狐薊は根を張る(ヴィヴィア視点)
20:覚醒
月華園に来てからヴィヴィアの数日は慌ただしかった。
まず鞄一つで追い出された立場、手元には必要最低限の物しか無かったので寮の物を貰ったり買い物に連れて行ってもらったり。
寮にも花街にも、ここで暮らす上で守るルールは沢山。
むしろ本番である夜の方が気楽だろうか。
開店前の準備と閉店後の後片付けを手伝い、営業中はひたすらピアノとだけ向き合う。
長年の努力で手に入れた技術なので決して簡単な訳ではないが、好きに弾ける日々は楽しい。
店内の奥にある舞台は客席から遠く、酔っぱらいとの過激な会話を免除されているだけ平和だった。
ヴィヴィアも芸人の端くれではあるが、音と一つになっているので誰もこちらを見ていない安心感。
だとしても男物の服と仮面で堅く正体を隠し、相変わらず装備は厳重に。
それにしても昼夜逆転の生活はなかなか刺激が強い。
今まで軍隊のように規則正しい学園に居たので、いきなり開放されたところですぐ心身共に順応出来る訳ではないのだ。
日が高くなるまで寝ていても良くて、リビングには自由につまめる間食の入った棚、いつ入っても良い書庫には娯楽の本が壁を埋めている。
慣れる頃にはすっかり堕落しそうな心配も少々。
驚く程の居心地の良さがまた恐ろしい。
ヴィヴィアも弾ける曲は少なくないのだが「自由」と言われると、却って困ってしまう。
この店にしかない蛇苺の作った曲の楽譜は数多く存在しているのだ、どうせならこちらを弾いてみたい。
というか蛇苺は何者なんだろうか。
国の音楽界にもピアニストとして籍を置いている人物なのだが、作曲家としては独特過ぎて万人受けせず評価がいまいちらしい。
「Murder&Mermaid」が良い例だ。
反面、好みの者にはとても心に突き刺さるのだが。
もっと言えば、月華園のメンバーは誰もが何者なのかよく分からない。
寮の面々とはここ数日で多少なりとも親しくなり、基本的な自己紹介や会話はしてみた。
特に初日から砕けた態度の薄荷やカミィとは打ち解けやすい。
ただ、質問したことには答えてくれても皆どうも本名だけは教えてくれないようだ。
あちらからもそこは訊かれることはなく、確かにヴィヴィアも少し困るのでお互い様か。
古来から名前とは正体であり、元ナイト公爵家の令嬢だとはあまり知られたくない。
ここに居る間は「狐薊」で良いのだ。
トワが付けてくれた名前も割りと気に入っている。
それはそうと、ショーのピアノは弾かなくても良いのだろうか。
月華園での人気はやはり週に一度のショータイム。
これこそ最も音楽を必要とする時。
だからこそ惹かれたのだ、ここでこそ貢献したい。
「それなら練習しないとね、演奏と伴奏って全然違うから」
師匠となる蛇苺に相談してみると、早速レッスンを付けてもらえることになった。
こればかりは今までと勝手が違う。
バレエピアニストはダンサーの動きに対して相応しい音楽を与え、気持ち良く踊れるように導くことが役割。
それくらいはヴィヴィアだって知っている。
何よりもショーとは生き物。
どんなに場数を踏んだ達人でも不測の事態に陥ることはあり、それでも取り繕って続けなければならない。
機転が利かなければ務まらないのだ。
そういう訳で、ヴィヴィア一人だけでは駄目。
練習はダンサーと共にやらねば。
「宜しくお願いしますね、狐薊さん」
「こちらこそ……」
こちらが練習に付き合ってもらう形なのに頭を下げられてしまうとヴィヴィアの方が畏まってしまう。
礼儀正しく挨拶をしたのは、蜘蛛蘭。
命名されたばかりの呼び方までされて、何となくくすぐったい。
