18:女優
トワがヴィヴィアと交流を持つようになり一年が経った頃だろうか。
暫く前から、ただでさえ荒れやすい花街にはきな臭い連中が目立ってきた。
何も外だけの話と限らず月華園も他人事ではない。
SMは加虐と被虐の遊戯。
理解や品の無い者が来れば、あっという間に治安は悪くなる。
これも誤解されがちなこと。
店のМ嬢だからといって、金を払えば好きに暴言や暴力を振るって良い訳ではない。
まず身を任せても良いという信頼関係、それからNGラインを決めて合意の上で楽しむのだ。
そして繰り返し言うが、結局のところSはスレイブでМはマスター。
鞭の甘さを教えられない者はサディストの資格無し。
S嬢ならプロなので我儘な客相手でも手綱を握れるが、ここを勘違いするとМ嬢の身が危ない。
勿論以前から厳つい黒服も居るが用心棒は多い方が良し。
そこでリナに相談したところ、店に寄越されたのが"彼女"だった。
故に出逢いは仕組まれた訳でなく、偶然だった筈なのに。
編み込みで纏め上げた長い髪は紺藍色。
顔の輪郭はほんのり柔らかく、大きめの垂れ目に緩い口許で可愛らしい顔立ち。
物静かな無表情の所為かどこか影がある。
二十代前半とのことだが、年より少し幼く見える女性が一人。
外見で騙されるだろうが決して侮ってはいけない。
もう暖かい季節だというのに手の甲や膝まで隠れる長さのジャケットを羽織っていたのは何故か。
答えは両腕にスリーブガン、片脚にナイフの装備を隠す為。
花街の若頭による精鋭部隊の一員。
射撃による遠距離に、武器ありきなら接近戦も強いという。
入店の建前はS嬢と歌姫志望、実のところは切り札。
油断させる場合は男性よりも女性の方が良い。
ただし、SMに関しては初心者。
ボンテージの着方がよく分からないと言うので手伝ってやろうとジャケットを脱がせて薄着になれば、肉感的なラインに圧倒された。
着替えさせると黒い革から乳房がはち切れそうに張り詰めて、開いた谷間が深い。
身体全体を引き締める衣装なので元から括れのあった腰はきゅっと細く。
化粧を変えると先程の印象から一転、湿り気のある艶が匂い立った。
勝手に他人を性的な目線で見るのは良くないが、ボンテージを着ている時なら許されるだろう。
昭和生まれなので、つい昔のグラビア雑誌で見た「ダイナマイトボディ」という古臭い単語を思い出す。
昔は教養で歌を習っていたこともあり、その後も自主的に鍛錬もしていたらしい。
早速の技能試験では見事に透明感のある声を披露した。
「元、舞台女優でしたから」
優雅な一礼をして冗談まで。
「なんかこう、アンタの歌は人の寂しさに語りかけて闇に引き摺り込んでくるわね……」
聴いてみて一言、金手毬からの評価はこちら。
清らかな天使の歌?
