薫衣草の残り香(リヴィアン過去編)

24:奈落

「拙者、親方と申すはお立会いの中にご存知のお方もござりましょうが……」


これは「外郎売り」という歌舞伎十八番。

俳優やアナウンサーにとってはお馴染みの発声練習である。



まず全て暗記することも厳しく、噛まずに最後までなんて難易度が高い長台詞。

しかし最初は歯型も付かないような硬さの物でも、何度も繰り返しているうち口腔に馴染んでくる。

唾液と体温にゆっくり溶け、今や滑らかな柔らかさ。


"彼女"にとってはもうずっと舌で転がしている日課。

台詞の練習はその後で。


何しろ、もうすぐ今生で一番となる大舞台の時間。



通路を抜け出て、上がった舞台はなんて明るいのだろうか。

ずっと薄暗い場所に居たので目が潰れそうになる。

眩しさに慣れてきた瞼をそっと緩めれば、自分の為に集まった観衆の数々。

こちらに向けられた激情の熱に全身を焼かれそうだ。

歓喜で堪らなくなっても、その興奮は隠さねばならない。

もうここは舞台の上なのだから。


さあ背筋を伸ばせ、顔を上げろ。

呼吸は深く、たった一つの台詞は朗々と。



「それでは皆様ご機嫌よう、また地獄でお会い致しましょう」



身に纏う衣装は質素な白いワンピースのみ。

獄中生活で伸び、首を切り落としやすくする為に束ねられた長い髪。

鎖を巻かれた四肢は無抵抗のまま真っ直ぐな足取り。

優雅なる微笑で一礼を披露した。


その罪人は一度たりとも取り乱すことは無かった、最期の瞬間まで。


あまりの異様さに、思わず観衆は静まり返る。

悪女に天誅が下る様を楽しみにして寄り集まった人々は心から戦慄したのだ。

中には見惚れてしまい、心を持って行かれた苦しみを抱えながら後の生涯を過ごすこととなる者まで居たという。




今日、断頭台に奇妙な罪人の命が消えた。


処刑の出来事はただの一端に過ぎず、彼女に纏わることは歴史に残るであろう。

何しろ罪人になる前は「聖女」と呼ばれていた。

国を護る神獣に仕える為に生まれた、ただ一人きりの少女。



業務で王太子と接点を持つこと自体は仕方なし。

しかし、度を弁えず親密になってしまったのは不味かったろう。

面白がる者、不快に思う者、危険視する者など感情が渦巻く中、聖女が服毒により倒れた。


神獣が与えた解毒剤により聖女は一命を取り留めたが、目覚めてすぐさま告発した。

それによれば、犯人は婚約者であり次期王妃となる令嬢。

王太子と親しくなったことで嫉妬に駆られ、殺人未遂を起こしたと。

鵜呑みにした王太子は頭に血が昇るまま死罪を言い渡し、国中が令嬢の死を望んで湧き上がった。


無実を訴えながら震えて涙を零す令嬢が断頭台に上がったその時、空から降り立ったのは神獣。

人ならざる美しい青年の姿を変えて彼女を優しく抱き上げると、冷たく宣言した。


「私の妻を虐げる国になどもう護る価値は無い、好きに生きろ」


そうして令嬢を拐って遥か彼方、遠く遠くへと飛び去ってしまった。



崇拝していた神獣に見捨てられた嘆き、悪女である令嬢が誑かしたのだという暴言。

様々な声で混乱の中で一人立ち上がったのは聖女。


「思っていた以上に良い物を見せてもらいました」


感動に胸を詰まらせながら拍手喝采。

何を言っているのかと戸惑う皆に、真っ直ぐな目で向けて高らかに唱えた。

嫉妬も殺人未遂も真っ赤な嘘。

令嬢が無実である完璧な証拠一式を揃えて広げ、実に堂々とした自白。


この言葉で真っ青になったのは王太子。

移り気していたとはいえ本当は愛していた婚約者を思い込み一つで断罪し、国も守護を失った。

その茫然自失でへたり込む彼の顎を持ち上げると、聖女は恍惚と熱を帯びながら口にする。


「ああ……今のあなた、とても可愛い」



すぐさま取り押さえられた時も聖女は全くの無抵抗。

こうして牢へ送られたが、その間もおかしなことばかり起きていた。


拷問では激痛を愉しみ、悲鳴はあくまでも嬌声。

かと思えば情欲で彼女に襲いかかった門番達は数時間後に半裸のままやつれ果て、もう指先すら動かせなくなっていた。

けれど、聖女だけはその中で静かに微笑んでいたという。

体液で汚されても目に肌に艶々と生気を漲らせて、まるで淫魔の如く。


聖女などと呼ばれていても何か特別な術が使える訳ではない。

神獣に仕える一族の生き残りという、ただそれだけ。



そして、聖女の自白や証言や調査により明らかになった事実もまた奇妙。


毒は自ら飲んだものであり本物、命が危なかったのは事実であること。

実は解毒剤を作ったのは令嬢であること。

処刑の日、令嬢の危機を神獣に知らせたのは他ならぬ聖女であること。



これは一体どういうことだ。


体を張るにしてもあまりに危険な賭け。

王妃の座が欲しくて令嬢を陥れたというのならば、恩を仇で返すとはいえまだ分かる。

それならどうして神獣に彼女を助け出させたり、こうして口を割ったのかと理解に苦しむ。

これではまるで、処刑されることを望んでいるようではないか。


目的は何かと訊かれる度、いつでも落ち着き払って通る声で聖女はこう言った。


「だって今の私は悪役ですもの、滅ぼされてこそ完成するのです」



聖女の正体とは何者だったのだろう。

