03:降臨

「商品に余計な傷を付けやがって!」



気絶からは不意に怒号で叩き起こされる。

直接頬を強く打たれたように。


目を開けてから数秒、ヴィヴィアは身に起きた悲劇を思い出して頭の中がぐらりと揺れる。

どうか夢であってほしかった。

もしくはこのまま二度と目覚めなければ良かったとすら。



ここは薄暗く埃っぽく、どこかの物置か何か。

遠い窓から差し込む光の強さからして、もう太陽は昇りきったようだ。

外よりは風が凌げてマシかもしれないが、ネズミでも出そうな床の汚さ。

布を噛まされ後ろ手に縛られ、ヴィヴィアとトワは無造作に転がされていた。


つい最近まで、清潔に保たれた立派な校舎で純白の制服を着ていたのに。

温室育ちのヴィヴィアはもう髪も服もすっかり薄汚れてしまった。

寒い朝を歩く為だったコートはただでさえ繊維が付きやすい。

薄く積もっていた塵芥が纏わりついて、今にも咳が出てしまいそうだ。

こんな時でも日差しに舞って輝く無数の埃がやたら綺麗。



身動きが取れないならまずは状況の把握。

扉は薄く開き、あちらの部屋には口論する二人。

背を向けているのは忘れもしない、あの誘拐犯か。

反射的に身構えたが同時に眉を顰めた。

あんなにも恐ろしかった彼もまた怯えている。

その向かい、今しがた怒鳴った見知らぬ中年男性に。


筋肉太りで大変立派な体格、潰れたような鼻に大きく裂けた口で恐ろしい形相。

闘犬のピットブルによく似ていた。


ヴィヴィアが起きているのは知らずに会話は続く。


拾って繋げるパズルのピース。

会話を統合すると、状況が見えてきた。


ここは王都から馬車でそう遠くない花街の娼館。

誘拐犯と向かい合っている闘犬のような男性は店主。

「商品」とはヴィヴィア達のこと。



酒と色事に彩られた花街の住人は夜行性。

朝にはそれぞれねぐらへ帰るものなのだが、はぐれ者も居る。

それもとびきり悪い悪い獣が。

遭遇したら最後、運が悪かったとしか言えない類の。


人目のない早朝、無防備な女性の二人組。

狙わなければ損をするとすら思い込んでしまう強迫観念で、衝動的な犯行だった。



「この大荷物だ、どう見ても今から旅行だろ?行方不明になっても足がつきにくい」


荷物?


目をつけられた理由を聞いて、ヴィヴィアは青くなった。

まさか、そんな、トワを巻き込んだのは私の所為だなんて。


自分一人だけならまだ耐えられたのに、最も敬愛する人が傷付くなんてこんなにも辛いことがあるか。

まるで疫病神じゃないか。

どうか関係ないトワだけは助けて欲しい。

居もしない神に祈って、今度こそ泣きそうになる。



肩を震わせてしゃくり上げそうになった時、傍らで身動きする影。

いつの間にかトワも目を覚ましていたようだ。

血で汚れた額が痛々しい。

大丈夫か、と布を噛まされたまま喋ろうとしたが、ヴィヴィアは言葉を呑み込んだ。


おかしい。


先程まで自分と同様に後ろ手に縛られていた筈だが、どうしたことか。

巻き付いていた縄が音もなく解けている。


「悲鳴は上げるな」


そして、どうしてそんなにも静かな無表情でいられるのか。

驚くほど冷静に命じてから、ヴィヴィアの口に当てられた布を奪う。


「えっ、何で……っ」 

「こんな杜撰な縛り……まったく、縄を舐めてる……」


やはり何でもないようにこちらの縄を手際良く解く。

縄を舐めるとは一体どういう意味なのか。

決して取り乱したりはせず、冷えた怒りを滲ませながらの呟き。



派手な破壊音に思わず飛び上がった。


どうやら扉の向こうは店主の叱責で決着は付いたらしい。

店主の剛腕がほんの一撃で殴り飛ばし、怪物のようだった誘拐犯は転がるようにして逃げて行く。

単純に暴力は目にするだけで身体を強張らせる。

もっと恐ろしい脅威の姿に、ヴィヴィアは再び青くなってしまった。



脱出するなら今のうちなのだろうが、窓は遠く小さい。

加えて、出入り口はあの扉一つ。

隠れることも出来ない狭い部屋に、店主が足を踏み入れた。

むしろ本当の危機はこれから。


薄暗い室内、煙草の先で燻る赤だけが鮮明。

こんな小さな火でも恐ろしい。

彼の機嫌一つで傷を負わされることもあり得るのだ。


「あぁ?何で……っ」


今度は店主が驚く番。

流石に縄が解けていることには開いた口が塞がらず。

そうして怯む隙をトワは見逃さなかった。



こんな時に英雄ならどうする?

