17:黒薔薇
とある年の春、王立ディアマン・ブラン学園は数ヶ月前から密かに忙しなかった。
職員達も落ち着かないというか緊張感というか。
それもこれも、この国の王太子アンデシン・サイトと、王妃候補のナイト公爵家姉妹が揃って中等部に入学するというのが理由。
王家の者はよほど出来が悪くなければここに進学が決まっているようなもので、王太子となると約二十年ぶりの話だ。
名門校だけに試験のレベルは高いが、これを越えなければ確かに国なんて大きな物は守れない。
それに加え、ここは入学してからの方が大変。
一言で表すならば「軍隊」と生徒達は声を揃える。
真っ白な制服は大変立派なのだが、どこか軍服を思わせるデザイン。
全寮制、貴族でも使用人の付き添いは不可、自立心を育てる厳格な校則の数々。
加えて男女交際禁止なので、婚約者同士の間柄でも過度の触れ合いは注意対象。
そういう訳で、卒業生の夫婦にとって青春の思い出は甘酸っぱい程の清さ。
親元を離れると浮かれて羽目を外しがちなので、貞節を重んじる家柄ほど安心という面もあり。
ついでに言えば、ここ数年でますます厳しくなった。
ミセスオパールとなった例の同僚が目を光らせるようになった所為。
非常勤のトワは誰が入学しても特に関係なし。
ディアマン・ブラン学園で彼女の受け持ちである東洋文学は息抜きの教養扱い。
授業は作品の解説だけで試験すら無いのだ。
こちらとしても興味を持つ切っ掛けになれば御の字。
同じ国内五大名門でも、サフィール総合芸術校なら文学科での必須教科だろうけれど。
まず選択授業なので接するのは名簿の生徒のみ。
確認したところ噂の姉の方だけは居たが、王太子と妹は他の科目らしい。
もし彼らと校内で顔を合わせても、恐らくトワに意識が向くことすら無さそうだ。
こちらも別に興味なかったが、注目の的なので話だけは嫌でも聞こえてきてしまう。
冷たい美少女の姉は「黒薔薇」で、愛らしい美少女の妹は「白薔薇」なんて呼び名。
まるで瞳に星が輝く昭和の少女漫画である。
何となく古臭さを感じる響きだが、この世界だとむしろ新しいのだろうか。
ところで王太子はといえば赤い髪に眼鏡が特徴、美形なのだろうが何となく腹立たしい顔をしている。
というのも表情の所為、人を小馬鹿にした笑い方。
実力はあるようだが自分が優秀だからと驕って生徒どころか教師までも見下している目だ。
取り巻きは居ても心は開いておらず、唯一「アンディ」と愛称で呼ぶことを許しているのは溺愛する白薔薇だけ。
面白く思わない者からは「サディスト」と陰口を叩かれているらしいが、大抵の場合は性格が悪いだけ。
SMの有識者ほど気軽にその言葉を使ってほしくないと思うもの。
複数の言語を扱う人間も思考は母国語になる。
現世では東洋とディアマン王国、そして前世が日本人で英語とフランス語の講師だったトワはややこしい。
例の三人のことは認識として「アンディ斎藤と内藤姉妹」で落ち着いた。
そうして週に一度の授業、トワは姉の方だけ顔を見かける。
あまり凝視するのも失礼なので授業の傍らに視界の端で把握した。
ストレートの髪はダークグリーン、吊り目が大人びた面差しに長身で立ち姿も凛とした風格。
「孤高の美少女」なんて言われてはいるが、中等部に入学したばかりでまだまだ幼い。
トワから見れば学園に沢山居る子供の一人に過ぎないが、周りの生徒達からは同級生でなく特別な存在として目を向けられる。
それから、やはりここは異世界なのだという実感。
ヴィヴィアの緑だけでなく、前世の自然界には存在しない毛髪や目の色の者が多すぎる。
考えてみればリナも鮮やかな青の夜会巻きだった。
一応は姉妹共に婚約関係とはいえ、王太子は妹の方を心に決めているのは明白。
しかし、どうやら折り合いの悪い姉にもある意味で執心しているとトワは思う。
というのも、こんなことがあったのだ。
ある時、階段を降ろうとしていたトワは下で罵声が聞こえてきて身構えた。
生徒同士の諍いなら止めなければ。
手摺越しに覗いてみて、思わず顔を顰めてしまった。
恐らくこちらの気配には気付いてはいないか。
声の主は、王太子。
女子のヴィヴィア一人に、男子が取り巻き数人と共に喧嘩を売るなど酷い醜聞である。
トワも金手毬とは口喧嘩になることもあるが、結局のところはじゃれ合い。
相手の自尊心を傷付けるような言葉は使わず一線を弁えている。
ところが、こちらは聞くに耐えない。
相手に対して敬意が無く、やたらめったら一方的な悪意を次々とぶつけているだけ。
本人としては残酷な悪役でも気取っているのかもしれないが、第三者のトワには分かる。
これは自分と並ぶほど優秀なヴィヴィアへの嫉妬と、従わないことの苛立ちだ。
対する彼女が冷たく一撃だけ言葉を返すと効果抜群。
