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 あかい。

 このあかはどうだ。

 俺が殺した露西亜ロシア兵の血の色。

 紅い。紅い……紅い。

 江口順三は昼寝から目覚めた。と同時に低いうなり声を上げた。夢の中で見た色が、刺すように目に飛び込んできたのだ。

 一瞬夢との境界が崩れて、江口は首を縮め身構えた。だがその色は、庭に植えられた満開の百日紅さるすべりであった。

 江口は一層の疲れを感じて、胸元に溜まった汗を浴衣の袖で拭った。

 また戦争の夢を見ていた。

 大韓帝国(朝鮮)と満州(中国東北部)に対する支配を巡っての戦争。いわゆる日露戦争だ。日本軍は約二十五万人。対して露西亜軍は約三十一万人だった。

 日本軍はそれまでの戦いで人命と砲弾を消耗しており疲弊していた。日本は負けるだろうと世界中が思っていた。だが世界最強と言われた露西亜のバルチック艦隊を日本海軍が殲滅した。これが日本の勝利を決定付けることになった。

 江口は日本海軍の大尉であった。人を殺したという戦争の記憶は江口をさいなみ、心を蝕んだ。生きて帰ったことを喜ぶ妻を見るたびに、江口は今生きていることが自分に対する罰のように思えてならなかった。

 縁側を開け放した八畳の居間に、ぬるい風が申し訳程度に吹き抜けている。その風にはわずかに線香のにおいが混じっていた。

 庭の向こうは墓地なのだ。江口が妻の光子と一緒に間借りしてるのは、麻布谷町にある慈光院じこういんの離れである。

 慈光院は寛文年間に創建された古刹だ。御一新の頃には徳川にゆかりのある女性にょしょうが、この離れで暮らしていたらしい。庭から墓地が見えることをのぞけば、女中部屋まである立派な離れだった。

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