圧倒的な強さか、それとも魔法か、華麗に巨漢を薙ぎ倒す。

ついそんなことを考えてしまった。

この世界にはそんなものお伽噺にしか存在しないのに。


結果的に、そんな物は必要なかった。


構えられた縄はトワの思いのまま。

凶暴な蛇が襲い掛かるかのごとく、鋭く床を叩く。

確かに、見えた。

何かが爆ぜて火花まで散った錯覚が。


「黙れ」


一撃を喰らわせた空気に加わる、たった一言。

それだけで場の支配者は彼女になった。



のみならず縄を両手に構え、そのまま店主の首の後ろへ緩く。

締め上げる為ではない。

こちらを向かせ、目を奪う為の行為。

トワの方も突き刺す視線は堂々と、店主の全てを見透かすかのように。


「まだ私が分からないか、豚め」


今度は奪った煙草を咥えて、悠々と。

緊迫していた空気にふわりと苦みを混ぜる。


喫煙している姿すら初めてだ。

ヴィヴィアの前に居るのは本当にトワなのだろうか。

学園という集団の中で決して目立たない彼女の存在感に今は気圧されてしまっている。


いつもならば決して荒げず、ゆっくりと聞き取りやすい喋り方なのに。

それが今はどうだ?

氷どころか、もっと冷たく重く。

金属を打ったがごとく確かな響きを持った声。


これではまるで別人ではないか。

先程からずっと冷酷なる軍人でも乗り移っているかのようだった。



一方、豚呼ばわりされた店主も気圧されたのは同じ。

この空間の重力が増したような感覚で、痺れすら覚える。

這い蹲って見ているだけのヴィヴィアでもそうなのだ、直接浴びせられている彼は何倍になるか。


しかし我に返れば怒り狂うかと思って恐ろしくなるが、そんな気配は無かった。

それだけでなく凶暴な顔は驚愕に塗り替えられる。


「そのお声……っ、その縄さばき……ト、トッ……」


トワの名前を知っている?

まさか知り合いなのかと思えば、急に脚が溶け去ったような勢いで娼館の主は手と膝を床に着いた。


そして這い蹲ったまま、トワを見上げて鋭く叫ぶ。



鳥兜トリカブト様ッ!」


せんせい?


「気付くのが遅い」


せんせい?!



鳥兜、草烏頭、トリカブト。


白やピンクもあるが、主に青紫の花が美しい。

そして植物界で最強の猛毒を誇る。

花から根に至るまで含まれて摂取すれば命は無し。

誘うようにほのかな甘い香りを持つ。


薬学にも興味があったので代表的な毒草くらい分かる。

頭の中にある図鑑を捲って、現実逃避。



「申し訳ありません!申し訳ありませんッ!」


この汚い床に薄くなった頭を擦り付けて店主は泣きながら許しを求める。

本当に何が起きたのだろうか。

先程まで凶暴で立派な闘犬ピットブルだったのに。


もう今や、飼い主に縋り付くパグ。



「私よりも頭を下げる相手が居るだろう?」


そう言って、トワがあの静かな目と声をこちらへ。


傍観者が舞台に持ち上げられるのは突然のこと。

急に矛先を向けられて、今まで透明だったヴィヴィアの存在が浮上する。

ああ、私のことを忘れていた訳ではなかったのか。


「この娘は新人ミストレス。さぁ、挨拶しろ」

「は、はい……」


返事をして、あの恐ろしかった店主がこちらに跪く。

トワに立たされてヴィヴィアも腹を括った。


ここで自分が狼狽えたら全てが無駄になってしまう。

一度は王妃を志した公爵令嬢は小さく息を整えた。

背筋を伸ばせ、顎を引け。

気の利いた言葉など一つも浮かばずとも、目で冷静を保てば何も要らない。

大丈夫、氷の視線ならば得意なのだから。


貴族育ちなら手の甲にキスの風習は知っている。

けれどこれは流石に初めてだった、靴の爪先にされるなど。


突き上がった店主の尻に、またトワの縄が鞭代わりに一撃。

痛そうな音に短い悲鳴で飛び上がった。

なのに、どうしてそんなにも嬉しそうなんだろうか。



「えーと……トリカブト、先生?」

「……やめてくれ」


冷徹な面は再び隠れてしまった。

這い蹲った店主から今のトワは見えないだろう。

片手で隠した恥ずかしそうな顔。

そういえば、ピアノの前で初めて遭遇した時以来かもしれない。


涼やか、知的、物静か。

そうとばかり思っていたトワの殻がひび割れて、何かが覗いた。



「さっきの、水戸黄門とか東山の金さんみたいだったな……」


独り言はヴィヴィアの耳にしか届かない。

時々、トワはよく分からないことを口にする。

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