今日は定休日ということもあり通いのメンバーは居らず、組むなら寮の誰かという選択。
そこで掛け合ったところ、最初に都合の付いた蜘蛛蘭にそのまま決まった。
あれから彼と顔を合わせる機会は何度か。
中庭での無礼は謝ったのだが、本人からは詫びられる理由が分からないと首を横に振られた。
むしろ火傷の手当で礼を言いたいくらいだと。
失言についての靄は一応晴れたものの、感謝を返されると素直に呑み込みにくい。
次回のショーは歌唱しながらのポールダンス。
蜘蛛蘭はソロなので、二人組の薄荷とカミィとは違った技や雰囲気で踊るらしい。
室内とはいえ、もう11月。
午前中のショーパブは閑散とした空気に満ちており、窓もないので陽光が届かず冷えている。
上着を脱いだ蜘蛛蘭はタンクトップにスパッツ姿。
運動前の柔軟体操を始めると、引き締まった身体の線が浮き上がる。
刻まれた蜘蛛の巣模様の刺青が否応なく目を引く。
単純に男性の肌を見慣れてないので、ヴィヴィアは直視を避けた。
皮膚とポールの摩擦で身体を支える為、ダンサーが露出が高い服装になるのは必然的。
本番では上半身裸だというので、こんな薄着でもまだ肌を隠している方である。
雪椿といい蜘蛛蘭といい、この店の男性陣は服の下に妖しさを隠している。
日頃はむしろ物腰が柔らかい大人を装っているのに。
ああ、その点は薄荷も同じか。
昼と夜は別の面、月華園の誰もが異界の生き物ということを忘れてはならない。
気を取り直して、ピアノの前で楽譜を捲る。
タイトルは「アラクネーの晩餐」。
これも蛇苺が蜘蛛蘭の為に作った曲の一つだった。
そして偶然にも、ヴィヴィアがピアニストデビューの日から何度も弾いていた一つでもある。
どんな曲なのかは既に耳と指で知っていた。
最初に軽く目を通してみて、タイトルから予想はしていたが実にダークで深い味わい。
蜘蛛は交尾の際に雌が雄を捕食する生き物であり、性的共食いと呼ぶ。
これは恐ろしくも美しい異形の蜘蛛女に恋い焦がれて、彼女に喰われることを望む男の歌だ。
蛇苺の作る曲はやはりどれも癖が強い。
「まずは歌と曲で合わせてみようか」
それもそうだ、演奏と伴奏は違う。
もう指が認識している曲なのに、何となく初めて弾くような緊張感で最初の鍵盤を叩いた。
不気味で奇妙な響きから始まって、ゆっくりと細い指で背筋を撫でられるような旋律。
けれど、それだけではなく混ざり込む煌めきに惹き付けられる。
ここに蜘蛛蘭の歌声が重なれば、寒気なのか悦楽なのか分からなくなってしまう。
相変わらず酩酊感を伴う声を朗々と張り上げていた。
身も心も凶暴なファム・ファタールへ捧げる愚かな男になりきって、なんて狂気的な恋の歌か。
そうして望みは立てられた牙により叶えられる。
鮮烈な血の匂いを蒔き散らし、幸福に死んでいく結末。
「蜘蛛蘭君の歌は幾つか作ったけど、何かどうしても最後死んじゃうイメージなんだよねぇ」
最後の鍵盤が響き、余韻を味わう最中に蛇苺が一言。
何故こんなにも他人事か。
耽美な空気が不意に打ち破られて、ヴィヴィアが思わず噴き出しそうになり肩を震わせた。
結論から言えば、笑っていられたのはそこまでだった訳だが。
「すみません、もう一回お願いします……」
もう幾度目かの謝罪と再挑戦。
ヴィヴィアの声は重ねるごとに弱々しくなりつつあった。
それに対して、叱責や溜息などは一切返ってこない。
蛇苺も蜘蛛蘭も静かに頷き従うだけ。
いっそ怒りをぶつけてくれたって良いものを。
合わせが散々なのはヴィヴィアも自覚していた。
ポールを掴んで歌い始めた辺りまでは良い。
それから一分も立たないうち、確かに生じる僅かなズレ。