言い返せなくなった王太子が拳で窓を叩いて威嚇の後、立ち去ろうとする。
流石にトワも見過ごせず、ここで追い掛けて注意に入った。
割れはしなかったが結果論、単純にガラスなんか叩いたら危ない。
それに物に当たるのも暴力のうち。
この状況は圧倒的に王太子の分が悪い。
それでも取り巻きは「日頃からヴィヴィアの態度が悪くて耐え兼ねて手が出た、彼の方が被害者」と庇う。
彼らに嘘を吐いているつもりは無く、本当にそう信じているようだ。
実に便利な良い目や耳をしている。
優しい言葉を掛けたのにあの対応をされたのならその理屈も通るが、自分達の方から喧嘩を売ったことは知らん振りか。
そこで気付いてしまった。
家庭内暴力で妻子に逃げられた夫の言い分と同じではないか、これは。
あの二人が夫婦になった時の未来が見えて、トワは冷め切った目で静かに笑う。
言葉でドッジボールをしたいのならルールを守れ。
しかも自分から始めたのだろうに。
投げ返されたからって、ボールを捨てて暴力に走るんじゃない。
それらを"鳥兜"の顔と声でゆっくりと諭せば流石に気圧されて固まっていた。
世界のSM界隈で数十年の経歴を持つ本物のサディストを前にしたら、彼らも単なる悪餓鬼集団でしかない。
王太子を叱ったりしてトワの立場が危うくなるか、というのはあまり心配なし。
厳格なだけに、学園側としては例え王家の者でも権力の行使は許さないことになっている。
そうでもなければ下級貴族なんて安心して通えないだろう。
育ちの良い者ほど丁寧な態度で接しなければ。
ガラスを叩いたので、まず怪我の心配という建前を崩さない方が都合良い。
無茶をしたので手も無事という訳にいかず、やはり内出血していたので半ば強引に医務室へ連れて行った。
教育者としての義務を果たして、話は終わり。
ここから先は飽くまでもトワの勝手な分析。
強者を求める者からは、確かに王太子は理想の神にも見えるだろう。
美形、優秀、下の者を従える力もある。
だからこそ賛美する信者は「素晴らしさが分からない愚か者」としてヴィヴィアを糾弾するのだ。
愛とは全肯定することではないのだが。
それに、王太子と同等に肩を並べられる相手はヴィヴィアくらいのものだった。
畏怖に近い形ではあるが「黒薔薇」の呼び名は崇拝から来るもの。
従わせなければ脅威になる。
王太子はそうした恐れを抱いているように感じた。
それにしても対応はあれで良かったのだろうか。
身体一つで出来ることは限られており、あの時は王太子の方を追う選択をした。
代わりに、ヴィヴィアを放置する形になってしまったのは心残り。
ケアは両方にしなければいけないものなのに。
見た限り冷たい横顔のままだったが、多少なりとも怖いに決まっている。
同級生のご令嬢なら震えて声も出ないのが普通だ。
彼女だって何も変わらない。
ヴィヴィアの笑う顔を初めて見たのはそれから数日後のこと。
その日の朝、変なテレビドラマを見る夢を見た。
決して前世の記憶ではない。
オープニング曲がやたら頭に残るもので、起きてからもしばらく頭の中で流れ続けていた。
トワの場合、夢の中で聞き覚えのない曲が流れることはよくある。
しかしすぐ忘れてしまうもので書き留めたりしておかないと何となく勿体無い。
ピアノの経験があるだけにうろ覚えでも弾ける。
「夢日記を続けると狂う」とは言うがもう理由も忘れてしまい、文章でなく音楽でも該当するのかどうか。
月華園ならまだしも自宅にピアノは無し。
そもそもの話、あちらは学園の前日に寝泊まりする書斎なので必要最低限の物しか置いておらず。
「ピアノ弾けたんですね、スギイシ先生」
「……おはようございます」
朝一の音楽室なら空いているだろうと、早めの出勤をしたことが繋がりの始まり。
そうしてピアノで遊んでいた時にヴィヴィアが現れたのだ。
以来、あの変な歌の所為か何だか懐かれてしまった。
そんな要素がどこにあったのか自分では全く分からないのだが。
音楽が好きなことを思い出し、東洋の曲なども教えてほしいとトワのところへ足を運ぶようになった。
師事する程ではないと一度は言ったが、これくらいなら良いだろう。
交流は出勤日の朝か放課後。
仮に同性と二人きりを見られたところで、特に何も疑われず。
それからというもの、肩の力が抜けたヴィヴィアはゆっくりと学園での態度が軟化した。
別にトワしか話す相手が居ない訳でなく、友人も出来たようで楽しそうにしている。
教育者としては安堵するべきところ。
これらが自分の行いの所為だとトワは知らない。
意図せずとして、黒薔薇の棘を取ってしまったのだ。
そして、これも知らなかった。
綺麗な花に伸ばされる手の数を。
棘の無い薔薇は、どうすれば身を守れるか。
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