まさか、これはまるで人を誘惑する悪魔の歌。
甘く澄んでいるくせに度数の高い酒のようで、口当たりの良さに騙されて一杯だけでも気持ち良く潰れてしまう。
「それで良い、それが良い、ここには必要な物だ」
トワの頷きは深く、悪い顔。
これは信者が作れることを期待出来た。
ラベンダーのアロマミストを愛用しているそうで、至近距離だと仄かに感じる。
香水ほど強くないので自然な香り。
どことなくイメージにも合うことだし、そのままS嬢として店に立つ時は和名の
呼ぶ時は短く「ノエ」が愛称。
それから、耳打ちの声で金手毬とトワだけに教えられたことが一つ。
彼女は若頭の情婦でもある。
だが、これは聞かない方が良かったかもしれない。
「あー……あの男、なんか精力ヤバそうっていうか激しそうだとは思ってたわ。こういうタイプが好みなのね」
「テマリ、やめてやれ」
実のところ蜘蛛蘭の弟子入りと同じ年、この地を治めているライト伯爵家は代替わりした。
国内最大の花街であるカルツローズの頭は、現在リナの長女。
そして新しく若頭の立場に就任されたのが、学生時代にトワの後輩だったライト公爵家の青年である。
一応は古くからの顔見知りなので、尚更に夜の事情はなるべく触れたくない。
性欲に特化された関係性の呼び名だけに、妻や恋人と違って生々しい響き。
最初から採用自体は半ば決まっていたようなものなので、面接はこれにて終わり。
さて、今度は他のメンバーへの紹介。
昼前の店内に移動すれば、ショーのキャスト達が練習中。
「あれ、お久しぶりです」
ノエに対する会釈で、一人だけそう言ったのは蜘蛛蘭。
そうだった、彼もライト伯爵家の生まれ。
同じくリナの孫である若頭とは幼い頃から交友のある従兄弟同士。
プライベートでも付き合いがあるなら、こちらが顔見知りでもおかしくないか。
どうせならお手並み拝見。
トワ達は揃って近くの客席に座り込み、練習の成果を披露してもらうことにした。
蜘蛛蘭は本来なら緊縛師なのだが、ショーでは多芸。
他の嬢と組んで歌やダンスまで幅広い。
ただしマゾヒストとしては主人を持たず「縛られるならS嬢のパートナーが出来てから」と自縛のみ。
フックや支柱を使う技の場合は店内中央にある丸いステージでなければいけない。
今度の演目はポールダンスと組み合わせて、いつも以上にアクロバティックな自縛。
自分で糸を紡いでいくように縄を伸ばし、身体に絡めて吊り上げる。
蛇苺が新しく曲も作り、タイトルも「蜘蛛男」と。
「……なんか嫌なピーター・パーカーだな」
思わず唸るように、無意識で言葉が零れ落ちた。
トワしか分からないであろう名前。
この世界で「蜘蛛男」といえば蜘蛛蘭を指すことになってしまうのかと。
そう、これは独り言で終わる筈だったのに。
「面接では色々と訊かれましたし、私からも質問したいことがあるのだけど」
ここで、ふと小さく挙手が一つ。
口数少ないとばかり思っていたノエからだった。
新しい職場なら分からないことだらけで当たり前か。
はいはい何でしょう、と顔を向ければ。
「スパイダーマンはどれがお好き?」
まるで好きな食べ物でも訊く軽さ。
突然首を締め上げるように、トワの息を止めた。
この世界の人間なら知っている訳がないのに。
当のノエはというと、何でもない顔のまま。
けれど目だけは先程よりも暗く見えた。
こんなにも真っ黒だったろうか。
どこか退屈そうで、何を考えているのか分からなくて、相手を見透かすような色。
お前は一体、誰なのだ?
訳が分からないという金手毬や蜘蛛蘭を置いて、ノエを連れ出した。
彼女も頷いて席を立って大人しく付いて来る。
話がしたいのは同じのようだ。
さあ、改めて自己紹介しようか。
「今は亡きクリスタル・グラス男爵が一子、リヴィアン・レイラ・グラス。日本に生まれた当時は舞台女優でした」
「私はスギイシ商会の三女トワ・スギイシ、ここでは鳥兜と呼ばれている。前世では同じく日本人の緊縛師だった」
現在の名前と立場、過去に何者であったか。
こんな短い言葉だけでも明かされ交わされた情報は大きい。
ああ、やはり、転生者は自分だけではなかったのか。
「そうそう、好きなスパイダーマンは東映版です」
「いや、そこは別にどうでも……私はアメイジングかな、映画も行った」