やがて誤魔化せない大きさになり、追い付こうとする焦りで指が縺れての中断。
ポールダンス自体は薄荷とカミィの練習を見せてもらったことがある。
あちらは飽くまでも笑顔を絶やさず、綺羅びやかで愉しげに日常と非日常を結ぶ。
なので、どんなものかは知っていた筈なのに。
けれど、こちらは全くの別物だった。
曲に合わせて纏う空気も表情も妖艶で圧倒されてしまう。
銀色のポールはまるで天井から垂らされた強い糸。
蜘蛛男は宙で自由に踊る。
片膝でポールを挟んで掴まって、その力だけで支えられた身体。
既に神業だというのにこのまま逆さまに回転。
これだけ激しい動きにも関わらず彼の声は揺れない。
平然と歌い続ける力強さに、ついこちらも呑まれそうになってしまうことも原因。
いつでも頭の中にメロディが鳴っていて、無意識でも机をピアノに見立てて指先が動く彼女のこと。
特にここ数日は音楽にだけ集中していたので浮かれもあった。
早くも暗譜出来るようになりつつあった曲なのだが、甘さを実感して流石に胸が痛む。
ピアノでの失敗なんて数え切れない程あり、いちいち気に病んではいられない。
しかし、今までそれはただの演奏であった。
一人きりで弾いていたからこそ気楽で、納得行くまでやり直しが出来たのだ。
孤独でないということは、なんて厄介なのだろうか。
これは蜘蛛蘭に捧ぐ為の音楽だ。
ヴィヴィア一人だけで紡がなくてはならない。
「大丈夫だよ、今日は"出来ないことを知る"が修行だから」
やっと蛇苺が口を開いた。
落ち込む一歩手前、師匠の言葉は間に合う。
「成功しなくても良いんだよ、そういう練習だから。こんなの難しくて当たり前なんだしさ」
「止められていたとはいえ、先にお伝えしなくて申し訳ありません」
ここで揃って種明かし、そういうことか。
ああ、なんだとようやく安堵。
釈然としない部分はありつつも、一応は頷いた。
ずっとどこかで、戦力外と思われることに怯えていたのかもしれない。
余裕を無くして気持ちが痩せ細っていた頃が呼び起こされる。
かといって極端な話だが「何も出来なくて良いからここに居てくれ」なんて言葉は望まず、むしろ腹を立てるだろう。
ピアニストとして生きたくて、月華園に住処を決めたのだから。
「もう一回だけ、お願いします」
沈みかけていた心は軽くなった。
しかしやはり、このまま終わるのは悔しいから。
「フフ……良いでしょう、僕も体が温まってハイになってきたところです」
「なんかスポ根みたいになってきたな。いいね、蛇苺さんそういうの割と好きだよ」
少し無理な欲求にも承諾は軽い調子で。
ヴィヴィアに気を遣っているのか、単に悪乗りなのか。
根気強さには自身があった。
出来ないと分かりつつも、まだ付き合わせてしまうには申し訳なさも一抹。
実のところ、そこには意地だけではなく。
歌う時は安定している蜘蛛蘭の声も、合間には息が上がって掠れている。
こんなに冷えた店内で唯一の熱。
冷たい顔立ちで見事な妙技を披露する彼が、今は目を少し伏せて汗ばんでいるのだ。
演目の為に作られたものとは違う色気を無防備に晒して。
それもこれもヴィヴィアの所為で。
悪いと思っているのに人知れず滾る感覚。
何だろうか、この気持ちは。
月華園の誰もが異界の生き物ということを忘れてはならない、勿論ヴィヴィアも。
これが目覚めだと、今の彼女にはまだ分からない。
微々たる種火は、不謹慎だと自分に言い聞かせて打ち消そうとした。
頭を冷やさなくて集中しなくては。
そうして再び、固くなってきた指を鍵盤の上で踊らせ始める。
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