いけないことを共有するのは蜜の味だった。
こうして待ち合わせは学園と目的地の中間地点、乗り換えの大きな駅。
それまで二人で出掛けたこと自体は何度もあったが、恋人となってから初めてのデートがいきなり旅行とは。
どうなることやら、何が起こるのか、それは誰にも分からない。
「それじゃ、着くまで寝てても良いけどこれ付けてね」
席に着くなりリヴィアンがロキに渡したのはアイマスクだった。
三日前と同じく早朝から一人で列車に乗ってきたので、眠気が残っているのは山々。
尤も、気が利くだとか親切心などではあらず。
これはロキを連れて行くに当たって、条件の一つ。
目隠しを施して「別荘の場所は非公開」と。
どう言い訳しても本物のリヴィアンから肉体と共に奪った物には違いない為、正直なところあの場所を他人に明かすのは少し渋ってしまう。
ここはグラス男爵家の保養地である。
庭も家も本宅よりもずっと小さいもののこちらの方が住みやすい。
グラス男爵家も涼しく自然豊かだったが、山なんてどこも同じなんてことはあらず。
リヴィアンが生まれ育った山はディアマン王国の東に位置しており学園から近く、雪が多く大きな湖を名所とするくらいで何も無い田舎。
片や別荘がある西の山はよく晴れて雪も少なく、ちょっとしたリゾート地として拓けており果物の名産地だった。
もしもの話、今後破滅して住処を失ったとしても生活の場として役立つ保険。
それにしても控えめとばかり思っていたら、ロキは意外と行動力がある。
告白を堺に随分と大胆になったものだ。
それこそ色惚けというものや若さに任せてなのだろうが。
冷静さを失い、恋に落ちた人間は愚かになる。
加えて、ロキの場合は素直にも程があった。
視覚を奪われるので、即ち条件には「身を任せて何でも言うことを聞く」が付け足される。
ずっと手を引かれて、何か飲み食いするにも餌付けのように口へ与えられて。
軽食のビスケットを口許に差し出すと、軽く匂いを嗅いでから齧歯類のように小さく齧る。
要するに全てを世話され、見知らぬ真っ暗闇にリヴィアンの手と声だけが唯一の頼りとなる道すがら。
公衆の面前、傍から見れば馬鹿みたいな遊び。
だというのに「
それどころか嬉しそうな気配すら。
「なんか、こう、いけない性的嗜好に目覚めてしまいそうなんよ……」
「目は閉じてなさいよ」
アイマスクの下、恐らくあの妖艶な目をしている。
微熱混じりに呟いたロキの頬をリヴィアンが軽く抓った。
とはいえ、扉なんて存在しなければ開かない。
戯れ合いの時から薄っすらと思っていたが、どうもロキは変態の素質があるようだ。
サディストとマゾヒスト、両面を持つリヴィアンも人のことなど言えやしない立場であるが。
また性的嗜好にも種類があるので、迂闊にどこで火を点けてしまうやら。
「それはそれとして、行き先が分からないのってドキドキするんね……人が辿り着けない不思議な場所に連れて行かれそうで」
「あぁ、そういうお伽噺あるわよ」
昔々、短命と定められた若い娘が目隠しをして旅に出るという話を読んだことがあった。
辿り着いたのは寿命を司る神が棲む秘境。
酒と御馳走を振る舞われて感謝した神は娘の寿命である「十八」に一筆加えて「八十八」とし、その通りに彼女は長生きをしていつまでも幸せに暮らした。
そして例の如く、その場所へは二度と行くことが出来なかったという。
これは日本の昔話なのだが、海を超えた中国の捜神記にも同じような短編が載っていた。
ちなみにこちらの場合、神の正体は北斗星と南斗星。
お伽噺は意外とパターン化されているもので、遠く離れた国に骨組みの似た物があったりする。
「リヴィ先輩、もっとお話して」
優しい声で語るリヴィアンにロキが次を強請った。
幼い子供の無邪気さで。
「折角の汽車の旅で景色も見れんから退屈だし、先輩の声聞いてたいんよ」
「そうねぇ……どんなのが良いかしら」
