10:朝
恐る恐る引き返してみたら、逆方向を探していた薄荷とカミィに合流出来た。
もうショーも終わりを迎えており、そのまま衣装部屋で着替えてから共に住み込み寮へ戻ることに。
ジャケットを脱いだ時に蘇る煙草の匂い。
どうせ店で付いたものだろうに、ヴィヴィアが思い出してしまったのは蜘蛛蘭のこと。
刺激の強い物は沢山見たが、中でも彼はまるで異界の生き物だった。
身体に蜘蛛の巣の模様を持ち、不思議な目の色。
煙草を好むにも関わらず実に美しい声で鳴く。
「お黙り」は無かった、流石に。
全てを初めて飲んだ酒の所為にしたいところだが、三口程度では身体に異変は何も無し。
部屋までの道すがらはまたも一人反省会。
階段を壁伝いに上りながら、唇から飛び出た自分の言葉がゆっくりと重みを持つ。
戻って謝罪するのも格好が付かず、かといってもう会うこともないだろうし機会を逃してしまった。
そう、これは一晩限りの夢なのだ。
明日には学園も花街のことも忘れて汽車で発つ。
寄り道から本来の経路に戻るだけ。
だというのに、ここはなんて居心地が良いのだろう。
「……ああっ!」
ヴィヴィアがトワからの置き手紙に気付いたのは、翌日になってからのことだった。
寝起きの目で読むには何もかも遅い内容。
どんな夜を迎えたとしても、昨日と同じ顔で何でもない朝が来た。
やはり希望に満ち溢れて物悲しいほど澄んだ空気。
花街が寝静まり、太陽は店仕舞いを告げる。
日付が変わる前にベッドへ入ったが眠りは浅め。
瞼を閉じると異界での光景が目だけでなく胸に焼付いており、まだ後味が弾けている感覚。
いつまでもブランケットに包まって身動ぎなどしてはいられない。
習慣で早く目が覚めて着替え、身支度だけは整えた。
夜の住人達はまだ眠っているので静かにしないと。
にも関わらずノックの音は不意に。
誰かなんて言うまでもなく、迎えに来たトワ。
「おはようございます。朝一の列車に乗るから、荷物を纏めたら下に降りてくれ」
ドアを開けたら出発のお知らせ。
それもそうだ、花街から駅までは距離がある。
ここを出るなら早い方が良い。
だから、ヴィヴィアの気持ちを伝えるなら今だ。
「すみません先生。私、先程初めて手紙に気付きました」
「あぁ……良いよ、そんなものは」
「なので、お店でショーを拝見させていただきました」
「……見たのか」
苦い声で身構えられたが、ここで怯んではいけない。
一呼吸の後にヴィヴィアは意思を吐き出した。
「私、ここで働きたいって、今は思っています」
その瞬間に空気は変わる。
狼狽にしては控えめ、けれど確かに表情が固まった。
いつも涼しい態度だったトワが昨日から初めて見せる姿ばかりだ。
五年間の学園では決して知り得なかった。
そこから先は、酷い偏頭痛に堪えているような顔。
一方のヴィヴィアは言い淀みもせず視線も真っ直ぐと。
「……馬鹿なこと言わないでくれ」
「折角のお誘いでしたが申し訳ありません。でも、これが馬鹿なことなら先生だって大馬鹿ではないですか?」
「私は良いんだよ……生まれる前からそうで、今生もそういう生き方しようと決めたんだから……」
「先生は時々よく分からないことを口にしますね、本当に」
生まれる前からなんて本当におかしなことを言う。
臍の緒で自縛でもしていたのか。
そんな冗談は置いといて、まだ話は終わっちゃいない。
「ヴィヴィア嬢は違うだろう、そういう生き方は……一時の好奇心や物珍しさだけで惑わされないでくれ」
「いえ、私が一晩考えたことで決めたことです。商会でも先生との縁は切れないでしょうけど、あなたが生きている世界に私を置いてはくれませんか」
「私は君にそうやって慕われるようなことなんか何もしてないし、そんな人間ではないよ」
「そうですね、私のことを公爵令嬢でもなく黒薔薇でもなく一人の人間として認めてくれたのは先生だけでしたから」
だからヴィヴィアは折れずに今まで生きてこられた。
監獄じみた学園でも、断罪劇の場でも。
これはただの告白だ。
同じだけの感情なんて最初から望まない。
与えられたことの礼、そして形振り構わず縋り付いてでも傍に居たいと。
学園で頑なに隠していた夜の顔、それに救われたのだから拒絶なんて出来やせず。
明かしてくれたトワの部分をもっと分かりたい、知りたい。
ここで大人しく従って身を引いてしまったら最後だから。
「ちょっと、落ち着いてくれ……折角自由になったんだろう?やりたいことがこれというのか?」
「そりゃあ……ええ、私の目指していた道に比較的近いところにありますし……」
その時、開けたままだったドアを叩く音。
「話は聞かせてもらったっていうか、丸聞こえなんだけど?」
また突然に風向きは変わる。
ここで直々に登場、月華園の女主人。
金手毬という女性は化粧を落としても美しい顔立ちだった。
近くで初めて気付いた、口許にほくろが一つ。
長い癖毛のミルキーブロンドを軽く束ねて、ルームウェアのガウン姿。
静かにしろ、と苦情なのかとばかり思っていたのだが。
次に告げられたのは意外や意外。
「スタッフはいつでも募集中。面接くらいはしてやるから来なさいよ、お嬢さん」
口の端で笑って手招きする。
からかっているだけか本気か、半信半疑。
それでもチャンスならば手を取るしかない。
「テマリ、お前……面白がってるだけだろ」
「そうね、アンタが困ってるのは凄く面白い」
どういうつもりかと言い合いながら階段を降りて行く背中。
鴉と花嫁、舞台とは違って随分と砕けた雰囲気だった。
寝起きの気怠さが自然な色香を漂わせて、不敵な含み笑いでトワをあしらう。
まずはお名前と年齢、ご出身は?
