09:蜘蛛
中庭にも水場があって良かった。
濡らした冷たいハンカチで、青年の火傷した指を包みながらヴィヴィアは思う。
もっとも、咳き込んでいる本人はそれどころではなさそうでも。
出入り口も開いていたので、気が咎めながらも思わず踏み込んでしまった。
初対面の異性に触れるなんてはしたないが、今はそんなことを言っていられず青年の背中を擦る。
こういう時、世話焼きのヴィヴィアは黙って見ていることが出来ないのだ。
幽霊の正体なんて本当に下らない。
というか、疑ったりした自分が恥ずかしくなる。
彼は前の舞台で殺人鬼役だった青年。
仕事上がりに隠れて一服をしていたところ、ヴィヴィアに驚いて煙草を落としてしまったのが真相である。
火傷するわ噎せるわでなんたる災難。
異界に居たので麻痺していたが、確かに仮面までしているのだからヴィヴィアだって怪しいか。
むしろこちらが悪かったくらい。
舞台では憂鬱を着飾った青年も灯りの真下、間近で見れば血の気が通っており安堵した。
年は二十代半ば程で後ろが襟足に届く褐色の髪。
舞台の仮面で隠されていた下は切れ長で細めの目に薄い唇、シャープで端正な顔立ちをしている。
顔の輪郭も身体つきも引き締まっていて美しいが、どうしても危うい印象が拭えない。
それというのも舞台でも見えていた蜘蛛の巣と蝶、これは舞台メイクなどでなくどうやら刺青。
仮面を外して衣装も違うのに同一人物と判った理由でもあるのだが。
加えて、裸の胸や腹にもあちらこちら刺青で蜘蛛の巣が張られており自己主張が激しい。
今は背中を向けているが、この格好はやはり目のやり場に困る。
流石に血糊で汚れた服は着替えても、肩に冬物ジャケットを羽織っただけで上半身が剥き出しなのだ。
偏見は良くないと思いつつも警戒の一つもする、加えて正直なところ少し怖い。
実体がある分だけ幽霊よりも。
先程から刺激の強い物ばかりで目が慣れたとはいえ、大勢の観客が居る舞台と人気のない場所で一対一なんて訳が違う。
薄荷に教えてもらった青年の名前は確か、蜘蛛蘭。
「お見苦しいところ失礼しました……」
やっと息を整えたところで涙目をこちらに向ける。
煙草と絶唱の後の所為か、喋る声も語尾が掠れ気味で甘い低音。
さりげなくジャケットの前も留めて肌を隠してくれたので、ヴィヴィアは密かに安堵した。
正された襟で頬の蜘蛛の巣も目立たなくなる。
もう一度だけ咳をしてから、蜘蛛蘭は地面に落ちた煙草を忘れず摘み上げた。
携帯灰皿代わりでキャンディの小さな空き缶。
可愛らしい蝶の入れ物に、中身が吸殻なのは実にアンバランス。
「道に迷いましたか?ここは関係者以外が入ってはいけませんよ」
そう、傍から見ればヴィヴィアの方が不法侵入者なのだ。
厳しい態度で追い出されてもおかしくないところなのだが、蜘蛛蘭の口調は飽くまでも礼儀正しい。
さながら幼い子供を叱るかのように。
「えっと……鳥兜さんの客なので……」
「ああ!そうでしたか、師匠から聞いてますよ」
「師匠?」
「はい、僕も緊縛師なんです」
どちらかといえばヴィヴィアも低めの声。
男性を装って更に精一杯下げると、呟き半分の喋り方しか出来ない。
そんな言葉でも丁寧に拾い上げて蜘蛛蘭は返してくれる。
来客の件は薄荷やカミィにも伝わっていたのでこれで分かるとは思ったが、ヴィヴィアのことを詳しくは明かしてないようだった。
どうやら性別にはまだ気付いてない模様。
懸命に男性のふりをしているというのに、ここで勘付かれるのはあまりにも恥ずかしい。
それに異性だと知られるのはやはり不安がある。
疑う訳ではなく、結果的に無事でも今朝負った心の傷はまだ塞がっていないのだ。
そういえば、この国にも何人か弟子が居るようなことをトワが言っていた。
蜘蛛蘭もその一人らしい。
納得しかけたが、呑み込む前に待ったが掛かる。
舞台に立っていた蜘蛛蘭の歌だ。
殺人鬼の激情を表現するあんな素晴らしい喉を持っているにも関わらず、本業でないとは。
「以前は歌手か何かで……?」
「いえいえ、歌は飽くまでも芸の一つで。ここに居る以上は芸人ですから、他にもポールダンスでも何でもやりますよ」
医者の道を捨てて奴隷になってしまったという雪椿の例もある。
もしかすると同類だろうかとも思ったが、蜘蛛蘭が特別に器用なだけらしい。
先程目に焼き付いた縄の魔法を思い出す。
歌だけでも凄い魔法なのに、彼もまた別の魔法使いだとは。
「でも師匠の緊縛に感動して人生変わったのは合ってますね。
「まぁ……確かに、綺麗でしたしね……」
「えっ、もうラストステージ始まっちゃってました?」
「というか、もう終わる頃かもしれませんけど……」
途端、額に手を当てて座り込んでしまった。
見逃した事実にあからさまな気落ちの唸り声まで。
ちょっと一服だけのつもりが、どうやらゆっくりし過ぎたらしい。
ところで「それではこれで失礼」と立ち去るチャンスではないだろうか。
そう伝えようと蜘蛛蘭が上向きで溜息を吐いたところで口を開きかけた、のに。
灯りの下、こちらを見上げている色素の薄い瞳。
光の加減で確かに移り変わった。
用意していた筈の言葉も忘れて、その不思議な色に一瞬見惚れてしまう。
普段なら他人の瞳など気に留めないにも関わらず。
怖かった頬の刺青すら気にならずに。
ちょっと待って、と目を凝らして再び覗き込もうと。
だというのに不意のこと、その目もまた細められた。
何故か蜘蛛蘭も同じ顔をしている。
凝視の無礼に対してかと思えば、そうではなく。
「あれ……あなた、もしかして女の子……?」
「お黙り」
疑問を遮って、見下ろしながら冷たく告げた。
魅入られかけていたヴィヴィアは自分の声で我に返る。
好奇心を断ち切り小さく後退の一歩二歩、そして今度こそ踵を返した。
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