これは文学少女にとって得意分野。
異世界を巡る度、その古今東西にどんな物語があるのか知りたくて本を読み漁っているのだ。
それこそ図書館が出来るくらい。
半ばからロキは何も言わず、寝かしつける為のものになってしまっていたが。
昼に近付きもっと強くなる太陽に、流れて行く景色。
揺れる列車は旅人達を運ぶ。
ときめきも楽しみも、不安感も睡魔も混ぜこぜに。
目的地の駅に着いてもミステリーツアーは途中。
眠りから覚めてもロキはまだ暗闇、責任持ってリヴィアンが手を引いて案内する。
ただでさえ夏の陽射しは強く、帽子のツバと前髪で陰になってアイマスクをしたままでも目立たない。
そもそも行き交う人々は相手の顔など気に留めず早足。
列車を降りると、駅前は賑わう商店街となっている。
観光なら早速楽しめるだろうが先を急がねば。
この辺りはまだ山の麓なので比較的住みやすかった。
水も空気も緑も綺麗で作物も豊富。
葡萄畑にワイン工房、リゾート地でもあり絶景の中で一杯を楽しむ貴族が集う。
馬車が通れるように舗装されたメインストリート。
そこから外れ、別荘までは緑の中を歩く。
リヴィアンもロキも夏だというのに肌を隠す格好をしているのはこの為。
とはいえ初心者のハイキングコース程度。
ここから先に住んでいるのは何もリヴィアンだけではないのだ。
我が物顔で伸びる草を左右に分けて、剥き出しの土が踏み固められた地面は何人も横一列になって通れる広さ。
その中央に平らな石が敷き詰められた歩道が通り、ご親切なことに急な段差にも丸太を加工した階段まで。
そうでもなければ目隠しの人間なんて連れ歩けまい。
駅より足場が悪いので慎重に、転ばないように。
枝と葉に覆われた空、木漏れ日を浴びながら時間を掛けて徒歩十数分の後に到着。
きっと赤頭巾のお婆さんが住む家を想像したらこういう形になるだろう。
古さで色褪せ気味ながら赤い屋根に煙突一本、ベージュの煉瓦造り。
こじんまりとしつつ、どっしり重く頑丈な印象。
石畳の道が敷かれた小さな庭に夏の花々が揺れている。
到着した日のうちに掃除や滞在の備蓄などは済ませておいたので住処として成り立っている。
もう扉の向こうには二人分の生活が準備万端。
変わらない平静を装いながら、空いた方の手で鍵を取り出した。
心音も汗ばみも伝わっているだろうに。
無駄な抵抗だとは思いつつも、このくらい意地は張りたい。
先延ばしにしていた約束。
忘れてなどない、焦燥感で焼き切れそうだった。
鍵を回したら引き摺り込むだけ。
「"続き"しよ、リヴィ先輩」
扉を締めて、盛りの太陽から隠れた玄関先。
薄暗い中に掠れた声が落ちる。
鞄を放り捨てたロキの片腕が首へ巻き付いて、引き寄せられる身体。
目隠しのまま顔を擦り付け、吐息で察したのか唇が探り当てられた。
再会のキスにしては何とも倒錯的。
視覚を封じられているのに勘が良いことだ。
繋いだ片手はまだ離れず上へと誘導して、リヴィアンにアイマスクを外させようとする。
どうか早くこの真っ暗闇から解放して欲しいと。
そうして布の下から曝け出される、飢えた濃藍の目。
射し込む僅かな夏陽にとろりと光を持つ。
散々焦らした後なので仔犬だってこんな目をする。
いや、もしくは本当に狼を連れて来てしまったのかもしれない。
可愛らしい帽子の下に三角耳が見えた気がした。
「僕、もう、すっごい我慢したんよ」
「……うん、私も」
しかし、こちらもまた赤頭巾なんて柄じゃないのだ。
何も知らぬ無垢な少女だった頃など昔々の話。
隠れ家に招き入れたのは自分の意志だった。
予定を立て直して、面倒な手順を踏んで、それでも会いたかっただけ。
目を閉じて、リヴィアンも心地良い暗闇に浸った。
唇に立てられる牙の形を愛しみながら。
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