「ナイト公爵家当主ハウスマン・ナイト五子の四、今は縁を切りただのヴィヴィアに御座います。今月で18歳になり成人を迎えました」
「訳あり、行く当て無しってとこかしらねぇ。鳥兜の客人ならもしかしてディアマン・ブラン学園じゃない?何だってそんなお嬢様が花街に居る訳?」
「"女漁りしていた"と王太子に濡れ衣を着せられて追い出されまして……」
「……そいつ王にしたら独裁国家になるのでは?」
これだけでは流石に言葉足らず。
説明が求められて、生い立ちから追放まで包み隠さずに。
下手に誤魔化すこともせず、恥なんて知るものか。
貴族でないなら守秘義務なんてものも無し。
金手毬は黙ったままで聞く姿勢。
トワに目線で合図して嘘がないことを確認する。
大体の事情は把握、そこからだ。
「今まで虐げられてきた恨みを合法で八つ当たりしたいってのならお断りだけど、その辺は分かってる?」
金手毬は視線と言葉で強く突き刺すように。
ここでヴィヴィアが思い当たる節あれば、冷や汗の一つも掻いたことだろう。
しかし、実際には思わず首を傾げただけ。
何だか話が噛み合わないことに気付いてしまった。
もしかして、大きな勘違いされているのではないだろうか。
どうやら答え合わせの必要がある。
小さく手を挙げ、恐る恐る伝えることにした。
「……あの、私、ピアニストでの応募なんですが」
途端、金手毬もトワも僅かに声を漏らした。
もしや予感的中か。
「あの……私がピアノの道を目指してたって、先生もご存知ですよね?」
「あぁー……それは失礼、てっきりS嬢かと思ったわ」
「いや、だからって、ピアノ弾ける場なら他にもあるだろう……」
先程の物騒な発言は一体何だったのかと思いきや、やはり盛大な行き違いがあった。
ピアノに八つ当たりって何だ、乱暴に扱うなということか?そんなの当たり前ではないか。
それにしてもS嬢だなんて、今度はヴィヴィアの方が声を上げてしまうところだった。
ふと、昨夜ステージで鞭を振るっていた女王様の姿を思い出す。
自分と重ねようとしてもイメージは作れず。
無い、ありえない。
「いやごめんなさいね、何かもう、アンタ見るからに適性あったもんだから」
「あぁ……そう思ってたの私だけではなかったか……」
「それは褒めてますか……?」
何なのだ、二人して。
気を取り直して面接を続けましょうか。
今度は質問変えて、ピアノ歴は?得意な曲は?
「3歳から習ってました。水晶夜想曲が得意です、暗譜だって出来ます。一度は音楽学校を目指していました」
「それは頼もしいことで」
「トワ先生から教わった東洋の曲も弾けます」
「ああー、クラシック以外のジャンルもイケるのね」
どうしてここで働きたいかって?
トワのことも勿論あるが本当の理由としては全てではない、まだまだ足りぬ。
ただの音楽鑑賞や観劇ならば幼い頃から数え切れない。
中には、楽しみにしてたにも関わらず眠くなる程に退屈な時だってあった。
昨夜、耳だけでなく全身で浴びた音楽の酩酊感。
酒なんかよりもよっぽど酔い痴れた。
初めて聴く曲なのに色濃く残っている。
ノエの澄んだ闇、白蓮の蕩ける蜜、蜘蛛蘭の甘い毒。
一度味わっただけではとても満たされず、今もあの浮遊感に焦がれる。
本当にこんな体験は初めてだったのだ。
今のヴィヴィアが持っているものは音楽への愛と技術、これらは誰にも奪えない。
ここで活かすことが出来たのならばきっと最高だ。
「じゃ、弾いてみる?」
その後も質問は幾つか続いたが、ピアニスト志望なら技能試験も欠かせない。
連れ立って舞台へ上がった時は心臓が早鐘を打った。
学園の舞台からピアノを弾いたことは何度もあったが、ここからの光景は全く違う。
灯りは必要最低限、浮かび上がる無人の店内。
寝静まっていたので夜よりも尚暗い。
窓がない為に太陽は届かず、更に洞窟じみて見える。
練習を一日怠れば、取り戻すには三日。
肝に銘じていた言葉でヴィヴィアに緊張が走る。
けれど、それは杞憂。
乱れた息を整え、指先から生まれる音は繋がり、やがて旋律として流れ出す。
ああ、やはりピアノに触れるのは嬉しい。
水晶夜想曲は煌めきと静寂が織り成す幻想的な一曲。
何度も何度も奏でてきた美しい神秘の調べ。
大事な試験でもあるというのに喜びが先立つ。
数日の空白を埋めて、音楽が身体を満たしていく感覚に一人で微笑んだ。
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