08:鴉

呆けた口許は気付けば開けっ放し。

今は扇子を持ってないので迂闊にも丸見えだった、はしたない。

とはいえ、客達は誰でもが先程の惨劇に目を奪われていたのでヴィヴィアを見ている者は居ないので小さく安堵する。

一息のつもり、喉が渇いていたのでビアグラスを手に取った。


ランプの灯りで透き通った金色に、細かく泡立つ白。

ビールもこうして見ると綺麗で思わずまじまじと眺めてしまう。

酒の種類なんて碌に知らないので適当に注文してしまった。


ああ、そういえば酒を飲むこと自体が初めてだ。


成人の18歳を迎えたのはつい先日のこと。

厳しい学園では持ち込みどころか外でも許されず、卒業まで待たねばならない。


恐る恐る唇を付けてみれば、最初は泡ばかり。

もう少し傾けると液体が流れ込む。

舌に沁み込んで引き締まる苦味に、意外と果実に似た芳醇な香り。

喉越しが良いのでつい受け入れてしまったが、後から穏やかに痺れがやってくる。



ゆっくりと三口ほど飲んだ辺りで、また舞台の世界は変わる。

そうこうしている間にもう最後の時間。



終演を飾るのはミルキーブロンドの美女だった。

年の頃は女盛りの三十代か。

緩めに結び上げて隙のあるヘアスタイル、伏し目がちの笑みが成熟した艷やかさを持つ。

均整の取れた身体にシャンパンゴールドのドレスとストールを合わせ、煌びやかな気品。


彼女こそがこの月華園の主人、金手毬キンテマリ

立ち姿だけでも確かな風格がある。



「そうそう、それであっちの黒髪の方が……」

「鳥兜、さん……でしょう?」

「よく分かったね、お面してるのに」


女主人の影のように寄り添う漆黒が一人。

あれは、今朝初めて逢ったトワだ。

鳥兜という名の緊縛師。


黒地に精巧な金模様を施した鴉の面。

目許までは完全に覆い隠されており、顔の下半分は開いているが嘴の陰でほとんど見えない。

付け毛かウィッグか、短かった髪は首の後ろで一結びの長い尻尾を生やしている。

男物の正装を着こなし、全身モノクロで固めていた。



登場した時から距離は近かったが、演奏が始まってからが本番。


髪に、頬に、触れ合う指先一つで愛しさが伝わる。

そうして恋人の甘さで鳥兜が背後から抱き寄せてストールを奪うと、剥き出しになった肩に唇を落とす。

とはいえやはり仮面で隠れてしまっているので、客達からは嘴で啄む痛そうなキスに見える。


鳥兜が指先でジッパーを鳴らすとドレスは滑り落ち、金手毬の足元にはシャンパンの水溜まりが出来たようになる。

あれもまたステージ衣装か。

情交の前を思わせる黒い下着姿。

纏う色が変わり、その身は鴉の番として染まった。



ここから先は腕だけでなく縄が伸びる。


鳥兜の手はまるで魔法使い。

目の前で起きているのに、今何をしたのか分からないままの早さで縄が金手毬の肌に絡まっていく。


これは共に無言のまま交わされる睦事。

仮面をしている分、花嫁の反応が求められる。

食い込む様は苦しそうにも見えるのに、その表情には艶が増していく。

鳥兜も途中でジャケットを脱ぎ捨て、シャツの首には汗が滲む。


ここで天井のフックの出番。

縄を掛けられ、翼を持たない鴉の花嫁は腰や足首だけで宙に吊られる。

ここでまたも魔法の所業。

浮いていた身体が鳥兜の手で軽々と一転、逆さまになって背を反らした。

結んでいたブロンドも解けて乱れ髪が光に透ける。



胸が痛くなるほど美しい。

否が応でも目を離せず、光景は焼き付く。


一昨日からヴィヴィアには様々なことが身に起きた。

嘘により追放され、救いの手を差し伸べられ、拐われ、また助けられて。

今まで過ごしていた世界から遠く遠く、ここに居る。

それでも、どこか実感がないままだった。


薄闇の中、光を浴びるステージに浮かぶ幻想。

これこそ夢の中の出来事みたいなのに。

真っ直ぐ突き刺さって、その重く鈍い衝撃は胸を震わせる。


全くの無意識、知らない間に濡れている頬。

悔しさにも悲しさにも気丈な心で耐えていたのに、やっと泣けた。



「すみません……ちょっと、私……」


居た堪れなさで思わず席を立った。

涙は仮面に隠れても、鼻声で勘付かれてしまったかもしれない。

薄荷とカミィも慌てて追おうとしたが、何しろショータイムの客席は暗い。

突然立ち上がった所為か、椅子に足をぶつけて小さく躓いた気配。


いつもなら止まるところだが、今は気に掛ける余裕がない。

スタッフ専用出入り口から逃げ出してしまった。



扉一枚隔てれば、もう別世界。

ずっと魔物の巣じみた場所に居たのだ。

音楽も妙な熱気も遠ざかり、急に現実へ帰ってきた気分で宛もなく彷徨う。


正直なところヴィヴィアにも分からない。

これは一体、何の涙か。


あまりにも綺麗で感動したのも本当。

かと思えば、知らなかった面に驚いたのも本当。

他にも言い表せない物が混ざり合って、水音を立てて溢れて、流出してしまった感覚である。

初めてのアルコールが栓を緩めたのかもしれない。


俯いていたら足元しか見えやしない。

残してきた二人が少し心配だし申し訳ないが、まだ戻るつもりはなかった。

そろそろ目的地を決めなければ。


目許を拭って顔も上げて、ヴィヴィアは一人で歩き出す。



建物同士を繋ぐ渡り廊下は屋根や柱だけの簡素な物でなく、木の壁とガラスで四角い筒状に固められていて外から侵入不能。

ヴィヴィア達が使った出入り口だけでなくもう一つ、舞台裏側からも同じ通路。

そうして渡り廊下同士に囲まれた間には月華園の住人しか入れない秘密の中庭があった。


来る時に窓から少しだけ見えただけだが、なかなか見事なもの。

季節は枯れ木ばかりになりつつある晩秋。

あちらにはまだ鮮やかさを保つ花や緑に、小さくて可愛らしい温室もあって立ち止まりそうになった。


とりあえず緑に癒やされて落ち着こう。

この異界なら植物図鑑でしか知らない花もあるかもしれない。

夜の静かな庭もさぞ幻想的なことだろうと、心音が踊る。



そう、ただ渡り廊下から眺めるだけのつもりだった。

煙を漂わせて佇む人影に気付くまでは。



灯りは中庭の出入り口付近と、渡り廊下に燈されたガラス越し程度。

中庭自体は暗いので単に見間違いかと思いきや、そうではなかった。

目を凝らしても擦っても、ぼんやり浮かび上がる人影は消えない。


空には冴えた月、美しい夜は雰囲気満点。

幽霊だとしても何らおかしくないと思ってしまう程に。


そんな時に影が振り返ったのは不意のこと。


赤く小さな火に照らし出されて、ガラス越しに合った目。

息を呑んでヴィヴィアも思わず怯んでしまう。

が、あちら程ではない。


「熱ッ!」


驚いて飛び跳ねた肩と、火が消えて上がる悲鳴。

正体も分かってしまえばどうということは無かった。

ある意味で幽霊というのは正解か。

見覚えのある褐色の髪、先程舞台の上で人魚に喰い殺された青年と気付いた。

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