店内は練習中で騒がしく、もうすぐ開店準備なので衣装部屋も食糧庫も人が出入りする。
懐に入れるにはまだ信用ならず、トワの自室は無謀。
こうして内緒話は寮にある書庫で落ち着いた。
邪魔が入らず、かといって鍵も掛からない。
何しろ得体の知れない相手と対峙するのだ、いざという時には退路が必要。
着替えさせておいて良かった。
銃もナイフも置いてきて少なくとも今は丸腰。
念の為に、トワは薄く開けたドアを背にして立つ。
ここはトワが持ち込んできた文学作品の他、ショーに関する芸術の勉強から娯楽の本まで揃っていた。
部屋で怠惰に過ごす日もある寮の住人達にとって気軽な暇潰し。
教養を身に付けるには読書が一番でもある。
「書庫があって嬉しいわ、最近図書館にも行けてないし」
幾つもの高い棚に本が詰められた空間、机に軽く腰掛けているのはボンテージ姿の女王様。
あまりにも不似合いでおかしな光景だった。
「スパイダーマンならあの世界で有名だし分かるから良かった、マイナーな作品とかだと伏線張られても気付けないから無意味だもの。何より、同じ世界の近い時代に居たことがあるみたいね」
ただ呟いただけなのか、トワに対しての発言か。
よく分からないことをノエは舌で転がす。
それもあちこち渡り歩いているかのような、おかしな口調で。
顔には出にくい筈なのでトワの思惑は伝わっているかは分からないが、後半の意味だけは教えてくれた。
「私ね、今生で七回目なのよ。それも全部違う世界」
それを聞いて、ぼんやり予想していた以上に話は大きく広がっていた事実を悟った。
どうやら目の前に居るのは、この現象に対するエキスパートらしい。
同時にトワが長年抱えていた靄を晴らしてくれる期待も持てて、ある意味安心もしたが。
訊きたいことも話したいこともお互いに山ほど。
しかし一気に捲し立てるだけでは進まず。
まずは、ノエからの幾つかによる質問に答える形を取る。
「鳥兜さん、ここが何の世界だか知っている?」
いいえ、全く。
けれど異世界だとしても、色々と奇妙に思っていた。
テーマパークの中で暮らしているような感覚。
「前世を思い出した夢の時、あなたは何を持っていた?白い空間に誰が居た?そして、その人は今どこに居る?」
手に持っていたのは前世から馴染み深い縄。
そこに居たのは三十代から四十代程の地味な女性。
どうしたかって、そんなの。
この手で絞殺したとは言い難く「死んだ」とだけ。
ここまで知っているなら、ノエもまた同じようにして前世を思い出したのだろうか。
隠したところで暴かれてしまう恐ろしさも一抹。
「最後の質問、乙女ゲームってご存知?」
いいえ、せいぜい単語を耳にした程度。
成人男性向けゲームの方なら多少は分かるのだが。
緊縛がテーマのSМ系で何作か監修を務めた経験あり。
そこまで聞けば大体は分かったらしい。
一人で納得して、頭に手をやり、溜息で天を仰ぐ。
せめて思い悩んで苦しんでいる様子ならまだ分かるのだが。
あの目は相変わらず真っ黒、無表情のままで意図が読めやしない。
何なのだろうか、一体。
苛立ってしまうのは仕方あるまい。
大人しくするつもりだったが待つ時間とは長く、無言なら更に息苦しく感じる。
「真実を知る覚悟はあるかしら?」
とうとうノエの方も腹を括ったらしい。
言葉を選んでいたようだが、結局は投げ掛ける形。
突き刺された錯覚に眉を顰めても、ただそれだけ。
何もかも全ては今更。
狂っているとすれば、そんなものはお互い様。
こんな頭がおかしいと思われるようなことを共有する相手が現れるなど、奇跡にも等しい。
話ならもう好きなだけ付き合おうじゃないか。
結論なんて一度受け入れてから決める。
そもそもの話、前世からして真っ当ではないのだ。
数十年SMの世界で生き抜いてきた度胸を舐めないでいただきたい。
「最初に言わせてもらうと……ショックでしょうけど、正確にはこの世界に生まれ変わった訳ではないのよ。私もあなたも」
だというのに、早速ノエは呑み込みにくいことを言う。
折角の決意を揺さぶってくるように。
「お前、本当に一体何者……」
「地獄からの使者かもしれないわね、人によっては」
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