敵国からのスパイという説が有力であったが、繋がりは何も出てこなかった。


いずれにしろ国も王太子も神獣すらも、全ては聖女の掌の上。

目一杯に引っ掻き回して愉しんで舞台から去って行った。

こうして一つの物語は幕を閉じる。


残された者達は、加護を失い滅亡が待つこの国で生きるしかないのに。






「聖女役、お疲れ様でした」


その声で、暗闇に沈んでいた意識は浮上する。

聖女の肉体を抜け出た魂は降り立った。



ここが地獄ならあまりにも奇妙な場所であろう。

幾つも組まれた古い木の柱が立ち並んでおり、そう広くもない空間。

それも低い天井に密閉されている所為で暗い。

どことなく埃っぽい匂いで無機質な冷たさが保たれている。


呼ぶならそうだ、地獄でなく「奈落」が相応しい。

眩しい程の光で満ちた舞台下に存在する奥底、観客からは隠された薄闇。


処刑された聖女を演じ切った"彼女"には花束を。

渡された薄紫の花々に顔を埋めて、痺れるような余韻に浸る。


そう、この役はとてもとても楽しかったのだ。



種明かしをすれば、あれはとある恋愛小説の世界だった。

元の物語はヒロインである聖女が神獣と王太子の両者に求愛されて三角関係の何やかんや。

最後は王太子と結婚して「選ばれなくても良い」という神獣に守られながら王妃となる物語。


そうなる筈だったのだ。

前世でこの小説を知る女性が王太子の婚約者である令嬢に転生するまでは。


彼女は物語後半で嫉妬により聖女の殺人未遂事件を起こし、処刑される悪役令嬢。

しかし物語はシナリオの外へと転がり始める。

全くのアクシデントにより思いがけずに神獣と出会ってしまい、彼から興味を抱かれるようになってしまう。

当然ながら令嬢は悪役になる気はなく、処刑を恐れて登場人物達と関わりを持たないように逃げていた。

そんな彼女を楽しそうに追い掛ける神獣という奇妙な関係が出来上がってしまったのである。


いつしか今まで聖女の一族としか親交を持たずに閉じた世界で長い歳月を生きてきた神獣は令嬢との関わりで外に目を向けるようになり、密かに「旅に出てみたい」と望みを持つ。

令嬢もまた彼を嫌っている訳ではなくむしろ実は好意があり、浮気者の王太子にも以前から愛想を尽かして婚約破棄を持ちかけるほど。



令嬢が大人しくしていれば事件は起きない筈なのに。

にも関わらず、どうして聖女は毒に倒れたのか。

王妃の座を狙っていた訳でもなければ、そもそも故意ですらない。


理由は単純明快、というのも本来の聖女は底無しの粗忽者であった。


話の都合上とはいえ凄まじいトラブルメーカー。

自他の境界が恐ろしく曖昧で、相手の気持ちや立場になって物を考えることが出来ず無神経。

何よりも悪いことに自覚がない。

容姿だけは無垢な美少女なので、笑ってさえいればいつまでも子供のように純真で守ってあげたいと好意的に捉えてもらえる。

要するに、相手を下に置いて「自分が居ないと駄目な奴」と安心する者にとっては可愛いお馬鹿さん。



今まで神獣に助けられるお陰で生きてこられた訳だが、その彼は令嬢に恋をして目が覚めた。

もう成人間近の聖女を小さな子供扱いしていたと反省して、適切な距離を置くことにする。


聖女とも誠実に話し合ってからの行動だったが、認識が甘かった。

野に生っていた有毒の実を「美味しそう」と無知から口にし、今までなら止めてくれる神獣が傍に居なかった為に倒れてしまったのだ。

この世界では魔境の植物でなければ解毒できない故、取り扱いは重々に注意されていたのに。


狼狽えるばかりの王太子を差し置き、真っ先に立ち上がったのは令嬢だった。

ここで見殺しにしたら自分が疑われることもあるが、何にしても人としての良心が咎める。

洗いざらい事情を話して神獣と共に魔境へ冒険に行き、見事に解毒剤の植物を持ち帰った。

結局それは皮肉にも二人の仲を深める出来事になってしまった訳である。



擦り替わったのは、この時。

本来の聖女の魂を追い出して仮死状態だった身体を奪い、あの世界に侵入したのだ。


何故ならば、その為に"彼女"は存在していた。



創作物の世界に転生者が入り込んで本来のシナリオを変えてしまった時に女優である"彼女"は送り込まれる。

予測不能の方向へ動き出した物語を収拾する為に敵として対立するのだ。


冷酷無比なる者として振る舞い、灼熱の憎悪を浴び、惨たらしく討ち滅ぼされる。

姿を変え、名を変え、生きて、殺して、死んで。

もう何度も何度も重ねてきた人生。


反逆者、破壊者、侵略者、乱入者。

呼び名は様々ではあるが「悪役」が最も耳馴染みが良いだろう。



「それではおやすなさい、■■さん」


自我として胸に刻んでいる"彼女"の本当の名は、もうこんな時くらいしか呼ばれない。


一つの役を終えるたび、この奈落で目覚めてはラベンダーの花束を受け取って眠りにつく。

心地良い癒しの香りは聖女役の昂ぶりを冷まして、もたらされるのは沈黙。

何度生まれ変わろうと"彼女"が最も愛している花。


そんな彼女は後にラベンダーを意味する「薫衣草クノエソウ」と名乗ることとなる。

ただしそれはまだ先、遠い未来、いつかの来世の話。


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